季節、世界、全てを越えた先に
穏やかな波が寄せては返すこの場所に1人の少女が居た。
遙か彼方を見つめていた瞳を閉じて思いを馳せる。
吹き抜けた潮風に緩やかに伸びた彼女の髪が舞いあがる。
孤独の、虚無の世界に今日も身を置く。
少女でも大人でもない
曖昧な年頃に揺らぐ一人の女が呆然と海を眺めていた。
海、其れが彼女の名前。
ブーツを脱ぎ捨て歩み出す。
広がるは青空と夕焼けの空に染まる雄大な海。
吹きすさぶ雪が去った波は冷たく、春の始まりを告げるも海は冬の名残の中で激しく彼女を拒んだ。
しかし、それでも歩み出す。
彼女は望んでいた。終焉を。
孤独の世界は身を引き裂かれるよりも苦しかった。
人魚姫のように、この海に今すぐ身投げして消えてしまいたかった。
春へと移ろう冬の終わりの海は刺すように冷たく、彼女の小さなふっくらとした白い足はあっと言う間に痛々しい赤へ染まりだす。
自分はそんな日々を何度繰り返したのだろう。
死にたいと、終わりにしたいと願う気持ちは偽りなんかじゃない。
だが、だが。
「っ……冷たい!」
不意に脳裏を過ぎる残像達が幾重にも折り重なり。ハッと、再び朧気だった意識を呼び覚まし彼女は漸く落ち着きを取り戻した。
怖さを振り切り暫く素足を海水に浸し、雄大な自然を前にしたらこんなにも自分の存在が小さなモノに思えてきて。
この雄大な自然に比べたら自分の悩みなんか…
慌てて冷静に思考を張り巡らせれば気付く、浅はかな行為
死ぬ勇気など一重にもない。
理解してはいるのだ、
自分よりも遙かに辛い状況下に身を置き自分よりも悲しい人はたくさんいる。と、
だが―
終焉を望みながら未だ見ぬ未来への希望を捨てきれずに躊躇う海の傷ついた心はこんなにも裏腹で。
ため息をつき、冷静に戻り靴を履くとそのまま道路に停めていた愛車に乗り込み家路に着いた。免許を取って車を購入してからだいぶ年月が経ち、運転も様になってきた気がする。
「ただいま。」
冬の終わり、そして春。
春は別れの季節、そして再生の季節でもある。
昼と夜の日照時間はだんだん均等になりつつある。
あっと言う間に夕闇が世界を支配して辺りが見えなくなる。
広い駐車場に歩み出し鍵を閉めため息をつき玄関の扉を開ける。
でも、"おかえり"の優しい返事はない。
海の帰りを待つ者は誰1人として居ないのだと、まざまざと突きつけられた事実はあまりにも残酷で。
今まで幸せだった。
確かな幸せに包まれて守られて幸せに生きてきた。
でも、幸せと不幸は紙一重。
こんなにも呆気無く壊れてしまうもの。
茨の続く道にたった1人、冷たい海の底に突き落とされてのたうちまわるだけ。
今思えばなにもかもが初めての幼くそれでも純粋に彼の背中を追いかけた、淡い恋。
最初で最後の恋だと信じていた。
どんなに傷ついても傍にいて欲しくて。すっかり相手に依存しきっていた。
お互いがいつまでも一緒に居過ぎたから情だけで馴れ合いの関係になってしまった。
物心付いた時には母親は海外でいつ帰ってくるからどうしているのかさえもわからない中、叔母の家で育てられてきた。
居づらくて、いつも居場所を探していた。
両親の居ない辛さ、寂しさ募りに募ったやり場のないフラストレーションは募り、何もかもがぐちゃぐちゃで、分からない儘
そんな中、そっと手を差し伸べてくれた彼に身を委ね高校卒業してすぐに鞄ひとつで家を飛び出しこの家で暮らしていた。
働き始めた頃は右も左もわからなくてなにもかもが不安で、でも、彼が一緒に支えてくれた、だから今まで頑張ってこれた。
彼が好きだから何でも彼の言う通りにした。
だが、一途に愛を育んできた矢先に待ち受けていたのは。彼の甘い嘘に絆された幼い海が顔を覆い土砂降りの雨の下を傘も差さずに誰も居ない一人きりの部屋で置き去りにされた悲しい現実だった。
そうして彼女の永遠すら無邪気に信じることが出来た恋は剰りにも呆気なく終わりを告げたのだった。
頭を撫でる仕草も憎たらしい程の眩い笑顔もそれはすべてが甘い嘘。
振り返らずに歩きだした彼を追いかけて、でも、無惨にも降りしきる雨の中投げつけられた合鍵が堅いアスファルトに叩きつけられた。
降りしきる雨に消えてゆく振り返らない後ろ姿。愛に飽きた、馴れ合いの果てに彼は離れてしまった。
それ以来海は機能が停止したかの様に誰かを愛することを止めた。仕事も無断で休み続けていつかは首を切られるだろう。
いつか捨てられる、貢がされて飽きられて、寄りかかればいつか迫る別れを描き信じること、愛することが何よりも怖くなって。
しかし、未だに幸せそうに抱き締めあって笑う彼の写真を捨てることが出来ない矛盾が余計に彼女をやるせなくさせた。
いつまでも続くと信じた確かな幸せの崩落から此の虚無の世界に転落して、1人ぼっちになった。
失った存在はあまりにも大きすぎた。
だから、彼女は決めてしまったのだ…もう彼以外の誰かを愛したりなんかしない、否、出来ない。
未だ、あまりにも儚く散った恋を失ったあの胸の痛みを忘れる事なんて出来ない。
好きだった、あんなにも大好きで仕方がなかった。本当に心底彼に溺れ、彼しか見えなくなっていた。
"縁がなかっただけ、もっとそれ以上の人に出会えるから…、"
そんな気休め、失恋の痛みも知らない貴方なんかの慰めなんか聞きたくない。
ふっと思考を冷たい現実に呼び覚ます。
海辺のクリーム色のマンションの見晴らしのいい景色に囲まれて暮らしている。
2LDKの小さなマンションで。
彼との思い出がまだ色濃く刻まれたこの空間。
リビングの先が彼女の部屋。
漸く慣れた我が家は帰って来ると同時にやっぱり落ち着く。
砂や潮にまみれた足には構わずリビングの先にある私の身体には大きすぎる白を基調としたシンプルな部屋の扉を開けた。
彼とよく寄り添って眠ったベットに飛び込み眠りにつく。
あの日々をただ直向きに愛していた。
柔らかなマットに洗い立てのシーツがやけに寂しい。
突然強いられた一人暮らしの生活に決して楽ではない仕事。
彼に急に振られて失った苦さを現実の荒波が翻弄する。
そんな日常に心身共にはとっくに疲れ切っていて。
そして、孤独な世界に1人きり。
そう、
自分だけが孤独で不幸だと思っていた。
やがて同じ気持ちに導かれるように引かれあうように運命は呼び合う。
奇跡か、運命か、必然か2人を繋いだ世界、
寝汗がぐっしょりと額を伝うほどに。それは不思議な夢を見て居た、悲しくて苦くて痛くて立ち上がれない。
やがて一面に広がる赤い海。
そして、地獄絵図のような世界の片隅に響く私を呼ぶ声、自分に手を差し伸べ優しく笑う過去の未来の未だ見ぬ誰か、
そっと怯えていた情けない彼女の頭を撫でる大きくて筋くれ張った手、繊細な指先。
悪夢に縋るように強くに握り返したら其処で優しい夢はあまりにも呆気なく途切れた。
「待って……っ、あなたは……だれ?」
ビリビリとつま先から脳天を突き抜けるような激痛にたまらず頭を抱えて毛布を派手に蹴り飛ばした。
ガバッと起き上がり頭を抱えて辺りを見渡すと真っ白なカーテンから眩しい太陽の光が射し込み耐えきれずに強く瞳を閉じればあれからすっかり陽も登り、柔らかな冷たい朝日が少し冷えた肌を温めた。
静かに思考を張り巡らせる
彼はただの悪い夢だと言い聞かせればだんだん嵐の様にざわついていた心が落ち着いてきて…
うぅんと唸りながら付け放しだった腕時計を見ると時刻はまだ朝の6時。
未だ覚めない夢と現実の境目をさまよう思考の片隅で思うは今日は日曜日だと言う事。
与えられた束の間の休暇。
化粧も落とさずに寝てしまっていた。いったい何回繰り返すのだろう。額に浮かぶ汗を拭い、あの悪夢を振り払うように次はせめて夢だけでもあの満たされた日々に帰りたい。
叶わぬ願い。
ただ夢の中の貴方ともう一度だけ抱き合いたい。
思い出に支配された部屋で、二度寝をしようと低血圧な身体の儘に柔らかな毛布に潜り込んで強く瞳を閉じた。
しかし、まだ昨日の夜の夢の余韻が何故か脳裏には夢の続きを色濃く表すかの様に雄大な海が視界に広がり強く焼き付いて離れないのだ。
"「海」"
寄せては返す穏やかな波の様に、誰かが自分の名前を呼ぶ気がして瞳を閉じるのになかなか寝付く事が出来ない。
不意に顔を上げてみる、寝転がり毛布にくるまりながら裸足を遊ばせてベッドチェストの上に処方された睡眠薬の袋を見つけて手を伸ばしてみた。
あの人に振られたから、綺麗に忘れる事なんて簡単には出来ないから、でも切なくて悲しくて眠れなくても最後の砦に縋るみたいに薬に頼るのは嫌だ。
心臓の鼓動が早鐘を打つ様に頭痛はじわじわと身を、心をも蝕んでゆく。
誰かが海を呼ぶ声に思考を張り巡らせてもただ鈍い痛みが脳裏を走るだけ。
幻想の夢で未だ見ぬ誰かが自分を待っている様な…そんな気がして居てもたっても居られなくなって彼女はむくりと上半身を起こし髪の毛をくしゃりとかきあげた。
春の暖かい日差しに目を細める。
カーテンを開けて起き上がり、シャワーを浴びて茹だるような湿気を断ち切り軽く髪を整えると近所の海へとお気に入りのブーツを履き車には乗らずに歩みを進めた。
「ううん、気持ちいいなぁ!」
マンションを出て、近所をのんびり歩きながら公園で無邪気に遊ぶ子供達やおじいちゃんおばあちゃんが自由に語らい世間では季節は春休みだと気付く。
空を見上げれば桜のつぼみもすっかり膨らんで、新緑が眩しく輝き道を照らす、自然に触れて少しだけ気分も楽になった気がする。
そして目と鼻の先にある、マンションから見渡せる先に辿り着いた海。
今日は割と暖かいなぁ。と頭の片隅でぼんやりと考える。
穏やかな水面は朝日に輝いてキラキラと光り、思わず履いて居たワンピースをたくし上げて浜辺に歩みを進めたくなる程に。
一歩、また一歩
「本当に、このまま海に泡になって溶けちゃえばどんなに楽かな?」
風がふわりと海の髪を浚い、寄せては返す波は…再び押し寄せる波は孤独にも似た絶望感。
人魚姫みたいにあの人とあの人の好きな人の幸せを願いながら綺麗に泡になってしまえたら。
そんな綺麗な気持ちになんてなれないくらいに彼女の思いは溢れて止まらなかった。
海辺に佇み無意識に涙が頬を伝った。
逢いたい、逢いたいのにもう愛しい彼にはあえないのだ、今逢ったとしても傷つくのは明らかだった。
また追い返されてしまうのだろう。
募る気持ちばかりが溢れ出し喪失感にいたたまれなくなった傍に居て欲しい人は居るのに。
吹き寄せる風……人恋しき冷たい海水に足首まで浸かり昇りだした朝日はどうしようもなく彼女を人肌恋しい気持ちにさせた。
ブーツを脱ぎ捨て波打ち際をゆっくり歩いた。
遠方にはサーファー達が波を捕まえようとサーフィンボードが波打ち際にキラキラと朝日を受けて煌めいている。
春の冷たい海に白い足は再び赤く染まり、次第に突き刺さるような痛みを感じたその先に。
「ん?」
波が押し寄せるちょうど窪みのある岩陰に確かに誰かが倒れていたのだ。
恐る恐る近づき思い切ってのぞき込めばまるで海に溺れた王子様のように美しい少年。
運命が2人を巡り合わせ繋ぎ一瞬にして引き寄せたなんて。駆け寄る海は気づきもしなかった。
2017.12.30
prev |next
[back to top]