※何者にもなれなかったある女の話
水面に張った薄い氷のように脆くて壊れそうな……。
この世界がもたらした平和とは名ばかりだ。ここは偽りの箱庭。
いつかは終わる儚い世界。
この危うげな世界の均衡を保つために、その裏では今も数えきれない程の多くの血が流れることによって、その危うげな世界の平和は静かに保たれていた。
そんな世界の隅で生まれ落ちた日を私は知らない。
ただ、幼き日に私を疎んでいた美しい母がいた。
父親の顔は……覚えていない。
いや、父親と呼べる存在なんて皆無だった。気付いた時には私も母と同じように、母の人生をなぞる様に生きていた。
誰も問い掛けはしない、そうでしか私は生きていく術を知らないのだから……。この世界はいつも狭く、薄暗く、閉鎖されているのだと思っていた。
私は標のない暗い暗い道をただ裸足でひたすらに歩いていた。母は身体を売って、そのお金で私を育ててくれた。だけど、母の家には毎日違う男が顔を出す。
その時は朝でも夜でも追い出された。そして、時々母の機嫌が思わしくない時は容赦なく殴られた。
「こっち来るなよ!」
「お前の母ちゃん、汚いんだよ、お前の母ちゃん売女!」
「そうだ! 売女! 売女! お前も売女バイキンがうつるだろ!」
だけど、私には逃げ場がなかった。母に殴られ、家を飛び出しても、今度は同じ年代の子供たちがニヤニヤしながら私の傍に駆け寄ってきて。
遊ぼうと話しかけても殴られたり、いつも石を投げられたり、最悪服を脱がされ、泣きながら裸のまま家に帰ったこともある。
ただ悲しくて、どうして自分が虐められるのか、わからなくて、いつもいつも私は泥だらけになって泣いてばかりいた。だけど、不思議と悲しくはなかった。
孤独ではなかったからだ。幼い頃、私の傍にはいつも彼が居たから。彼は私のかけがえのない、唯一の光だった。
彼はみんなより少し年上で、長い脚でみんなを次々と蹴りひとつで黙らせて、そして、ニヤリと笑いながら私を立ち上がらせてくれた。
「お前は相変わらず泣き虫だな、」と。
彼と過ごすようになる中で、私はなぜ自分が虐められているのか、大きくなるにつれてその理由がこの「姓」だと、理解し始めた頃、私を虐めていた男たちに今度は虐められるのではなく、身体を求められるようになって、男という存在に追いかけられるようになった。
だけど、そんな時でも彼はいつも私の一歩先を歩いて導いてくれていた。だけど、そんなささやかな幸せの日々は、長く続くはずもなかった。
とうとう美しさだけが取り柄の母が死んだのだ。憲兵団の相手もしていた母は、翌日酷い暴行を受け下水路に浮かんでいた。
大きな目をかっぴらいて、私を見つめるその目は女としての無念だけが訴えていた。
彼は私に言った。
弱い人間はこうしていたぶられ殺されてしまう。この世で一番偉いのは強い奴だと彼は言った。俺達は底辺の人間だと、底辺から這い上がるしかねぇと。
だから私は虐げられる弱者は嫌だ、強くなりたいと思った。彼と暮らすようになってから私たちは窃盗まがいの事をしては毎日ささやかな生活をして、楽しく暮らした。
私も、彼は笑っていた。
そして、ある日、彼は私の前から忽然と姿を消してしまった。破り捨てられた紙には何年かかるかわからない、だけど必ず私が泣かないで暮らせる日々を送れるようにすると、拙い文字で書き綴られていた。
それから、彼という存在を無くした私はあっという間にまた闇の世界へと連れて行かれることになる。
ある日、家に押し入ってきた知らない男たちに囲まれ、彼の名を叫び続けながら後ろ盾のない私はそのまま連れて行かれた。
辿り着いたのは、母が味わったのと同じ底辺の世界だった。そこは私よりもまだ幼く、年端もいかない少女たちがかつての母と同じように肌を襲う寒さ、飢えを凌ぐ為、しみったれた宿で同じようにしみったれた男の相手をしていた。
そして、それに倣う様に私もそうして自分の女を売り、生きるようになった。私には逃げる場所も帰る場所もなかった。
彼はもういない、母の愛を受けられなかった私は、嘘でも誰かにこうして必要とされる間は生きていける気がした。
記憶の中であの時の私の手を引いてくれた彼がいつか迎えに来てくれる事を思い出しながら生きていた。
ただ一つ与えられた私の名前。その名を口にして。私は……生を、生きる場所を確立し、見出していた。
いつか信じていた、この闇に閉ざされた世界から私を救い出してくれる彼の手を。だけど、来る日も来る日も、繰り返す同じ変わらないその日々に精神は今にも壊れてしまいそうだった。
だんだん、彼以外に抱かれる事に拒否反応を示すようになった。次第にその男だけを求め、朧げな思考の中で私はついうっかり彼の名前を呼んでしまった。
しまった――……。気づいた時にはもう遅い。最悪なことに今日私が相手をしていたのは、この娼館の大事な大事なお客様。
誰と間違えているんだと、狂ったように幾度も商売道具の顔面を殴られ、腹を蹴られ、地面に叩きつけられ犯されながら酷い暴行を受けた。
二度と、商売が出来ないような身体にしてやる。どぎつい口臭から浴びせられる罵声にただ、ただ、呻きながら私はあることを思い出していた。
何度も殴られながら私は願い続けた。
「最後に。願うならもう一度あの人に会いたい……」
もう、あの人が今のボロボロの私の姿を見ても汚い女だと、蔑み、通り過ぎてしまうくらいにこの顔が変貌してしまっても、きっとあの人なら私を見つけてくれる。
そう、信じていた。
このまま死ぬかもしれない、遠のく意識の狭間で私はかつて母に殴られていた記憶を呼び覚ましていた。
何で、どうして私は生まれたのだろう。この呪われた「姓」がいけないのかと、
私はふと、ベッドの下に潜むように輝く鈍色の刃を見つけた。それはまるであの人の鋭い双眼のようにギラリと輝いていた。
生きたい、生きてもう一度あの人に。叶うのならば会いたい。私は刃を振り下ろしていた。私はこの刃を手にがむしゃらに何かにとりつかれたかのように襲い来る者達をみんな血に染め、悪魔の館にとうとう火をつけた。
痛む腹、足の間を伝う痛みを叱咤しながら、初めて人を手に掛けた事よりも、とにかく逃げなければという思いだけだった。
途中、呆然とするまだ若い娼婦を連れて、この行き場のない世界を逃げた。
まだ私より幾分も若い彼女。名は「オランピア」と言った。この世界で本名を名乗る人はいない。
意志の強い、長い黒髪のそれは美しい子だった事を覚えている。
私の事を彼女は「姉さん」と呼んで慕ってくれていた。この娼館で私はいつのまにかそれなりの年数を生きていた古株となっていた。自然とこの世界で長く生きる私の事をみんながみんな私を姉さんと呼んでくれていた。
彼女を逃がし、私はそれからはそのナイフを手に、体を売るのを止めた。女であることで虐げられるのならばこの身体を使えばいい。
この「女」を売りにして、男を欺いた。
一度奪った命の重さに最初は恐怖し、何度も何度も謝罪した。躊躇いがあったけど、躊躇っていてはこの世界を生きていくことは出来ない、欲しいものは手に入らない。
弱者となって這いつくばるのは嫌だ。他人を犠牲にしなければのし上がっていけない。
欲しいのなら自らの腕で奪えばいい、二度と男には屈しない。そう決めて、そうして生きていた。
幾度も奪い地下の街で歩く中で私はいろんな噂を耳にした。憲兵達はなぜか私の名前を知っていた。源氏名ではない、忌み嫌われていた母から呼ばれていたその名前を。
そして、執拗に追いかけまわされる中で憲兵を殺し回るナイフを持った男の噂を知るのだった。
何故か私は彼の事を思い出していた。 もう何十年も前になる…あの彼との約束を私は未だ信じていた。酒場の男を酔わせてその噂の男を聞き出せば、その男は紛れもなくずっと探していた男だと知った……。そして、私はその聞き覚えのある名前を探して街を走り回ることになる。私は縋り付くように彼の生を確かめ抱き合った。
「迎えに来るのが遅くなっちまったが……お前もすっかり有名人だな、」そう、彼は呆れたように笑って、私を大きな手で抱き締めてくれた。
私の人生はこうして彩り出した。いつか必ずお前を日の当たる世界で生きていけるようにしてやる。だからもう少しだけ待っていてくれ、と。彼はその約束を果たしてくれた。
お互いに少し歳を重ねた。彼は深く帽子をかぶり、男らしい顔つきに、鋭い瞳をしていた。
細身に見える体躯は服を脱げば筋肉質で、それはまるで鎧のような屈強な肉体が私を抱き寄せ私の名前を低い声が呼ぶ。
彼の血の匂い、幾多もの憲兵を殺してきた血が付着した長い長いコートを着ていた。
そしてまた彼と過ごすようになって、私は彼には生き別れの妹がいる事を知った。それは、何という運命のめぐりあわせなのか。あの時、私の逃した彼女――オランピア。
彼女は彼のれっきとした妹だったのだ。
オランピアはその腹に既に知らない客の子供をその腹に宿していた。相手の男は貴族で、それは、上流階級の人間だった。彼が私を地上から迎えに来てくれると、信じて疑わない彼女を私は哀れだとは思えなかった。
彼は既に他の貴族の人間と結婚していたのだから。とても彼女には言えなかった。
もうすぐ生まれるのだと嬉しそうに微笑む彼女を。名前も既に決めていると、彼は何とか子供を諦めさせようとしていたけど、彼女の意志は硬かった。
産むと決めた彼女は凛とした眼差しをしていた。守る者が出来た女は強い、それを彼女は私に教えてくれた。
彼女が愛おしげにまだ平たい腹を撫でる光景が酷く羨ましくて、それはとても奇跡のようなことに見えた。
私もこうして母が私をこのお腹に宿して、どうしようもないところまで育って、だけど産むと覚悟して、そして私は生まれてきたのだと理解した。
相手が誰の子かもわからない子供を宿して、産んで、そして。
またその子供が身体を売るのだろうか、また新たな悲しみが生まれてしまうのだろうか。
あんな思いをする子供なら私一人で十分。この閉鎖された世界は男でも過酷な世界なのに。女は余計にひどい目に遭う。まして、子供なら。
だからこそ、彼女は守ろうと思った。私が産めなかった子供の代わりに、そう、思ったのだ。
私は彼の子供を産んであげられなかったから……。もし望もうが、いや、望まなくても。女が子供を一度その腹に宿したら、置かれた境遇が、置かれた環境が、相手がどうだろうが自分の置かれている境遇なんか考えなくなってただ純粋に「産みたい」と思うのが、母となった女の自然な摂理だろう。
そして、十月十日が過ぎた。刺すような寒さの日、彼女は彼女によく似たとても、色が白くて綺麗な顔立ちをした黒髪の男の子をこの世に産み落とした。
少し彼によく似た男の子を。彼女は産み落とした子を抱き、その瞳から一筋の美しい涙を流した。この子を抱かせてもらい私は噛み締め、決意した。
もし次があるのなら今度こそ何としても産み、育てたい。私も子供を一度でいいから産んでみたい。
心のどこかでそう願う自分が居た。まともな教育を受けた事もないまともな人生を歩んでこなかった自分がこうしてまっとうな人の親になるなんて無理だと理解している。
だけど、この腕に我が子を抱けたらきっと私は世界で一番の幸福者になれるんじゃないか。そんな気がした。
それから、私と彼はこの世界の広さを知るのだった。私たちはずっと、迫害を受けていたのだ。
そして、彼はまた私の前から姿を消してしまう。もう大丈夫だと、お前はこんな薄暗い地下じゃない、お天道様の元で暮らせと。
そして、私は地上に出た。彼の元に下る形で私はかつて自分が虐げられていたあの一角獣の団服を纏う。そして、私は出会う。
――「あんた、いい女だな、なぁ。頼みがある。俺を逃がしてくれよ?
俺を逃がしてくれたら……そうだな、一緒に珈琲でもどうだ??」
そして、彼は言った。
この世界に存在しない見た事も聞いたことも無い飲み物、この壁に覆われたこの美しく残酷な世界の仕組みを知る。
世界はもっともっと、途方もない程に広かった。本当は知っている。彼は自分には見えない場所で静かに自分たちを脅かす災厄の芽を摘んでいる事を。
本当は知っている。 彼は自分には何も告げず、何も言わずにまたいつか消えてしまう事も。
だから自分は必死に目の前の彼にしがみついていた。彼とはまた違う大きくて広い背中。優美な微笑み、上流階級だと言うのがわかるその立ち振る舞い。
いつも自分を守ってくれたその背中ではない背中に縋りつくように。そして、生まれた。
幾度も追われた自分たちはずっとこの壁の世界でこの名で虐げられ、そして生きていた。
静かに息を潜めて、そうして静かに暮らしているだけでどうして自分たちはこんな薄汚い場所でしか生きていけないのだろう。
疑問にさえ思わなかった。私と彼と彼女は楽園の中に溶け込めはい残された人間なのだと。
Fin.
いつか必ず、こんな閉ざされた地下の薄暗い世界じゃない。いつか、必ず陽のあたる場所で。同じ空を見上げたい。
願うなら、この人と…永遠に。そう約束したのに。
「 」
どうして私を置いて行ったの。
2019.12.10
2021.02.15加筆修正
prev |next
[back to top]