エミリオと出会えて止められた煙草もまた吸うようになり、肌寒くなる夜に次第に沈む夕日もだんだんと早くなり、そして冷たい風と共に夏が終わってしまった。それまでにはこの曖昧な関係もどうにかなるのかと思っていた。しかし、海のその願いは届かなかったのだろう。
あの夜を境に変わってしまった二人の関係。お互いがお互いを意識し始めているのは周りから見れば明らかで。街を歩けばきっとカップルとして見られている。それでもお互い異なる世界の人間で、そしていつかは離れる未来がわかるからこそ、臆病な2人はお互いに歩み寄ることが出来ないまま身体は恋人同士のように動くのに、肝心な言葉が言えなくて。愛し合えるのに、ぎこちなく拙い同居関係を続けていた。
「こんにちはー!」
「あっ、友里ちゃん、いらっしゃい!海翔くんも!」
それからまたしばらく過ぎた9月末、引っ越しの日がやって来た。まさかこんなに引っ越しが長引くとは思わなかったから。ついでに節約のために業者を頼まなかったのもあり、ふたりの助っ人を呼んだのだ。
リオンと共同して作業をするのは会話が続かなくなりそうで、それに空気が気まずかったのもあったから、
海は友里が借りてきたトラックを運転する係、リオンと引越し屋のバイトも経験済みの海翔と共同で荷物を運びだし、海は着てきた服を整理してもう思い出したくもない元カレと暮らした偽りの夫婦ごっこを演じたマンションに別れを告げた。
これで本当にさよならだ。海は瞳を閉じ、そしてリオンに目を配る。ろくに会話すら出来なくなったのに、恋人ではない、しかし、自分が好きだからこそ故に身体を重ねてしまった彼と今さら暮らす意味などあるのだろうか。しかし、それでもリオンと一緒に居たいと痛切に思う。
リオンを引き戻したのは海自身で、リオンにいなくならないで欲しいと切望した。どんな関係でも繋がっていたいと、それでもリオンを諦めることは出来なくて、リオンと離ればなれになるなんて自分が一番、堪えきれなかった。
先にアパートについた海はタンスの服を片付けながら友里が持ってきたファーストフードの紙袋に飛び付いた。
「あっ!おいしそう!買ってきたの!?私の好きなの・・・あっ!あったー!」
「そうそう。ほら、あんたの好きなでっかいハンバーガーにコーヒーはブラック。ポテトもあるわよ?」
「わーい!やったぁ!ありがとう、友里ちゃんっ」
小躍りして喜ぶ海の子供のような無邪気さに友里は年はそんなに変わらないのにまるで妹ができたようでほほえましかった。異性からの誘いは常に絶えないが、恋多き故に彼女を妬み同姓からはあまり親しみを得られなかった友里を純粋に慕ってくれる海は自分にはかけがえのない友達で。
しかし、選んだのは友里ではない。お昼にと、選んだのはリオンだったから。
「選んだのはリオンなんだけどね。私は受け取っただけ。リオン、あんたに気遣ってるみたいよ?」
「え・・・リオンが・・・?」
リオンが自分の好んで食べるものを選んでわかってくれた。初めてのドライブスルーでハンバーガーを口にしたリオンはいかにも身体に悪そうなその食べ物を拒否した記憶はもう遠い昔のように感じた。自分が当たり前のように大口を開けてハンバーガーにかぶりつくその姿を下品だとドン引きしていたのも海には懐かしくて、まだリオンと喧嘩しながらも仲良くしていた頃。
今はそれが恋しくて懐かしくて、しかし、今は・・・ただ申し訳なさで受け取ったハンバーガーを口にするも、味が感じられなかった。リオンはこうして口にしなくても自分に気を配ってくれているのに。自分が曖昧で臆病だからリオンを傷つけてばかりで、リオンにその優しさを返すことは出来ないのだろうか。
「海・・・?」
「友里ちゃん・・・私・・・っ、どうしたら・・・いいのかな・・・ぁっ・・・」
「ちょっと、どうしたの?何があったのよ・・・」
「あのね、私・・・リオンと・・・」
さっきまでニコニコ笑っていたのに、今は曇天の雨に打たれたような悲哀の表情で海はその場に崩れ落ちてしまった。
誰にも言えなかったあの夜の思いや、痛みも、悲しみも喜びも、海は泣きながら友里に全てを打ち明けた。
「海・・・泣かないの。」
「リオン・・・リオン・・・っ、私、ひどい女なの。海翔くんもリオンも振り回して、こんなのダメだって、よくないって分かってるのに・・・結局怖くてなにも出来ない、言えないんだから・・・!」
ついに、堪えてきた感情が爆発して海を激しく責め立てた。口にしたハンバーガーからは、リオンの優しさが痛いくらいに伝わってくる。泣きわめく海を宥めながら友里は信じ難かったが、あの潔癖で女なんか目もくれないリオンが、あの冷徹なリオンが、まさか海と・・・。痛みと幸福と相反する感情の中、泣きながらも年の離れたリオンへの思いを打ち明ける海の真意を察するのだった。
海にとってリオンの優しさが今は何よりも切なくて、痛くて。海はどうすることも出来ず子供みたいに泣きわめくばかり。リオンから向き合うことから逃げ続けいつになれば解放されるのだろう。お互いの気持ちを打ち明ければ幸せはすぐ目の前、なのに。
「ねぇ、海・・・やっぱりこのままじゃ良くないってこと、自分でもわかってるんでしょ?」
「うん・・・分かってる、わかってるよ・・・」
「身体だけの関係なんて、海には似合わないよ。だからね、海、この際やっぱりリオンにはっきりちゃんと好きだって、告白しなさい。」
「えっ!そんな・・・!そんなの、無理だよっ、リオンには好きな人がいるんだよ?振られるに決まってるっ、これ以上気まずくなって、リオンがほんとに居なくなったら・・・!」
「リオンが振る?海を?だって、あの見るからに潔癖でどんな美女も女なんてクズだと言わんばかりに見下していたリオンが海と一緒に暮らしてて、そんで、そういう風になるってことは・・・きっと・・・それにこのままの関係でいる方が何百倍も辛いじゃない!それなら潔く振られて思い切り泣いてそしたら、きっと吹っ切れるわよ」
「友里ちゃん・・・」
そうして友里はなるべく明るい笑顔で海が少しでも笑ってくれるように、優しく小さな身体を抱きしめてやる。
「2人でどこか遠出でもしてさ、温泉でもいいかなぁ、とにかく2人きりになれるところ。そんで眺めのいいところでリオンに告白しなさい。そんで、もし振られても潔くそれはそれで大人の女になる為だったって、いい思い出にしてさ。いつかは離れるって分かってても、でも、初めての人がリオンでよかったって思える日がいつか必ず来るから。」
「友里・・・ちゃん、」
明るく振る舞っていても、あの日を境に咲いていた華が萎れてゆくように、笑みも消え、新居になったアパートの2階という新天地にも海は笑みが消えてしまっていた。しかし、友里の話を聞きながら海は小さな可能性を信じてみることにした。
いつまでも宙ぶらりんなこの関係を続けるよりも。確かにそうだ、踏み出してしまえば。
世界の終わりのように落ち込む海を気にしながらリオンは海翔と近くのドラッグストアまで買い出しに出掛けていた。あの海が見えるマンションの地から離れた見慣れぬ地を見渡しながら、リオンはこれからどうしたらいいのか、2人にとっての新天地、新しい道を、模索していた。
「おい、この世の終わりみたいな顔すんなよ。」
「そう見えるか?」
「あぁ、すんげぇ顔してる。さっき、タンス足に落としても澄ましてたくせに。海ちゃんが心配したのに無視したり、それなのに海ちゃんが重いもの運ぼうとすると奪い返したり、」
やはり、この男は苦手だとリオンは改めて感じた。外面はいいが、本当に他人のことをよく見ている。内心では何を考えているかわからない。特に、自分が敵対する男には。
やけにカンが鋭く、容赦ない言葉がリオンを責め立てるようだった。
「貴様には関係な・・・「大有りだね。俺、生まれて好きな子に、はじめて振られたんだよ。」
「貴様みたいな不真面目な奴をあいつが相手する筈ないだろう。」
「そうかもな・・・」
スーパーマーケットで飲み物や食料品を買い漁りながら海翔は足を止めリオンに今にも殴りかかりそうな勢いで突っかかってくるもんだからリオンも不快感と怒りを露にしそれを乱暴に海翔に突き返し怒気迫る表情をしている。しかし、怒りに震える姿は肯定してるのと同じ。
「けど、俺は、大真面目だよ、海ちゃんを思うからこそ、海ちゃんは傷ついていた、けど、きっと海ちゃんはお前のために言わない。海ちゃんの首にあったキスマーク、どうせお前なんだろ?」
好きな癖に、ドロッドロになりそうなほどに苦しんでいるのに。それでもそれを隠そうとすらするリオンに対し海翔の苛立ちは最高潮だ。
「無理やりヤッたの?海ちゃんの事。そんで海ちゃんを泣かせたの?」
「っ・・・違う」
海翔みたいに容易く口に出来るなら、こんなに苦しむこともないのに。リオンは肯定も否定もしなかった。
夢で見た海との別れ、あまりの苦しみに海を穢れた手で無理矢理暴いた自分が恨めしいくせに止められない欲求はいつも身体を火照らせて、静まってくれない。今もリアルに感じる海の温もりや細くきめこまやかな美しい白い素肌を一度覚えたら頭から離れなくなってしまった、こんな汚い感情が自分にあったなんて、リオンは信じがたかった、それが男として当たり前なんだと、誰も今まで教えてくれなかった。自分は、駒で、愛し愛される未来など、喜びなど知らなかった。知ることはないー・・・そう、思っていた。
「海ちゃんが笑えないのがお前のせいなら、俺は我慢しない。クールぶって真っ先に手出しやがって!お前みたいないつまでも逃げ続けてウジウジした奴が、海ちゃんを幸せになんか出来ないんだよ!情けねぇ!」
突き飛ばされるように雑誌のコーナーに叩きつけられた背中、遥かに上背のある海翔に見下されリオンは迫力よりもそのダイレクトな言葉に息を詰まらせた。決めつけるなとも言えない、海が苦しんでいるのが自分があんな風に無理矢理閉じ込めたから嫌で嫌で仕方ないと思っていた。同じ気持ちじゃないと思っていた。
「海ちゃん、何であんなに辛そうなんだよ!前に元カレに振られた時より真っ青な顔して落ち込んでるじゃねぇか!」
「お前には・・・関係ない・・・」
「関係ある!俺は、海ちゃんが好きだし、笑っていて欲しい。半年間も海ちゃんも一緒にいたのにわからないの?ヤッたならとっくに確かめたんだろ?海ちゃんに触ってどうだったんだ?結局、お前は海ちゃんと何がしたいんだよ!ヤリたいだけなら店でも行けよ!」
「やかましい!部外者のくせに!お前なんかに何がわかる・・・!」
よく知りもしない部外者のくせに口を挟んでくる海翔にリオンもついに堪忍袋の緒が切れて若さゆえにキレやすいのか衝動で言い返す。突然始まった今にも殴り合いになりそうな若いふたりの剣幕にざわめき出すドラッグストア。
「知・る・か・よ!わかりたくなんかねぇんだよ!興味もない。お前が海ちゃんに何したか知らねぇけど、知りたくもないけど、海ちゃんと付き合う気がないなら海ちゃんの前から居なくなってくれないかな?そしたら俺が貰うから。」
しかし、リオンは引かなかった。それよりも海の笑みが目の前の自分より上背のある海翔に奪われるのも、向けられるのも嫌だった。たとえエゴだとしても、
「エミリオ!」
海を手放せなくなったのは自分だった。
「ふざけるな。海はモノじゃない。それに、僕は性欲処理の為に海を好きになったわけではない!」
「言うじゃん。なら、ハッキリさせろよ・・・海ちゃんを、これ以上悲しませるくらいなら・・・中途半端な事しないで、早く諦めさせてやれよ、いいか?海ちゃんは態度よりも今は言葉が欲しいんだ。リオンの口から聞きたいんだよ。」
どちらにせよ、自分はいずれ遅かれ早かれいつかはいなくなる。なら去り際に静かに恋をしていたと伝えれば一番いいんだろう、分からない、何が正しいのか。結局、自分は海を悲しませて置き去りにすることしか出来ないのだから。
「他人の色恋沙汰を邪魔するやつは馬に踏まれるんだぜ?」
「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死ぬ、だ。」
「お前、真面目すぎんだよ。いつまでたっても、世間体とか年齢なんかな、好きになったら関係ないんだよ!わかったか?」
「・・・そうだな、」
「2人で旅行でも行って、眺めのいいところで、告白しろよ、」
友里が海に言ったことと同じことを海翔もリオンに言い放った。これで何かが解決したわけではないが、海翔がなんだかんだ言いながら自分が海に思いを打ち明けるのを急かすように感じられた。次は容赦しないと、言わんばかりに。
リオンは問いたかった。海に、今にも。同じ気持ちで、いるのか、あの言葉に、自惚れていいのか。
きっとその答えも、海の笑顔を見たら、確信できる。確信したら、踏み出せるかもしれない。
一世一代の、胸を締め付ける痛み、マリアンでは得られなかったそれを海は与えてくれた。柔らかな風に誘われて、にこにこと優しく笑い海のはにかんだ笑みがいつでも脳裏をよぎるから。次第に目が離せなくなった。優しくて甘い香りも、緩やかな髪も抱き締めたくなる自分より華奢で小さな身体も。
引っ越し作業はその夜までかかり、結局海ひとりとリオンの少しの荷物だったが海の服が思ったよりたくさんあったので翌日に持ち越しとなった。
友里が借りてきたトラックに乗り、海翔と友里と別れた二人。
ついにふたりの新生活が始まった。友里に心配されたが海はなんとかリオンと向き合うことを決めた。
約束していたから、どんな結末が待っていても、リオンから逃げないと、そう決めて、お風呂に入ろうとした瞬間だった。
「ひっ・・・!きゃあああー!」
「どうした?」
急に、どこからか紛れ込んだカメムシが海の目の前の浴槽に落ちて優雅に泳ぎだしたのだ。ただでさえ殺す間際に悪臭を放つカメムシ。誰でも、その中でも女性の海はどんなに強がっていてもやっぱり虫は苦手の部類で。脇目もふらず、裸のままお風呂から飛び出し慌ててタオルを巻くとリオンのもとに走った。
「か、カメムシが!!助けて!」
「なっ!おい・・・いきなり・・・っ!」
いきなり押し倒す勢いで抱きついてきた海の柔らかな肢体が嫌でも身体を熱くさせる。
前以上に海の無防備な姿が余計にリオンの胸を何よりも苦しめていた。それでも自分にすがってくる海が何よりも愛しく、あの夜を願った。
海は赦してくれた、こんな自分を、そして、必要としてくれたことが何よりの救いだった。
「待ってろ、今・・・」
「行かないで・・・エミリオ・・・」
カメムシが怖くてショックで震えて自分にすがっているだけだとしてもいい。今は仮初めの思いだけでいい、
「そばに、いて・・・」
例え、臆病な海にとってただの他人だと言う認識でも。リオンに覆いかぶさったまま静止している状態で。どちらからともなく見つめ合い、重なる口唇。焼け付くような残暑が残るアパートでリオンは海が身体に巻いていたバスタオルを奪うように裸の海を抱き締めた。
「えっ・・・!エミ、リオ・・・」
「海・・・」
クールで冷酷な彼の、熱く見つめるそのまなざしが逆らえなくさせるというのに。
もうお互いが無心で求め合うようになってしまった。ソファに移動して戸惑う海を抱きながらリオンは感じた。やはり、自分の下で涙を浮かべる海が愛しくてたまらないと。痛みに顔を歪めながらも決して自分を拒まない優しさ、そうして感じた束の間の温もりはリオンにも、海にも、ふたりの愛を改めて実感させたのだった。
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