まさか、こんなところに人が倒れている。しかもずぶ濡れで。あり得ない展開に驚き、硬直したが、とっさに掴んで抱き寄せた少年をまた波に引き離されないように強く引き寄せた。
艶やかな漆黒の髪を海面に靡かせ…深海に身を横たえ生きた屍と化していた少年の感覚が分かる。
虚しい気持ちはどこへやら、今は目の前の少年を救うのに必死で。
仰向けに横たわらせ胸元に耳をやれば確かに聞こえる心臓の音に安堵した。どうやら溺死ではないらしい、良かった、まだ息はある。
久方振りにこんなふうに誰かに触れた気がする。海は睫毛を伏せ、自嘲した。
潔く忘れられない浅ましい思い出にすがりつく未練がましい自分を、今も未だ、彼の面影を探す自分を。
行き場を失った二度と戻らない慕情だけがこの胸を今も支配し続けている。
もう自分には幸せな未来なんか無い。そう決めつけてしまえるほど自分の人生は、これからの虚無な未来をそうだと考えたら、ジワリと涙がこみ上げてきて。
何度も何度も願う、このまま貴方を思いながらいっそ泡になって消えてしまえばいいのに。
「(え……?)」
何故かと聞かれても最期まできっと分からない。引き寄せた男子は意識を失っているのに、未だ悲しみに暮れる海をまるで慰めるように、同じ痛みを分かち合うように無意識の内に少年が海の肩を抱き締め返した、そんな、気がした。
「っ〜寒い……重い!」
青い世界の片隅で確かに感じた"動き出した運命"に気付かぬ儘、ぐったりしている少年を肩に抱き抱えたまま浜辺へ歩き出す。
自分より少し背が高く引き締まった身体はとにかく重い。
最後には引きずる様にゆっくりと彼を砂浜へと寝かせてやり一息つく事が出来た。
やっぱり春でも海は刺すように肌寒い。栗立つ肌。
カタカタと震える歯、唇はきっと紫色に変色している。
ずぶ濡れの髪からボタポタと垂れた海水が散れば随分伸びたと実感した。
――「海の髪は柔らかくて良い香りがして、気持ちいいな」
思えば彼と幸せな日々を過ごしたあの時、眠れない夜なんてこれっぽっちも無かった。
だから、いつも大事に伸ばしてきた。
さざ波の音がやけに甘く響く。朝日が肌を温め視線を向ける。
でも先ずは自分の事より目の前の少年のこと。
過去は、清算するものだと前を向かなければならないし、仕事にも行かなければこのマンションの家賃どころか思い出が色濃く残るこの部屋から出ていく資金もない。もうこれ以上は皆に心配掛けたくない。
そして、漸くその艶髪の漆黒に覆われていた彼の顔を見つめる事が許された。
ざあ……と波風が伸びた髪を浚い彼の張り付く様に濡れた漆黒の髪を乾かす。
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さぁ、恐れずに。
海は勇気を振り絞り瞳を開けて彼の顔を見た。蒼白くて青ざめた肌に張り付く手入れの行き届いた美しい艶やかな綺麗な漆黒の髪。
よく見れば見るほど彫刻の様に完璧に整った中性的な顔立ち。
凛々しくきりりと鋭角な眉に凛と結ぶ唇は艶やかに煌めいて鼻筋は真っ直ぐに高く尖り。
精悍で、でも何処か意識を無くしているにも関わらず放つ雰囲気は甘美で(一応)女の彼女よりも扇情的で美しかった。
長い睫毛を伏せて眠る姿はまるで少女のように溜息が出るほど美しかった。
「綺麗」
こんなに美しい顔立ちの人間を間近に見るのは本当に初めてだった。
海は暫く彼の顔をじっと見つめて漸く我に返った。まず、意識はあるか、彼の呼吸を確かめるように冷たい頬に手を当てる。
そして、彼の服を見た瞬間、彼の身に纏っている服が明らかにこの世界の物ではない事実に思わず息を呑み込んだ。
素肌に濡れた様に肌に張り付く中世のフランス人が王権の位を象徴したかの時代の人間かと錯覚すら覚える白いタイツ。
そして重厚な金をあしらった装飾を施された防具に煌めくはダイヤを織り込んだ様な蒼黒の上着。
細身で小柄ながら抱えてみれば見た目よりもずっしり重く、此の下はきっと均等の取れた逞しい硬い身体なんだろうと頭の片隅で思った。
美しい彼の変わった趣味だろうか。でも、その出で立ちは童話の王子様のように美麗な彼によく映えている。
まさか本当に童話から飛び出してきたのかと錯覚せざるを得ない程に磨かれた知性を纏いしクールで美しい容姿に豪奢な服装。
しかし、よく見れば丹念に磨かれたブーツも蒼黒の上着も何故か酷く汚れて居りボロボロだ。
そして、何よりも気付いたのが彼は、先ほどとは打って変わり衰弱し今にも呼吸を止めてしまいそうだ。
慌てて彼の左胸に耳を当てる。トクトクと弱々しいが確かに未だ彼は生きている
でも、長時間海面に漂っていた身体は冷たく息は全くしていない。此の儘では彼の命が危ない。
荒く冷たく押し寄せる波。
まだ彼は生きているのに、このままにしていたら衰弱した彼はきっと死んでしまう。
それだけは絶対に嫌。
目の前で誰かが死ぬのだけは。何ともできないが携帯も忘れてしまったために救急車も呼べない。今は面倒なことに巻き込まれたくないと思うが、今はそんなことを言っている場合ではない。首を横に振ると意を決し海は立ち上がった。
「重い〜……!」
今の海が出来ること、
ありったけの知識で思いついたのは。
彼を浜辺からまた離れた場所まで彼を少し引きずり引き離し少し乾いたピーコートを脱ぐとそっと彼に掛けてやった。
次にポケットに手を突っ込み取り出したのはピンクの薔薇のコサージュとスワロフスキーの可愛らしい小銭入れ。
慌ててブーツを履き階段を登り降り近くの自販機まで走り何度もボタンを押して自販機から出てきたのはミネラルウォーター。
其れを手に再び階段を登り降り一目散に彼の横たわる海岸まで走る走る。
「しっかりして! 起きて! 起きるの!」
ペットボトルのキャップを勢いよく外しこくりと一口水を飲みいざ、口に含んだままの水。
あまりにも美麗すぎる顔に鼻と鼻がぶつかる距離ギリギリまで近づけて間近でさらに一際輝きを放つその美しい容姿にたまらず頬が火照り熱を帯びて赤くなった気がした。
だが。この時の海は未だ知らなかった。
眠る彼はどんな声をしてどんな眼差しをしているの?
そんな淡い期待を密かに抱いていた。
しかし、その口から飛び出す言葉達は美しい容姿とは懸け離れた見開かれた他人を絶対零度の眼差しで射抜き殺す様な獣の様に冷徹な眼差しと辛辣な言葉達の事も海走る余地もない。
「でも、もしかしたら女の子? だ、よ、ね?」
その独り言は只虚しく浜辺に響くだけ。
確かに顔は睫毛も長く可愛いらしいが、変声の証である喉仏も発達してあるし手なども骨格は紛れもなく男性だ。
突きつけられた事実、今彼を救えるのは彼女自信しかいない。
どうしてだろう。
さっきからもう1人の自分が彼はこの世界の人間じゃない気がした。
瀕死の彼を救えるのは紛れもなく自分だけしか居ない。
不意に口唇を近づけるが躊躇う心がそれを許さない。今も別れた恋人とのキスを上書きしたくなかった。例えそれが人命救助の為だとしても。救助とは言えこんなに綺麗な顔立ちの男の子と。
頭の中は……沸騰してパニック状態。
邪な考えは捨てて。ぶんぶんと首をひたすら横に振りそっと唇を近づける意を決した海は緊張に飲み込んでしまった水を再び口に含み、そっと静かに
柔らかな口唇、ぎゅっと鼻がぶつからないように首を傾け唇を重ねてそっと水を流し込んでいった。
「がはっ、ごふっ!」
「きゃっ!」
ぶつかった視線、
切れ長の見開かれた日本人ではありえない青の混ざったアメジストがまるで鋭利な肉食獣が獲物を品定めるような眼差しで海を射抜く。
冷徹な彼の妖艶な眼差しに見取れ、まるで金縛りの様に身体がひきつって動かなくなる。はっと気が付いた瞬間、物凄い力で意識を取り戻した男の子が勢いよく咽せ込み器官に詰まっていた海水を必死に吐き出し諦めた生を貪るように彼女の肩をがっちりと静脈が浮き出るまでギリギリと爪を立てたのだ!
「だ、大丈夫!? し、しっかりして」
水を流し込まれ噎せて苦しむ慌てて肩を抱くと少年の身体はカタカタと震えて氷の様にとても冷たい。
そっと彼の背中を擦ってやった。
縋るように急に背中に腕を回され驚きながらもそっと抱き締めてやるとやがて荒々しかった彼の呼吸が次第に落ち着いていく。
「お前……??」
「え?」
真っ暗な闇の中でふと視界に飛び込んできたのはあまりにも鮮明な強く青い水底の光だった。
掴んだ瞬間、闇を切り裂いた強い光に差し伸べられた手を確かに握りしめた瞬間、リオンは冷たい海の底より導かれ再び覚醒した。
海底の底、どんどん崩れゆく大地の片隅に追いつめられて幾重にも見えた崩落した大地から見えた流水に飲み込まれ息も出来ぬまま暗闇に堕ちてゆく。
死に間際、白い光の先で手を差し伸べた優しいあの幻の正体は。
今考えたらマリアンでもなくて、母親でもなくて彼女だったのかもしれない、
心配そうに彼の顔を覗き込んだあの瞬間、本当に"人魚"だと錯覚した程に濡れた彼女は何よりも美しかった。
濡れた緩やかな髪がリオンの頬を掠める。
未だ夢か現か曖昧な世界に飛び込んできた海は幼い頃にマリアンに読み聞かせて貰った王子様を助けた人魚姫そのものに見えた。
目の前に飛び込んできた女を薄目がちに睨みつけた。震える睫毛、濡れた艶やかな長い髪、マリアンは綺麗で可愛らしくもあったが彼女はまた違うどちらかと言えば柔らかさを纏う雰囲気を醸し出していた。
支えられた優しくて甘い腕の中。リオンは再び力尽きそのまま意識を深淵に沈めてどうか次に目を覚ましたら。
背中に、腕に足に、次々と痺れるような得体の知れない激痛が走る。
ウッドロウの矢に射抜かれフィリアの晶術、涙を浮かべたスタンに斬られた痕が血は止まってはいたが未だに痛み熱を走らせていて、
「ね、ねぇ! だっ、大丈夫!? し、しっかりして……」
激痛に魘され曖昧な思考の中で少女の呼ぶ声に何処か満たされたような気持ちになりまた眠りについた。
海の柔らかな膝を枕にぐったりとまた気を失ってしまった綺麗な少年を揺さぶってみるが全く起きあがる気配がない。
「こんな時間に開いてる病院なんかないしもんね……」
不意に元の恋人とお揃いだったペアウォッチで時間を確かめるだけで彼の温もりを思い出してたまらず泣きそうになる。無意識に彼との思い出を手放せない自分が酷く腹正しかった。もうこうなった以上仕方無い。
重ねた唇がやけに熱い。
まるでドライアイスの様に、最初は冷たくて後から熱くて、だがこのまま彼を浜辺に放置なんて出来ない。――だから。
「よいしょっ!」
ゆっくり引き寄せて彼の意外に筋肉の付いた引き締まった腕を肩に担ぐ。
これがまた以外に重い。
でも、何とかしてマンションまで連れて帰らなくちゃ。
海はそう決心し、腰に腕を回して元来た道、家路までの道のりを急いだ。
「よいしょ、よいしょっ」
腰に回し女の海の小さな身体に秘めた有りっ丈の力で必死に支えて歩く。
もう腕は痺れて感覚が無い。
朝日を浴びて輝く道路や風が少し涼しくも何時の間にか雲が陰り何処か肌寒くもさせた。
すっかり日も昇り清々しい爽やかな朝の始まり。
朝日に照らされた道路が反射して眩しくて。
家に向かって歩く歩幅は小さくても着々とひたすらに進んでいた。
物言わぬまるでCGのゲームの世界から飛び出してきたような美しい少年を引きずりながらも。
体格的に明らかに海の方が不利で、最初は軽々と抱えていたけど次第に重さで体力が無くなってきて。どんどん歩く速度は落ち、その華奢で身軽に見えてもがっしりとした少年の重みに耐えきれなくなっていく。
クリーム色のマンションが見える頃にはもう男の子はアスファルトに引きずられてぼろぼろになっていた。
中途半端に助けそのまま浜辺に放置だなんてそんな無責任な行動、ましてや彼は明らかに此の時代には異なる衣服を纏っているにしろ遭難者。
もしかしたら彼を探している親御さんや兄弟、姉弟が居るのかもしれない。
分からないが海は彼を放っておく事など出来なかった。
せめて彼が目を覚ます迄…
そして目を覚ました彼の口から事実を聞こう。
ふと、耳元に感じた吐息に横を見れば朝日をバックに自分の肩に頬寄せて眠るあまりにも綺麗な彼の寝顔がもう目と鼻の先にあって、
すごい、かっこいい……何なのこの男の子は!
頭の中のもう1人の自分がわたわたと走り回ってお祭り騒ぎになっている。
びっくりして思わず悲鳴を上げて彼を落としかけてしまった。本当に綺麗で、こんな絶世の美男子がこんな服装で海を漂う遭難者だなんて言ったって誰も信じてくれなさそうで。
こんなにカッコいい人…見たこと無い。
彼にちょっと惹かれたのも有る、だから助けたのも少しはある。
もし海を漂っていたのが彼じゃなかったら、きっとこうして彼を自分の家に連れて来ないまま救急車を呼んで後は障らぬ神に祟り無し、身元を警察に委ねそのまま無視していた。
でも、彼だから此処まで彼を連れてきたの。
そう、貴方だったから、理由は自分でも分からない、
ただ本能がそうさせた。
2017.12.30
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