長い睫毛、薄い唇にさらさらの黒髪が日射しに透けて輝いて。胸だけがこんなにも高鳴るばかりで。
腕が激しく痺れて彼の腰に回していた腕がダラリと力なく垂れて、飛ばしていた思考をハッと彼に戻す。
まじまじと見つめても全く起きる気配は無さそうで。一体、彼は何歳ぐらいなのだろうか。上背は海よりは大きいが、年頃の男子の平均的には引き締まった小柄であり変声期は終えているが明らかに年下。
小柄で繊細な見かけとは裏腹に適度に引き締まった実戦向きの身体は重く、支えていた身体が悲鳴を上げている。しかし、辛く痛いのは自分だけじゃない。
傷だらけの彼の身体を優しく肩に担いで何度も自分自身に言い聞かせて最後には引きずるように家まで眠る連れて帰った。
引きずった所為でブーツをダメにしたのは内緒にしよう、心に決めた。
「うんっしょ!」
そうしてマンションに到着し、玄関を開けた。もともと正常な頭です!と胸を張る程自分が真っ当な人間だなんて自覚は無いがどうやら自分は家を出る前に玄関の鍵を掛けるのを忘れていた様だ。
その事実に今更になって脂汗が頬を伝うけど今は過ぎたことを悔やんでも仕方ない。今は肩に担いだ彼を運び込むのが最優先だ。
無事に彼を運び出す事に成功して、彼女が持つ有りっ丈の力で彼の肩と膝の後ろに腕を回してそのまま自分がさっきまで眠っていたベットに優しく寝かせて毛布を掛けてあげると真っ青だった顔が少しだけ和らいだ気がした。
顔に掛かった髪をはらいのけてやれば身じろぎをするその仕草も何処か艶やかしくもあった。
呼吸が楽になる様にと彼の蒼い襟元を開くと紫のハイネックが顔を覗かせた。ずいぶん着込んでいる様だ。
そのまま左胸に耳を当てればトクトクと心音と言う名の太鼓を打つ、手のひらをひらひらと口元に当てれば感じる小さな吐息。
彼の小さくて、でも確かな"生"を肌で感じることが出来、彼女は安堵のため息をつくとそのまま床に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「ふぅ……何て一日なの」
まだ朝なのに彼を抱えて自分まで砂や潮まみれの身体。悲しくなんてないのに鏡に映る顔は酷く怯えた様な情けない表情をしていた。
気付けば最近、全く笑ってない事に気付き口唇を強く噛み締める。何だか今日は凄く疲れた。
ベッドに寝かしつけ、それから海はソファに腰掛け暫く呆然と男の子のこれからを考えてみたりと、ほっと一息つくと立ち上がった。エアコンで冷え切った部屋を暖めてあげながら海も深々と冷えた身体や指先を温める。
まずは潮でべたべたで濡れた髪の毛や衣服がただ気になって気になって仕方ない。
シーツや枕カバーや毛布が砂まみれになるがもう手遅れ。仕方無いと言い聞かせて衰弱して眠る彼に背中を向けてバスルームへと歩みを進めた。
脱衣所に飛び込んで前に買った小花柄のワンピースを脱いで下着を外して素足で歩く。
コックを捻って熱いシャワーを浴びながら起きてからたった1時間で起こった濃厚な出来事、浜辺で倒れていたそれは綺麗な男の子の事を思い、気持ちを落ち着けた。
火照った頭を落ち着けるように濡れた髪を掻き上げその拍子に弾けた滴が床に散る。別れた恋人のためにずっと伸ばし続けた髪が今は疎ましい。流れる温水を浴びながらそっと彼に触れた自身の唇に触れると其処だけはやけに熱く感じた。
シャワーの雨に打たれながらふと、恋人に捨てられた冬の終わりの記憶が蘇る。愛を失くした自分には心の底から笑える日なんて来ない。
泣いても笑っても何も変わらない今にただ諦めにも似た気持ちが芽生えて大きな木になって。
ふと、シャワーを浴びながら小さなバスルームでカラフルなボトルの間に目に付いたのは四枚刃のシェービングだった。これでもし、深く深く首を――。
「私が死んでも、悲しんでくれる人なんているのかな?」
その問いかけの返事はない。虚しくシャワーの流れる音がこだまするだけ。
浴室で裸で倒れて死んでいる私を見たらみんなが笑うに決まってるじゃない。太い血管の流れる頸動脈に穿ち自分で命を絶つ勇気なんて無いくせに。賃貸でそんなことをしたら迷惑をこうむるのはほぼ絶縁状態の叔母だと言うのに。
ぎゅっと歯を噛みしめシェービングを元に戻す。濡れた身体に纏わり付く髪を掻き上げ曇り鏡に映る頬はこんなにも上気していた。
そう、先ずは彼をどうするか。一体彼はどこの?人間なのだろう。
知りたい事は山ほど有る。見開かれた濡れた綺麗なアメジストの瞳、反らせなかった。
呻き声が折り混ざる中発した声は低く、動いた喉仏、彼が男の子なんだって認識させた。
まずは彼の汚れた服や傷だらけの身体から何とかしてあげようと思った。
キュッとコックを捻り半乾きの髪をタオルに巻き付けると揃いの下着を付けサックスブルーのセットアップを着るとお湯を張った桶に柔らかいタオルを浸し再び海には大きすぎるベッドですやすやと眠る彼の元へ向かった。
自分のベッドで無防備な男の子の年相応のあどけない寝顔をじっと見つめてみる。良かった。顔色は最初に発見した時よりもずいぶん良いみたい。
ほっと安堵のため息を漏らし海はそっと彼の頭を気が付いたら無意識に撫でていた。
伏せた長い睫毛がゆらゆらと揺らめいて彼の顔に深く暗い影を落とす。身体は確かに発達途上の男の子なのに、その無防備で綺麗な寝顔は美しくて妖しく艶やかで愁いを帯びていた。
さらさらの枝毛なんてこれっぽっちも見つからない綺麗な黒髪。明らかに美形の部類に入る顔。
海は出会ってまだ間もない彼にただ興味を抱いていた。彼の姿にただ赤く火照る頬に頭を抱えてその場に蹲れば肩が震えていた。
――恋は、悲しいもの。今も、そうだ。
どうせ目が覚めたら彼とはさよなら。それっきりの関係だから。
海は無意識に涙を流しながらそんなことをぼんやりと頭の片隅に描いていた。
さらさらの黒髪を撫でながら気が付いたら海は目の前で眠る彼の寝息と確かな心音を子守歌にそのまま眠りに落ちてしまった。そして、冷たい真っ暗な暗闇の中で海はまた夢を見ていた。
ずっと、覚める事はないと信じた幸せな夢を。甘い香りと暖かな日差しの下で、リオンも同じく夢を見ていた。
酷く懐かしくも悲しい夢の暗闇の狭間を虚ろな瞳で宛もなく彷徨っていた。
――「マリアン!」
呼べば振り向き穏やかな笑みで笑う、揺らぐ黒髪に純陶器の様に美しい肌。今となれば母の愛をマリアンに求めて居ただけだったが…。
リオンは父親かろくに愛情も受けずに育ってきた。その闇が彼の孤独をより一層深く影を落としていた。本当の愛や母性の意味も区別も分からぬままに幼いなりに彼女を本当に愛していた。
本当に人を愛したことも愛されたこともないくせにあの時の自分は確かにマリアンを。
「ああ、よかった。何処に行ったかと思ったよ」
だが、父親の存在に張りつめてい心に安心を与えてくれた彼女はただ静かに微笑むだけ。其れを証拠にマリアンはただ無言で何かを押し殺したような顔をすると。
暫し沈黙、やがて口を開いた直後、マリアンが放ったその言葉に僕はただ両足を踏みしめて立つことが出来なかった。凍り付いた身体に涙さえ流れなかった。
――「このような立派なお屋敷で、あなたのような立派な人をお世話して」
「え」
――「私、本当に幸せでした。ありがとう。エミリオ」
「何を言い出すんだ、マリアン。何処へ行くんだ」
しかし、マリアンは手を伸ばしても届かない場所へとただ悲痛な笑顔で黒髪を揺らし何処か、遙か果てへと背中を向けて。
「さようなら」
「待ってくれマリアン! くっ、身体が動かない……だと!?」
慌てて追いかけるも身体が動かない、伸ばしたまま硬直した手は届かない、伸ばしたその手は風にかき消されてゆくばかり。
「待ってくれ!!」
有りっ丈の声を張り上げ力でマリアンに手を伸ばし口は動くのに身体が動かない。
身体が鉛の様に怠い、喉がカラカラだ、切なくてこんなにも苦しくてただ涙が溢れた。
瞼が熱くて焼け付く様に、悪夢と海水ですっかり冷え込んだ身体に思考が追いつかない、ただ力なく熱に喘ぎ涙を浮かべて静かに闇に沈めていた意識を呼び覚ました。
手を伸ばした先にマリアンは居なかった。ヒューゴが……リオンの父を乗っ取った天上王が笑う、悪魔の嘲笑を。
「私はあなたをもうエミリオとは呼びません。」
凛としたマリアンの父親に愛されず亡き母親の姿を求める少年がを見つめた同情の眼差しが未だに頭に焼き付いていた。そうして痛みにゆっくりと意識を取り戻す。
そうだ。うっすらと覚えてはいる。あの奈落の底から、彼を覚醒させた。やがて閉ざした意識から目覚めた一番最初に視界に飛び込んできたのは真っ白な天井。
ゆっくりと開く瞳から不意に涙が流れ頬を伝った。慣れない頬を伝う感触
「な……生きている、だと……?」
リオンは驚愕に瞳を見開いた。あの時自分は確かに死んだ筈だ。岩盤に行く道を塞がれシャルと一緒に海水に呑まれて。マリアンを思いながら確かに、
――「リオ―――ンッッ!」
彼等の顔が自分を友と呼んだ男の慟哭が不意に脳裏を過ぎり顔を歪め脂汗を流した。
確実にあの海底洞窟で死んだ。
そうに違いない。彼等に全てを任せて海の底に朽ちた、きっとスタン達がヒューゴの野望を打ち砕いてくれただろう。
ぐるぐると思考が回る、そして不意に感じたのは熱い目眩。
神の眼を盗んで、皆を裏切って、生きている価値などあるはずがないのに。一気に冴え渡る思考に起き上がろうとしたが、強烈な眩暈に襲われリオンはただ力無く真っ白なベッドに屈してしまった。
死んだ筈だ此処は天国の筈だと縋る様に左胸に手を当てれば―生を証す鼓動。リオンは愕然とうなだれ絶望した。
――自分は、死んでなどいなかったのだ。
マリアンを人質に取られたあのダンスパーティーの夜からずっと流されてきた、操られた駒としてそのままに犯したあの罪を。あいつら、同じ目的で旅をした仲間達を裏切って今更戻れる道など存在していないのに。
やはりこれは現実なのだと、罪は生きる事だと生きて償わねばならないのかと身を持って思い知らされた。
不意に感じた膝の鈍い痛みに再度目を開け朧気だった彼の視界に飛び込んできたのは。紫紺の鋭い瞳がつり上がり覇気を放つ。
飛び込んできたのは見知らぬ少女の剰りにも無防備な寝顔だった。
しかし、その寝顔を見ても朦朧とした意識の最中で動いたのは身体だった。
心は震えていたが、身体は肉眼は未だあの戦いを、自分の最期を鮮明なまでに覚えていた。
――「何か言いたそうだな。私は別に構わないのだよ、お前が来てくれなくてもな。私は一人でも遂行する、お前はここに置き去りにされ滅びを待つだけだよ。もちろん――この女もお前と同じ運命を辿ることになる、それなら本望かね。」
「汚いやり方だな」
「何のためにこの女をつれてきたて思っているんだ、彼女は人質なのだよ? この女を助ける代わりに私に協力するという約束、忘れたとは言わんだろう」
「エミリオ、やめなさい! 私はどうなっても構わない! こんな馬鹿なことに! んんっ!」
「人質は黙っているんだ! それとも力ずくで口をふさがないとわからないか!」
「よせ! マリアンに手を出すな!! お前の言う通りだ!! マリアンを助けてくれるなら僕は何でもやる!!」
「エミリオ!」
「ふふ、分かればいいのだよ。お前がそういう態度でいれば彼女も死なずにすむよ。
どうして最初から素直になれないんだい? エミリオ」
瞳を閉じ己の肩を強く抱いてリオンは怯えを押し殺す様に逆立っていた、生きながらえた自分に怒りしか募らなかった。荒んだ視界に映るモノ全てを信じられない、すべては敵だと、
生きながらえた彼を待つのは処刑台だろう。ヒューゴの意のままに国宝の神の眼を奪ったのだから。
最期まで傍に居たソーディアン・シャルティエが居ない。もしかしたらこの女が隠したのかもしれない。更に募る怒りの矛先は明らかに非力な草食動物の女だった。
何か武器になるものを。レースやピンク、白を基調とした明らかに女の部屋で不意に視界に飛び込んできたペン立てにあった千枚通しを逆手にそのまま己の膝の上ですやすやと安らかな寝顔を浮かべて眠る女の手を掴んだ。
「ん? きゃっ! なっ、なに!?」
うとうと、海は彼がどんな人間かも知らずに膝の上で呑気に眠っていた。目が覚めて気が付けば、海は真っ白でふかふかなベッドに押し倒されていたのだ。
無理矢理起こされわたわたと混乱する彼女を軽々とベッドに放り投げ転がした上に覆い被さりその鋭い切っ先を寸分の狂いもなく彼女の頸動脈に押し当てて自分の最大限の低く耳元で唸るような声で脅すように囁いた。本能が警鐘を鳴らす。
「何者だ貴様――」
目の前にはさっきまで天使のような穏やかな寝顔を浮かべていた彼の…違う、今はまるで悪魔のように豹変を遂げた恐ろしい餓えた猫科の肉食獣の様な紫紺の眼差しが、海を見下していた。
彼の双眼からは覇気混じりの殺気が平和な世界で暮らす海を殺そうとその触手をじわじわと広げ今までの感じたことのないこの恐ろしい邪悪な気配に肌がピリピリと痺れてゾワリと鳥肌が立った。
首に感じた鈍い冷たい痛みに冷や汗が流れた。彼の目的はいったい何か。それがまず海の脳裏に浮かんだ。
彼の目的は何だ、お金?身体?果たして…色んな思考を張り巡らせてみても争いのない平和な世界で育った海には分からなかった。
尋問は終わらない、ただ、こんなにも何にも例えがたい殺気を放って居るのに……怒りに絶望に身を任せただ、貴方のその視線が見えない何かに怯えている気がしたの。
更に追いつめてゆく中、緊迫した空気に海は何か喋らなければ殺される!!そう肌で命の危機を確かに感じ海は重苦しい空気の中で小さな口を開いた、未だ幼いのに彼の殺気は一人前だった。
「私は……あなたの敵じゃ、ないです」
声が掠れてうまく喋れない。
「そんな言葉信用できるか。本当のことを言え、さもなくば……殺す。」
怖い、怖い……視線だけで射抜かれる・・・殺される。
首にピタリと当てられた切っ先が皮膚を押す。僅かに身体を捻らせるだけで呆気なく殺されることを肌で知らしめていた。
でも、彼は怯えている。海はそんな気がした。だって、その瞳の向こうには確かに見えたのだ。海と同じ、彼女以上の孤独を。
だから、海はありったけの声でまず、名前を知らない相手に名を問われましてや、凶器を突きつけられ脅されて名前を名乗る。一方的すぎるその言葉に恐怖から次第に反発を感じながら。
「私、浜辺で倒れてたあなたを助けたそれで「黙れ」
駄目だ。それを遮られてまた尋問を浴びせられてしまった。警戒?それとも脅迫……してるの?彼はいったい何を考えているの?自分なんか脅してもお金も身体も見返りもやれないのに。
海は唇を噛みしめお腹に馬乗りに成った彼を無言で見上げながら必死に今にも消えてしまいそうな声で彼の意のままに従った。
「待って! 落ち着いて!! 話を聞いてよ! 私は海、古雅 海……って言うの」
やっぱり重い。体躯がのしかかる。力任せに殺しても無利益な海を捻じ伏せてサラリと流れた漆黒の艶髪から覗く絶対零度の紫紺の瞳に怯える姿が映し出されている。
左耳の金色のピアス?耳飾りがまた輝く。
「答えろ、シャルは何処だ。」
「え? シャリ? お寿司?」
「ふざけるな。さもなくば殺すぞ」
そして呟かれたのは海には全く見に覚えの無い、知らない言葉だった。シャル?とは、いったい何だろう。
名前も知らない美少年の鋭く、冷たいアメジストの瞳。殺気立つオーラに無意識のうちに身体は寒くもないのにガタガタと震えて止まらない、あんなにも望んでいた命の終焉が間近に見えたと言うのに、まだ死にたくないと浅ましくも願ってしまった。
ドクドクと高鳴る頸動脈に突き立てられた刃の初めての鈍い感触を心底恐ろしいと思った。
海が捨てようとしていた生きる事への執着心を呼び覚ます程に彼の瞳は彼女の恐怖心を煽るには十分だった。
唸る様な妖艶なテノールボイスが恐ろしい音色となって彼女の耳を擽る。美しい容姿から発せられた声は何よりも低くて。
「フン……貴様の名前などどうでも良い。答えろ、腰に下げていた僕の剣の名前だ。貴様も知っているだろう、裏切り者の僕の……ソーディアン。シャルティエを……」
「はい?」
その言葉に理解できずに首を傾げたらますます不愉快だと言わんばかりに彼の眉間に盛大に皺が寄った。美少年の怒りの豹変ぶりはとても迫力があり鳥肌が立った。
そして意味の分からないソから始まりンで終わる摩訶不思議な言葉に海は更に頭の中をめちゃくちゃに掻き回される。
「貴様、まさかソーディアンを、僕さえも知らないのか?」
そしてきょとんとした彼女に少年が少しだけ表情を和らげて肌に当てていた鋏を引いた気がした。そして、思い知る。
この目の前の少年は悪い人じゃない。とてもあくどい事を、まして犯罪を犯すような真似をしないのは明らかで怯えているだけだと理解した。
海は首を横に振ると再び口を噤む。見知らぬ家で目を覚ましたんだ、誰だって取り乱すし、それにきっとあの浜辺に流れ着く以前に怖い思いをしたのかもしれない。
海は怯えながらゆっくり開かれた彼の形のいい薄い唇を見つめた。
「裏切り者の僕を匿うとは、貴様、何処の国の馬鹿だ?」
恐らく自分は仲間達を裏切った天罰が味方したのか、運悪く生きながらえ浜辺に流れ着いたところをこの女に介抱されたらしいとリオンは微熱に茹だるなか理解した。
「僕を助けた理由は何だ? 死にたくないだろう、言え。」
彼は自分の下で剰りにも大人しい、観念したように目を閉じて恐怖から無意識に涙を流す彼女に殺意を敵意すら全く感じないと肌で感じ取り半ばやりすぎたかと後悔しながら。
少し頸動脈に当てていた切っ先をずらし、マリアンと同じ絹の様な彼女の緩やかな波の様に曲線を描く艶髪を梳いて無意識に触れていた、 無意識に、本能がそうさせたんだ。
彼の綺麗な筋くれ張った繊細な指先がゆっくりと私の髪を確かめるように梳いたその優しい手つきに惑わされてしまいそうになる。
でも……次に彼女が首元に感じたのは彼が宛行った千枚通しが頸動脈を突き刺した感覚ではなく―
急に胸元に顔を埋めるようにして崩れ落ちたもう心身共にボロボロの彼の耳元で感じた荒々しい吐息だった。
頸動脈の冷たい感触から解放されたのだと覆い被さった彼の姿。傷を負った激痛、長い時間海水に晒され続けていた事で蝕まれた満身創痍の彼にただ反射的に声を掛けていた。
「えっ!? だ、だいじょうぶっ!?」
冷え切った身体にのしかかった彼の熱い温もり。熱い。彼の焼けるように熱い吐息が、素肌の熱がダイレクトに耳に掛かる。
その何とも言えない荒々しい息遣いにゾクリと肌を滑る感触にただ身震いした。そして確かに満身創痍の彼は見えない何かに怯える為に彼は視界に飛び込んできた自分に牙を向けたのだと肌で感じ取る。
彼に聞きたいことは山ほどある。でも、まずはただ彼を安心させたくて。
海は何をすればいいのかわからないでも、そっとお母さんが子供を優しく抱きしめ彼の背中にそっとなだめるように腕を回して抱きしめた。
「マリアン……」
「へ? マリアン?」
その温もりと海の柔らかな腰まである髪が頬を掠めて、リオンの瞼がピクリと蠢くと彼は懐かしい人を思いだしたのか、苦しげな表情の中に安堵を見出していた。
まるで愛しい誰かを思い出し海に温もりに重ねるようにそっと彼女の胸に顔を埋めて呼吸を落ち着かせていた。
再び穏やかな空気に包まれる部屋。もしかしたら拉致被害者かも?
とにかく怖い思いをした彼の汗ばむ身体をまたタオルで優しく拭きながら怖がらせないように極力努めて笑顔を見せると。
「ねぇ、あなた、大丈夫? 名前はマリアンって言うの?」
「世界で今一番知らない人間はいないだろう、リオン、リオン……マグナスだ……」
「リオン、マグナス? あら、外人さん……でもどうして日本語を……あっ、しっかりして!」
確かに日本人離れした顔立ちや瞳を持ってると思った矢先、まさかファーストネームが先に来るなんて……。
突然出会った美少年・リオンはそれだけを告げるとまた苦しそうに綺麗な顔を痛みに歪めて、海の必死な笑顔に次第に警戒心が薄れてゆくのを感じながらも、ふらつく頭を必死に振り払い、低い声で呟いた名前に驚く彼女に構わず吐き捨てるように呟いた(偽)名にやがて高熱に魘されバタリと力無く意識を飛ばしたリオン。
「リオン・マグナス?」
海は未だ慣れない名前に困惑の表情を浮かべながら彼の不安を煽ってはいけない。と努めて冷静に振る舞いながら再び気を失った彼を見つめて。
ファーストコンタクト、
彼に抱いたのは守ってあげたいと願う母性だった。
2017.12.30
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