想像の中で唇を重ねて見つめあって。好きな人がいることは幸せなこと。けど、自分が相手をただ思うだけでなく、相手からも同じように思われて、2人が同じ気持ちでいたら。人はそれを幸せだと呼ぶだろう。
そんな相手とずっと一緒にいられたら。
彼を知れば知る程好きになって、止まらなくて、そして求めてしまった。しかし、それは相手が同じ気持ちであればの話であって、それ以上踏み出せないのは自分の臆病さ。せっかく彼は求めに応えてくれたのに自分の曖昧な発言も、意地になって言ってしまったが最後、開きかけたリオンの心のドアはまた閉じてしまった。
追いかけても追いかけてもまるで月と太陽のように離れていく。向き合う事から逃げて、心を閉ざした2人がいつか見つめあえる日は来るのだろうか。
あの日を境に、リオンと海は別々の部屋で寝るようになった。海は血を流しながらもリオンと束の間だけでも幸福を感じ愛しあったベッド、リオンはリビングのソファで。
ふたりはお互いを思うがゆえに距離を置き海はリオンが準備した朝食を食べ、定置に置いてあるお弁当を手に早めに仕事へ向かうようになった。
残業を増やし、そして夜遅くに帰るようになり時には接待で飲みに行ったり友里や他の友達とご飯にも行くようになり、ほとんど夕飯もリオンと顔を会わせることはなくなった。
2人が心を通わせたのはあの夜だけ。しかし、心の通わない交わりは二人の距離を簡単に引き裂いた。
非情になりきれない心根の優しいリオンも罪悪感に駆られ、海が朝食を食べる間に掃除や洗濯に集中し、極力海と顔を会わせる時間を減らした。顔を見たら海も辛いだろうと気を遣い、職場へ迎えに行くのを止めて、夜も友達と出掛けたりする海の居ない部屋で映画を観ていた。そして海が帰ってくる頃には寝てるふりをしてブランケットを頭の先まですっぽり被って。
切ないラブストーリーは避け、リオンはアクション映画にのめり込んだ。
朝から図書館に引きこもり書物を読み漁ってはあらゆる知識を吸収することにし、剣を振り回せないこの世界、ならば頭を使い夜はぐっすり眠れるように。映画の中でがむしゃらに剣や銃火器を振り回し戦う主人公が今は羨ましかった。
戦いに身を置き続けていれば、海の事など、考えずに済んだだろう。命のやり取りをすれば今抱えてる悩みも命に比べたら小さなものだったと思えるだろうに。海への気持ちやあの夜のことを思い出して・・・今も2人で抱き合い体を重ねたダウンライトの下で艶やかしく身じろぐ海の姿がどうしても焼き付いて離れない。
海と近づけない距離がこんなに苦しいなんて・・・。眠れなかった夜、二人で朝を待ちながら映画を観ることもなくなってしまった現状がこんなに辛いなんて知らなかった。
今はたわいもない口喧嘩も懐かしい。あの頃のふたりは死んだのだろうか。星のない夜、9月に差し掛かり、一気に秋に近づく気配を感じながら海もリオンもそれぞれ違う時を過ごした。
「今年もやるんだね・・・」
夏の終わりの決まりの花火大会のチラシがテーブルの上に置いてあり海はそれを目にすると1人呟く。大きな独り言ではなく、それはリオンに向けてのもの。洗濯物を取り込んだリオンが久方ぶりに声を発した。
その声は変わらず海の鼓膜を刺激する。リオンの低音の声があの夜のことを彷彿とさせて、胸が高鳴り心拍数が上昇するかのように流れた汗がじわりと滲んだ。
「ああ、近所の人がポストに入れてたのを見た。祭りだそうだが、これは何を空に打ち上げてる?」
「んとね、お祭りってまぁそれはリオンの世界にもあるよね。ええっとね、それは花火って言ってね、火薬を使って空に打ち上げて爆発させてるの。ほら、あんな感じに。綺麗だね。」
「あれか・・・」
テレビでちょうど流れていたのは有名な花火大会のワンシーン。あんなに大規模ではないが海の住む田舎よりの町にも花火大会はあり、それは毎年夏の終わりとしてささやかに行われているものである。その祭りが終われば一気に涼しさを越えて寒くなり、そしてまた秋がやってくるのだ。
久方ぶりにリオンとまともに会話をした気がする。花火大会の話をする海にリオンは遠巻きに明るくて賑やかな場所でなら海とまともに話せるのではないかと思った。
「・・・お前は行きたいのか?」
「え、」
「その・・・花火大会だ。」
リオンとまともに目を合わせるのも久しぶりに感じるほどに。海はリオンの言葉に期待し、まるで心臓を鷲掴みされたように胸が高鳴った。もしかしたら、一緒について来てくれるの?淡い期待を抱いてしまう。背中を向けて洗濯物を畳んではいるがリオンはしっかり自分と向き合ってくれている。チャンスだと言わんばかりに海は勇気を出してもうひと声掛けた。
「一緒に、いって・・・くれるの?」
「ああ、そうだな。」
「ほんと!?」
海の瞳は瞬く間に光り輝くものへと変わって。無邪気に喜ぶ海の久方ぶりの笑顔を見たリオンは心が癒されてゆくようだった。リオンは素直に感情を表情に出す海の事を改めて愛しく感じた。
夏の終わりはどうしても物悲しくて、オレンジの世界が全てを染めて。人の心は寒くなるにつれてどうしても開放的な気持ちから次第に塞ぎ込むように落ち込んでいくものだ。しかし、リオンが応えてくれたから。夏の終わりを迎えても、これからもリオンと一緒にいられるという確信的な思いへ変わる。昨日までの悲観的な気持ちはどこへやら、うきうき気分で着ていく浴衣をどうしようかとまで、考え始める始末だ。引越しの準備もあるが、今はまだリオンとの甘い夢に浸っていたい。
例えこれが夏が見せた幻だとしても。またリオンにあの声で囁かれて抱き締められたい。例えあの言葉をきっかけにリオンが自分をもう好きでなくなってしまっても。
「これを、僕が着るのか?」
「うん、着方は簡単だから。着てみて!きっと似合うよっ!」
海がリオンに用意したのは紺色のしじら織りのシンプルな甚平だった。リオンの黒髪には絶対に和装が映える。生まれて初めての和装やハーフパンツ丈から覗く自分の真っ白な素足に戸惑いながらもリオンは着付けを終えると、同じく着替えたのかドアを開けて現れた海の浴衣姿に目が釘付けになった。
「どう、かな?」
恥ずかしそうに俯きながら笑う海の仕草。清楚な雰囲気を纏う純白が似合う海には珍しい濃い紫色に大きな蝶や薔薇の花が散りばめられた浴衣姿。自分に合わせたかのような色彩と赤い紅をルージュに大人びた海の姿はリオンの心を奪い去った。
海の和装姿はリオンには新鮮に映えて、そして普段下ろしている髪は緩やかに纏め上げられ、その髪から覗く普段は隠されているうなじや、立ち上る香水の香り。光を浴びて輝く色白の肌がやけに扇状的に感じた。
海は綺麗になった。と思う。
自分と出会う前はこの世の終わりのような顔をしていた海だったが、今は本当に匂い立つような色香を感じる。たった一度きりのあの夜のことを思い出すだけで今まで感じたこともない劣情、海の甘い声も、柔らかな肌は今も鮮明に覚えている。
海はいつもいい香りがして、また彼女に触れたいとさえ感じるようになって。それは男として当たり前の本能なのだが、リオンは自分が異常だと思っているが、異性に触れたいと思う欲求は、人として当たり前の本能なのだと教えてくれる人はもう居ない。
誰が見ても簡単に指摘できるほど、海とリオンは互いは互いを思っているのに。
それが海を好きだと言う感情なのに、リオンはぎこち無くなり、そんな自分を恥じ、海とうまく話せなくなり、避けるようになってしまったのだ。女とは本当に魔物のようだ。リオンは胸の高鳴りに、こんなに異性に心を奪われる自分がいたこと、ただ、驚いていた。
マリアンも黒髪の美しい女性であったが今となれば、マリアンへの思いは母性のような憧れにも似た感情、海にはもっと強い思い、触れたいという強い欲求を抱いていること。叶うならもっと触れたかった、海を独り占めしたかった。
今の浴衣姿の海を祭りの中に1人にしたら海はあっと言う間に悪い男に簡単にさらわれてしまう。
「ふぅ、やっぱり9月でもまだ暑いね、」
「そうだな、これは、涼しいがな。」
甚平は風通しがいいが海が着ているものは浴衣。確かに暑そうだ。その証拠に汗ばんだ肌が夕日に輝いている。顎を伝う汗が流れていくのがやけに生々しくリオンには映った。袖から取り出した扇子でパタパタと扇ぐ度に香水の香りがふわふわとリオンの鼻腔をかすめて、リオンは嫌でもあの日の夜を思い出すのだった。あれは夢ではなく、願望でもなく、実際に起きたこと、海の初めてを自分みたいな人間が奪ってしまったこと。
「わっ・・・思ったより混んでるね・・・」
「田舎寄りなのにこんなに人がいるなんて知らなかった・・・」
「田舎だからこそ、だよ!このお祭りは特にね、」
祭り開場は特設会場が出来ており、人波であふれかえっている。開始時間に間に合ったようだ。どこからともなく花火開始のカウントダウンが始まる。海は急かすようにリオンの手を引いた。はぐれないように、そんな意味合いよりも単にリオンと手を繋ぎたかったから。
海もリオンを今つなぎ止めておかなければ、居なくなってしまいそうな、そんな気がした。
リオンも出会った頃よりも見目麗しく、中性的な色香を放っている。和装も思った通りに似合っていて、海も心臓が痛くなるほどあの日の夜を思い起こしてドキドキしていた。苦しげなリオンの表情も、艶っぽい声も今も鮮明に覚えていて、あの夜のことを思うと泣くほど痛くて仕方なかったのに、それよりもリオンへの思いが勝って、たまらなく切なくなった。
「あ、間に合ったね、そろそろ始まるよ、行こ行こ!」
この地域の特有の踊りを見たり出店で海がたらふく食べて祭りを堪能したあと、リオンは海に手を引かれ、2人で人混みから離れて近くにあるベンチへ向かう。時間を確認すると、肩を並べるように腰掛けた。
「あと1分、ギリギリだな」
「気分は平気?ラムネのむ?」
「炭酸・・・苦手なんだ。紅茶でいい。お前はせっかくなんだからビールでも飲めばいいだろ、」
「そ、そう・・・?じゃあ、」
花火鑑賞のお供に買ったビールを手にやがて2人の間に静かな沈黙が流れた。それを遮るように真っ先に口を開いたのは海で。海は友里が仕組んだ嘘だとも知らずに、にこにこと笑いながらリオンに世間話のように会話を続ける。
「あ、そうそう!友里ちゃんから聞いたんだけど、このお祭りってカップルで行くと別れるんだけれど、花火が打ちあがった瞬間にキスを交わした恋人はずーっと幸せでいられるんだって!」
「お前ってやつは・・・本当に馬鹿だな。そんな戯れ言をあいつが本気で信じていると思うか?」
「えっ!嘘なの!?」
「馬鹿。」
その無邪気な笑顔が余りにも眩しくて。嘘だと知ればぽかんと大口を開けて。簡単に騙されてしまう海の純真さにリオンは瞳を優しく細めて、ベンチに並んだ海の手をそっと握った。
「けれど、僕はそんなお前の純真さが羨ましいよ」
「えっ、」
「人間は・・・穢く欲深く浅ましい生き物だ。そう思っていたし、そう教えこまれていた、他人を信じるなと。だが、お前といるとお前みたいな本当に穢れのない真っ直ぐで、純粋な人間もいるんだなと。僕は・・・まだ、簡単には信じられないが、お前だけは・・・違う、」
強くその手を握り、海を射るかのような目で反らさず、まっすぐ見つめるリオンの切れ長の深い澄んだ紫紺の瞳。どんなに冷たくしても、どんなに突き放しても、それでも変わらず笑顔で癒してくれたこと。
不意に耳元で囁かれた言葉に目を見開いたままの海の肩を引き寄せ、リオンは海に唇を重ねたのだ。閉じた瞳の瞼越しに見えた世界は鮮やかに光り輝き、2人を祝福していた。耳をつんざく花火特有の轟音に微かにリオンの肩が跳ねたのを海は横目に感じながらもリオンのキスを受け止めていた。花火がタイミング良く上がり、空にはまばゆい色とりどりの光が見えた気がした。
「ありがとう」
時に¨愛してる¨と、そう言ってしまえば価値が薄れて、儚く消えていきそうで・・・。そう、言葉はもういらない。明日は来ない、かもしれない。それならば、今なら心からそう思える。そのままリオンは強く海を抱きしめた。
「ありがとうは私の台詞だよ。ありがとう、エミリオ」
愛してるの言葉は陳腐に聞こえた、愛してるでは言葉が足りない。それが海の答え。
時が経つのも忘れ、2人は重なった思いを確かめ合うように抱き合った。簡単な思いでは無いから。お互いがお互いを思うからこそ失いたくなくて、手放せなくて、この感情を口にしたら、この関係が壊れてしまうのが怖かった。だから言葉には出来なかった。だが、あの夜にあんなにも求めあって過ごした2人がお互いどんな気持ちか確信はなくても、言葉にしなくても伝わる気がした。
祭りのあと。リオンも海も花火が終わってからも人混みの中でずっと手を離さなかった。
2人で肩を並べて歩く川沿いの堤防、川辺を流れてゆく灯篭を横目に2人はゆっくり歩いた。ビールを飲んだ海の思考の中で、リオンの自分を包む手はこんなに大きかっただろうか、自分と並ぶ彼の目線がいつもよりも遥か上に感じて、一緒にいたからわからなかったが、リオンは背が伸びた気がするなと感じた。
「先にお風呂に入ってていいよ、」
「海。」
「ん?」
マンションに着くなり、リオンは海の手首を掴むと暗闇の中、玄関のドアに海を押し付けて深い深いキスをした。
突然のキスに驚きながらも、クールで何を考えているのかわからないリオンからは俄に想像もつかない激しいキスに酔いしれ、海は抵抗することはしなかった。そう、どんな理由をつけても自分よりも若い年下の男に迫られて流されているだけだと、わかっている。
だって彼は確信的な言葉は何も言っていない。
愛してるなんて、言われてないのに。
「待ってエミリオ・・・ここじゃ・・・それに、お風呂だって・・・」
祭りのあとの高揚感と9月のまだ蒸し暑い熱に浮かされて。暗闇の中のリオンの瞳はまるで夏の夜空を閉じ込めたように煌めいていた。
身につけていた浴衣も巻き付けていた帯も全部取り払われて、もつれ合うように抱き合い、束の間愛し合ったあのベッドまでたどり着けないまま2人はソファで抱き合い、海はリオンに全てを委ねるように瞳を閉じた。どうか、あの花火のジンクスが嘘だとしても、願いを叶えてほしい。乱暴でもいいからどうかリオンを連れて行かないでと、自分に覆いかぶさる背中にしがみつきながら痛みに震える中、そんなことを切実に願った。
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