彼女を残しリオンは降り止まない雨の下を歩き出す。
濡れたシャツが素肌に張り付き気持ち悪いが、心は清々しかった。これで、いい。
「これで、良かったんだろう・・・?」
1人呟きそう、口にすれば、この先海と言う支えをなくしてこの見知らぬ世界でどう生きていくのかさえも分からないで・・・海はあの男の言葉を心身に受け止めたのだろうか。リオンはそれが気がかりだった。しかし、まさか妻子持ちでありながら海と付き合うなんて。本当に、最低最悪な男だとリオンはそんな卑劣な男に海を渡してしまったことを今更ながらに悔やむが、かと言ってあんなに泣いて苦しんでいた海を1人にのままにして置けなかった。
いずれ自分は居なくなる存在。そんな自分のせいで海が新しい恋に踏み出せないのならば・・・海はあの男と、男女の関わりがあったのだろうか。それを連想させる言葉を聞いた時、リオンはたまらなく胸が締め付けられるようだった。
そんな卑劣な男に海を任せる気なんかなかった、しかし、思い知ってしまった。この呪われた感情を、自分には永遠など存在しない。遅かれ早かれやって来る別れが、海とリオンをいつかは引き離す。自分たちのこの暮らしにはタイムリミットがあるんだと。
寝ぼけ眼の海が重ねてきたキスを未だに覚えている。初めて交わした、生涯忘れられないくらいの強烈な目覚めの唇は柔らかくて、どんな甘味よりも甘かった。
あの男の言葉は、彼女を卑下し、馬鹿にしていたようにしか感じられなくてリオンにより一層の憎しみを抱かせた。
それを止めたのは、等しく自分以上に屈辱を味わされ憤怒を抱いているはずの海なのに。自分が手を出すまでもないと教えてくれたのだろう。そして、自分を庇い拳で殴られたのに。どれだけ彼女は優しいか、そして、思い知った海の自分にはない抗う強さと凛としたあの眼差しを。
思い出す。ふたりで水族館に出掛けたことを、
「わぁっ!可愛い〜あっ!見てみて!今、跳んだね!」
「お前はいちいちうるさいな。あれは可愛いこれは大きいねとか、僕の世界にはこうして動物を眺める文化などなかった。」
「そっか、じゃあ、連れてきて良かったね。イルカもペンギンも可愛いよね、ぬいぐるみも売ってるんだよ」
特に何も期待していなかったが、結局海は大型連休で何処にも行けぬまま海翔を優先したあの日だけは違った、リオンを差し置いて自分以外の男と出かけるのは気に入らなくて、気づけば言葉にならない怒りが爆発して盛大に彼女を皮肉ったものだ。そして、お詫びにと埋め合わせに連れてこられたのは県外の有名な水族館と呼ばれる場所で。
ごった返す人混みの中、はぐれないようにリオンの手を引く小さな手、どこもかしこも小さいくせに、態度は大きくて、こんな奴に振り回される生活が当たり前だと、感じるなんて。海と出会い、海を知るほどマリアンを忘れて行く恐怖を感じていた。
マリアンでは得られなかったこの胸を締め付ける感情はなんだ。
海がもたらす冷静じゃいられなくさせる激しい感情、どれもこれも影響が強すぎてうまく制御していけない。感じたことがない、この感情。
あの男と対峙して海が見せた表情を忘れられるはずなどない。
「こうしてみると、デートみたいだね、」
「は?」
「あっ!うぅん、なんでもないの!」
普段はのんびりおっとりしている性格のくせに急に真っ赤な顔で冗談めいたことを口にしたのは何故。海がいつかあいつの元へ行くのなら、引き留める言葉など皆無なのに。
いずれは、居なくなる身で自らの言葉で海を引き留める資格などないのに。浅ましくも願う自分がいる。
あいつを思い儚げに涙を流し帰りを来るはずのない知らせを待っていた海の後ろ姿を知っている。
―海に思われる男の憎たらしい思い、そして、海に近付く男に募る嫌悪感。
何もかも自暴自棄になっていたリオンを海が見つけて、居所を失った自分を、今までマリアンの大義名分の為に国やあいつらを欺き続けたリオンの過去を知らないどころか海は詮索すらしてこなかった。甘い声でリオンの背後にある強大な権力を狙う女とは違う。
そして、こいつはマリアンとも違った。
こいつはまたかつて旅した仲間たちとは違う空気を持っていた、滑稽なくらいに優しくて、だが厳しくて、そして儚い。
この空気の居心地のよさを何と呼ぶのだろうか。リオンは知らない。だが、リオンの中に次第に芽生えた感情がある。海が辛いなら、寂しいのなら、代わりでも傍に居てやろう、強がりな癖に誰よりも寂しがり屋の瞳を。とびきりの笑みで歩き出す背中を守ろう。ひねくれたリオンにいつも、本音をくれた海。
リオン、
その名を呼ぶ澄んだ甘くないソプラノがリオンを呼ぶ。小さくて気付けば守ろうと人知れずに抱き始めた、いとおしい存在。マリアンとは違い海に対して温かさと入り交じる切なさを感じていた。
海にとってリオンの存在は結局は長い人生の脇役の一人なのだろう?この半年と少し、こんなに短いのに、海とは最初から旅をしていた仲間以上の気持ちを抱き始めていた。
「ペンギン可愛い〜!あっ、こっち見てるよ!!」
「おい!うるさい!いちいち静かに観れないのか!」
「むっ!いいじゃない、可愛いんだもの!リオンとは違うもん!」
「ああそうか、それは悪かったな」
「ああっ、嘘だよ、リオンも可愛いよ。」
「フン、屈辱的だな・・・、男に向かって言う台詞か。」
いつの間にか、自分にもわからないほどにどす黒い感情が渦を巻いていた。もう本音を悟られないようにするのは限界に来ていた。この感情をたぶん言い当てられてしまったら最後だ。
決まりきった名義がある、自分は死んだのだ。
そして、自分はこの世界に生まれ生きた証も戸籍も存在しない。海がいつか海の元から居なくなるのは決まりきった避けられない未来だ。
こんな分際で気安く言葉にしていいものではない。
これが愛ではないと自分をだまし続けているなら。
一生墓場まで持っていこうと決めた。静かに海を見守ると決めた、しかし。もう限界だ。
マリアンも海も大切だ。しかしその気持ちは全く別の感情である。
「リオン、今日は楽しかった?」
「リオン、またデートしようね。」
「こらっ、リオン、ピーマンとニンジン食べなさい!」
「もぅ!意地悪!」
海。海。
雨の中諦めたように歩いていた後ろ姿の儚さを知っている。柔らかくて、いとおしくて、庇護欲を煽る、不思議な存在。触れたい、共に寝食を経て夜な夜な共に寝るようになった。海がいつも冷静なリオンをリオンではいられなくさせる。いつかは離れる、もし海今もあの男を慕い、愛している。
だから、身を引いた。行く宛もないのに、いつか来る未来が今日だっただけだ。いずれ離れるなら、別れが辛くなる前に彼女の前から消えよう。この世界に自分を知る人はいない。何処にも行く宛もないのに・・・行き着く先は何処だろう。そう思った時、リオンは聞き慣れた声を聞く。
「ちょっと・・・!?リオン?じゃないのっ!こんな雨の中何してるの?」
雨が止んだ気がした。
そこに居たのは仕事が長引き帰路に向かっていた友里の姿だった。普段派手な出で立ちの彼女のスーツ姿など見ていないから
黒のスーツに身を纏った友里もしっかりした社会人なのだと認識できる。
「海と喧嘩でもして飛び出してきたの?」
「いや、・・・」
「なら、なんでそんなずぶ濡れで歩いてるのよ・・・とにかく、乗りなさいよ」
思い沈黙の末にリオンは静かに海の笑顔を思い浮かべながらも友里に導かれるままに彼女の愛車に乗せてもらうと友里は家路へと車を走らせた。
「狭いけどあがって、ほら、タオル!」
「すまない」
友里の一人暮らしの1LDKのアパートは派手な彼女の割にはモノトーンのインテリアでシンプルに落ち着いていた。そしてやはり幾多の男と関係しているからなのか男物もチラホラ見える。タオルを受け取りずぶ濡れの身体を拭くと友里が暖かい紅茶の入ったカップをリオンへ手渡した。
「紅茶しかなくてさぁ〜ごめんね、」
「ああ。大丈夫だ。」
「それで、どうしたのよ、1人でずぶ濡れで道路歩いてるなんて・・・海と何かあったの?」
海と何かあった訳では無いが、何かあったとするならば海に変化があったわけで・・・海は友里に元彼のことについて相談していたのだろうか。リオンは思考を張り巡らせながらも紅茶を一口飲むと重く閉ざした口を開いた。
「・・・海の元彼がいきなり現れてな、あいつとやり直したいと言うから僕がいたら邪魔だと思って、出てきたんだ。」
すると、真面目に話を聞いていた友里がいきなり驚愕の表情を浮かべ、手に持っていた自分の飲もうとしていたカップを思わず落としかけるほど驚いた。
「なん・・・ですって?そ、それでどうしたの!?海とあいつを二人きりにして自分は邪魔者だから出てきたって事!?」
「簡単に言えばそうなる。海には世話になった、邪魔はしたくない。」
「なんで!そんなことしたの!?海ったらリオンに肝心なこと話してないじゃない!」
「おい、元彼は既婚者だとは知ったが何をそんなに慌てる必要がある?海は元彼が迎えに来てくれるのを待っていたんじゃないのか?」
「確かにそうだけど、それだけじゃないのよ!そうじゃないっ!そうじゃないのよっ!急いで行かなきゃ!」
「どうした?何故戻る。せっかくの二人きりなのに邪魔をするなんて・・・」
「いいから言うこと聞いて!海の元彼よ、あいつ自分が元空手の国体の選手だって言ってなかった?あんた殴られたりとかしなかった?」
胸ぐらを掴まれ確かに殴られそうになったが自分からすれば国体だろうが、日本の格闘技だろうが客員剣士として戦い続けてきた自分には何の敵でも無かった、しかし、海が絡めば話は別。海は自分を庇いだてしてまで、あの男から守ろうとした。
「殴られそうになったが・・・確かに言っていたな。」
「なんで二人きりにしたの?あいつがどんなやつかよく知りもしないで・・・!」
友里の悲痛な声にリオンが気づかないわけがない。あの暴力は元から日常茶飯事で行われてきたということに。そして、前に見たことがある、海の右手に嵌められていた指輪もふと、気づけば飾られていた写真もみんな消えていたこと、それは海の元彼に対する未練が消えたということ、海はもう元彼の呪縛から解き放たれて前を向いて歩み出していたのに自分はそれを突き放した。そして、あの暴力男を再び海に引き合わせて二人きりという状況にしてしまったことに・・・。
血相を変えて立ち上がった友里の姿にリオンも察したのか迷わず立ち上がり終いには友里より先に走り出した。
「車出すから乗って!」
そして自分が起こした出来事が取り返しのつかない事態を引き起こさないように、海の笑顔を再び奪うきっかけを与えてはならないと、
自分を庇って殴られた海。それは日常茶飯事の出来事なのだと車を走らせながら友里は海が口にしなかった過去をリオンに語り始めた。
「あいつ・・・とんでもないDV野郎でね、海はそれでもあの子、いい歳して子供みたいに、純粋なところがあるでしょう?好きだって、逆らわないように機嫌を損ねないようにってニコニコしながら過ごしていたわ・・・」
正式名はドメスティック・バイオレンス。彼女は日常的に暴力を振るわれていたのだろう。そして精神的に支配されコントロールされていたのだ。
「しかもずるいことに、顔は絶対に殴らないのよ。自分が暴力振るってるのを分からないように身体に傷、つけていたんじゃないかしら・・・本当に、最低な男でね、逆に海から別れられないのならあいつから海を解放してって、思ってたらまさかの既婚者だとはね・・・奥さんにも見つかってね、裁判沙汰にまでなって海はすごく傷ついたはずよ・・・そのせいで前の仕事もクビになって・・・本当に1人になってしまって・・・見てられなかったなぁ・・・あの時の海」
「そう、だったのか・・・」
「知らなかったのは海の優しさね、それとも、リオンにどんな理由があれ、不倫してたこと知られて、軽蔑されるのが怖かったのかしら・・・」
自分は全く知らなかった。いや、知ろうともしていなかった気がする、悲しい海の過去。
精神を病むのも無理もない。自分が知らない間に奥さんのいる男と不倫してたなんて。とてもじゃないがショックだろう。まして子供のように純真な海のことだから尚更。
他人にこんなふうに過去に踏み込んだ会話なんてしたことも無かった、しかし、海の過去を知り、リオンは今まで抱いたことの無い感情を抱く。ぐるぐると思考を占める海のいつもの満面の笑顔、そして突如として現れた勝ち誇った元彼の姿に、たじろぐ自分がいて。初めて後悔した、海を1人にしてしまったことを。友里はリオンに向けて海が抱き始めた思いを感じたからこそリオンに明かさなかったのに余計なことを口走ってしまったと悔いたが、ここまで口にしたならリオンが海をどう思っているかはさておき、
「海はあんたのことを邪魔だとか、そんなこと一切思ってないわよ。それはわかるでしょ?海のことだから誰にでも優しいと思うかもしれないけど、リオンは特別。だからこそこうして着いてきてくれたんでしょ?」
「・・・そうだな。」
口にはしないが、リオンの中でも海は特別な存在として記憶を占めはじめていたから。
「ねぇ、リオンは海のこと、好きなの?」
「何を言うかと思えばそんなくだらん事か。」
「くだらない!?海にとっては大事なことよ!どうなの?一緒に暮らしてて何も感じないならそれはそれでおかしいとは思うけど・・・海だって、生身のオンナなんだからね!」
「僕があいつをどう思っているかなんてお前に関係ないだろう。」
「まぁ〜生意気ねっ!!人が心配してるってのに!」
車を走らせながら後部座席のリオンに問いかける友里の顔には妖しい笑み。呆れたような問いかけにリオンは否定も肯定もしない、好きだとか愛だとかそんな目に見えない不確かな感情など反吐が出ると、しかし、人を愛したことも愛されたこともなく、恋を知らないそれでも愛を欲していたリオンは自分の捨てた名を明かす程、海の事を思い始めていたと言うのに。
愛を欲したところで得られたことなんてなかった。むしろ、海とはいつか離れるのだ。ならば、どうせ、いつかは失うのなら、愛なんて最初から求めなければいいのだ。そうすれば最初から傷つくこともない。
車を走らせる友里には告げず。リオンはただ、海が無事であることを願った。
一方で、海は上昇し始めたエレベータの中で
1人鏡に凭れてため息をついた。
リオンに、聞かれてしまった。隠し続けてきたこと、元彼のことも、元彼が挑発的な態度で口にした海との関係も、純情なリオンを汚してしまった気がして知られたくなかったのに。
「違うね・・・私は誰よりも私自身がかわいいだけなんだ。自分を守るためにリオンに知られるのが嫌だったんだ」
リオンを汚したくないだけじゃなくて、私と彼のことを知ったリオンに軽蔑されるのが何よりも、嫌だったのだ。
「エミリオ・・・リオンの、本当の、名前・・・」
エミリオ、エレベーターから姿を消した彼が最後に見せた笑顔が胸を締め付けて、切なくて、忘れられない。リオンのお父さん。どんな人だったのかと思考を張り巡らせながらも今はもうリオンはここにはいない。
リオンが見せた凍りついていた表情は海が彼に抱いていたのと、同じだったから。無理に聞きたくないけれど、名前を戸籍から消すくらいだから、きっと冷たくて、愛なんかなかったんだ。誕生日さえ祝わないなんて。もしかしたら傷ついたリオンを虐待していたのかもしれない。
お母さんも兄弟もきっと居ないリオンはどれだけ辛い思いをして来たのか。その孤独は到底計り知れないだろう。
冷たい屋敷のなかでどれだけ、シャルティエと、マリアンがリオンの支えで、救われたのか痛いくらいに感じた。
「どうして、今さらになって・・・まるで、最後の別れみたいに言わないでよ。酷いよ・・・私、」
今すぐにリオンを追いかけたかったけれど、直通のエレベーターだから降りることも出来ない。急にさよならなんて、意味がわからなかった。
足が動かない、わかるのはどんな言葉より、エミリオの不器用すぎた優しさに金縛りにされたんだ。
力なくエレベーターにしゃがみこむ海、誰にも言えなかった気持ちや、過ごした辛い気持ち、飲み込んだ言葉が嫌で嫌で仕方なくて。今さら、リオンをあんな形で巻き込んだ罪悪感に苛まれてしまう。
「ごめんね、リオン」
居なくなったリオンに今さら詫びるなんて。元彼に罵声を浴びせて漸く気持ちが晴れて、自分から初恋、初彼にけりをつけることが出来たのに。此処で隣に居てくれたリオンが居ない真実が私に影を落とした。
「リオン」
¨痛い・・・痛いよ・・・苦しいよ¨
家が嫌だったからすぐに高校卒業した海はこのマンションに転がり込んで暮らした。
最初はすごく幸せだった、二人でお風呂に入ったり、一緒に寝たり、毎日お弁当も作ったりした。温もりに包まれるだけであったかくて。
だが、大人の事情とか、よくわからない海には難しいことばかりで、大人は難しくて、付き合うとなればいつかは真実を知る。こんな子供を、大人が、相手するわけなんかない。
元彼が既婚者だと気づいた時にはもう手遅れだったのだ。引き離され、奥さんに殴られて・・・海はずたずたに傷ついた。逆だったのかもしれない。
海を元彼は単なる遊び相手と見てたのかもしれない。今冷静に見たらあの頃の浅はかだった子供だった自分の素直さに呆れるしかない。
浮気しているんじゃないか。
それが頭を支配して、疑心暗鬼になって、次第に彼の温もりさえも拒むようになっていた。
彼も無理強いはしなかったけれど、結局彼の言いなりで動く玩具に成り果てていたのだと。
玩ばれてもいい、いつか海が大切だと分かってくれるなんて甘い考えを抱いていた。
そうして冷たい雪の日に捨てられたのだ。
やがて、リオンに出会って痛みも癒えた頃、彼が大きなお腹を抱えた女の人と別のマンションから出てくるのを見たの。そうして自分の間抜けさを知った。
リオンと出会って間もなかったあの日に。だけど、辛くはなかった。リオンが傍で支えてくれた。
リオンが居てくれるだけで孤独で張り裂けそうな胸を癒してくれた。
リオンがいなかったらきっと自分はあのまま海に沈むつもりだった。リオンと同じ深い深い深淵より暗い海の底へ。
リオンはまるで静かに燃える炎のようで、海よりも年下なのに経験や知識はうんと大人で、励ましや慰めや同情も決して海には見せなかった。
そんなに生きるのが上手じゃなくて、不器用な人だったのかもしれない、彼は欲もなくて決して自分の世界や過去、多くを語らなかった。
海が知るのは彼は重大な犯罪をおかしたこと、でも、そんなの信じない。自分が見たことしか、リオンの真意を海はまだ知らない。
抱えていた闇を何も語らなくてもリオンは理解してくれた気がした。小さな孤独と嘘がふたりを結んでいたような気がしていたの。そうしてようやく元彼に告げることができたサヨナラ、きっとリオンのお陰だったんだ。
安堵して涙を流してエレベーターに乗り込んだ海を行かせたのはリオンだった。
慌ててエレベーターから降りようとした海を遮ったリオンの笑みがずっと胸を占めていた。
悲しむ気持ちはいつからか、リオンと呼び捨てで呼び合うようになったあの日からすっかり消えてしまったのだ。
リオンと暮らす毎日は閉ざした心とただ繰り返すだけの空虚な日々に光を与えてくれた。
リオンはきっと自分を闇だと、大罪人って卑下しているけれど、確かに強い眼差しがリオンにはあって。リオンの揺るぎない瞳や時おり見せる笑みから、リオンが本当に私利私欲で悪事を働く人にはどう頑張っても見えなかった。
だから、いつの間にかその気高い強さに勇気をもらったんだ。
小柄だけれど鍛え抜かれた逞しい力、冗談半分でリオンと腕相撲して、瞬殺されて、よくよく考えたら些細なきっかけが積み重なり、リオンを確かに異性として意識するようになったんだ。
海がそうであるように、リオンも同じ気持ちでいてくれたら。でも、夜な夜な魘されるリオンの心を占めるのはきっとマリアンと言う人の存在だってわかってる。
マリアン、どんな人なんだろう。あんなに綺麗でカッコイイリオンが深く思うんだ。きっと、すごく大人で、すごく、美人なんだろうと思うと、たまらなく切なくて。この気持ちに名前をつけたらきっと答えは出るんだろう。
とにかく階についたら早くリオンを追いかけなくちゃ。
信号機もまともに気にしないリオンをひとりにするなんて心配だ。
リオン、居なくならないで。
リオンと離れるなんて、まだ考えたくないー・・・
また一緒に出掛けたり、買い物したりしたい。
喧嘩しながら食べるご飯がすごくおいしくて、楽しくて。
リオンがいつも迎えてくれるから仕事だって頑張れた。
そう思ったら、無意識に涙が溢れて視界がだんだんぼやけて見えなくなった。
「早く、早く・・・着いた!」
急いでエレベーターから飛び出して走り出す。早く一階にいかなきゃ、エレベーターなんか待ってられない。
非常階段から行こう、ミュールを鳴らして階段に向かったそのときだった。
「きゃっ!」
「うっ!」
反対に階段をかけ上がってきた人がいたみたいで誰かにぶつかってしまった。
弾みで大きく弾き飛ばされて地面とぶつかりそうになった瞬間、その人が私の身体を支えてくれたお陰でなんとか踏ん張れた。
「え?」
もしかして、リオンが追いかけてきてくれたのかもしれない。期待に顔をあげた海の視界に飛び込んできたのは。
期待はしない、だって、外れたときを考えたらそれだけ期待する胸は打ち砕かれて、立ち上がれなくなるから。
なのに、人はどうして期待せずにはいられないのだろうか。
「何で・・・っいるの!?なんで!どうして!?もう二度と顔、見せるなって言ったのに・・・!」
「海・・・」
海は悟った。信じられない、迂闊だった。リオン、きっと私に遠慮したんだ、私がいつまでも未練がましくこの人の影を追いかけていたから、出ていってしまったんだ!
何で今さら気づくんだろう。
バカだ・・・こんなやつのために身を引いたリオンは不器用だから、その優しさにさえ気付かないなんて。
海の目の前に居たのはリオンじゃなかった。
そこにいるべき筈ではない決別したはずの、元彼だった。
「なんで・・・っ、なんで追いかけてくるのよ!」
「お前とやり直すためだ!冷静に話そう、な?」
「ふざけないで!ふざけんじゃねぇよっ!帰れ!今すぐ消えろ!」
「海!!」
「離してーっ!」
ありったけの声で叫んだ。身体が彼を拒む、そしてリオンじゃなかった。その期待は裏切られ現れたのは別れを告げたはずの元彼だった。
人は期待しただけ裏切られたときの失望はあまりにも深く、計り知れない。
余計に高まる憤りを彼に罵声としてぶつける海の手を掴まえようと顔を近づけてきた彼に募る嫌悪感は涙を誘った。
こんなやつなんかのために泣いてたまるもんか。リオンに助けを求めたってリオンはなにも答えない。
だけど、リオンが居ない今が本当の現実味を感じる。
本当に、リオンと言う存在はもしかしたら最初から幻だったのかさえ感じるの。
「いやあっ!嫌!リオン!リオン!・・・エミリオ、」
呼び慣れない、彼が去り際に明かした、その名前を無意識に叫んで。リオン、今も覚えているよ。リオンのこと、居なかったことになんかしない、出来るわけなんてないんだよ。
離れて、リオンが居なくなって気づいたのだと、。
「やめて!」
「そんなにあいつがいいのかよ・・・いつも俺の後ろに隠れていたくせに」
「もう、それは過去の話だから。」
「俺を忘れてしまえるって?」
首筋に食らい付くようにキス、してきた彼を振り払い一発お見舞いしようと思った彼の左頬を見てぎょっとした。
一体誰に殴られたのか、すごい腫れ上がって、なおかつ口角が切れて出血していたのだ。
まさか・・・リオンが・・・首筋についた血を拭いながら考えていきつく答えはひとつ。
嫌な予感が頭を駆け巡る。
「リオン、に、なに、したの?」
「知るかよ、あのクソガキ・・・いきなり殴ってきたんだよ、あいつ」
「リオン・・・リオン、馬鹿だよ、あの子、ほんとにばか、リオン、だあ・・・っ、」
悲しくて言葉にならなかった。居なくなって気づくなんて、ホントのばか野郎は・・・。
目の前にいるあんなにも焦がれていた元彼よりも、リオンをこんなにも強く必要としていたなんて
海は気づけばマンション中に響き渡る声でわんわん声を張り上げ泣き叫んだ。泣き叫ぶしかない自分が情けない。泣くのを一番めんどくさがって呆れるってわかってるのに、リオンに嫌われちゃうね、と分かっていながらも涙を止められなかった。
いつも泣いてばかりだから泣けば解決するなんて思ってない、同情されたくて泣いているわけじゃない。
「そんなに・・・あいつが大事かよ。俺のことが好きで好きで仕方なかったのに・・・許せねぇ・・・」
しかし、海の涙や拒絶、それはプライドの高い元彼を刺激してしまったようだ。男は海の華奢な手首を掴むとバン!と乱暴に海の持っていた鍵で扉を開けるとそのままマンションの冷たい玄関の床へ突き飛ばしたのだ。
「っ!やめて!何するの!?」
「ふざけんなよ!あんなガキに奪われてたまるかよ!」
倒れ込み胸を打った痛みに叫ぶ海に構わず無理矢理背後から抱き締め、あんなにも求めていた温もりが今は嫌悪感でいっぱいになる。しかし、海は必死に抵抗しながらもあくまで気の短いこの男を逆上させぬよう冷静に拒絶するも元彼は頭に血が上り聞く耳を持たない。
「こんなことしても無駄だよ。もう、私は貴方を好きな私じゃないんだよ。だから・・・!」
「うるせぇんだよ!」
殴られた頬を抑え抵抗する海の腹に思い切り蹴りを入れたのだ。力なくそのまま倒れ込む海に無理矢理覆いかぶさると軽い小柄な海は荷物のように抱え込まれ、リビングのソファに押し倒され無理矢理貪るように口付けられた。
「んんッー!や、やめて!」
忘れられた温もりを嫌でも思い出させる衝動的な行為に海は必死に抵抗したがこれ以上抵抗すれば・・・身体は植え付けられた恐怖や痛みを覚えている。逆らえばもっと酷い目に逢わされる。自分さえ我慢すればこと男は満足するのだ。海が諦めたように大人しくなったのをいいことに元彼はいつもしていたように海の身体を無理矢理押し倒して行為に及び始めた。
「なぁ、あのガキにもしてやったのかよ?」
「リオンは・・・そんな人じゃないっ・・・私が一方的に好きなだけ、リオンは関係ないのっ・・・」
「ならいい、俺がいなきゃ生きていけないくせに他の男の名前を口にするなよ、」
無理矢理着ていたブラウスのボタンを外されながらも海はそれでも自分の素肌を見せたくないと無意識に抵抗を続ける。触られたくないのなら、代わりにこの男が悦ぶことをしてやればいいのだ。海はそれを理解しながらもなんとかこの場を切り抜け早くリオンを追いかけたい、それだけが脳裏を支配していた。
しかし、震えが、涙が止まらない。いつもしていたように上手くできず海は恐ろしくてたまらなかった。やっと元彼の暴力や支配から逃れられたのに、またしても屈してしまうのか・・・海は堪えきれずに、泣き出してしまった。
その瞬間、海のスマホがけたたましく鳴り響く。どうやら誰かから電話が来ている。救いを求めて手を伸ばそうとしたがディスプレイに映るリオンの名前に目を見開くとそれを逃さず目にした元彼はますます怒りを逆なでされ海のスマホを壁に投げ飛ばしたのだ。壁にぶつかった拍子に床に落ちたスマホの画面が真っ暗になる。海は絶望するしかなかった。
「海・・・」
「ちょっと、どうしたの!?」
「先に行く、お前は車を停めてから来い」
リオンは海に再度電話をかけ直したが今度は機械的なアナウンスが鳴るのを耳にし、マンションにつくなり友里にそう告げて走り出すとエレベータなど待っていられない、階段を駆け上がり海の部屋まで走り出した。
とてもじゃないがらしくもなく心落ち着けることが出来ない。友里から海の過去の話を聞いてからは気が気でなくて。海の元彼が現れてから苛立ちが止まらない。あのまま2人になんてさせなければよかった、海にもしもの事があれば・・・さっき海が元彼と話していた時に感じた胸のもやもやが渦をまいて、たまらなく不安になる。このどす黒い感情は一体何なのか。誰も教えてくれなかった、それを抱いて走るにはあまりにも自分には耐え難い感情だ。
「海!」
ドアをぶち破る勢いで開けると乱雑に脱ぎ捨てられた靴。そしてリビングへ急いで向かうとそこで見た光景にリオンは頭に一気に血が登りそうになった。まるで鈍器で頭を殴られたように。涙を流す海に覆いかぶさる元彼の襟首を掴みあげると冷静でなんていられない、
「貴様・・・っ!この下衆が!僕は海とお前をそうさせる為に引き戻したんじゃないぞ!!」
そのままもう一度拳を振り上げ元彼を殴り飛ばした。
「リオン!だっ、だめ!リオンは、鍛えられてる市民なんだから!それに、もしあいつに訴えられたらどうするの?この世界は、人を殺したら捕まるし、軽く怪我させるだけで簡単に捕まっちゃうんだよ?それに、リオンが殴らなくたってこんなやつ!殴る価値もないのに!」
これでは本当に暴力事件で近所から通報されてしまう!警察沙汰になればリオンは終わりだ。海は慌ててもう1発上段蹴りを食らわそうとしたリオンを押さえつけるも海の力では到底無理なことだ。
しかし、止めようとした海のあられもない姿を見てリオンはようやくいつもの冷静なリオンに戻った。らしくもない、本当に。激情に任せて暴力を振るうなんて・・・元彼はあまりの迫力と力に気を失っているようだ。リオンも殴りつけた分、拳に血が滲んでいるのに気付いた。
「海・・・無事か・・・」
「っ、リオン・・・怖かった、わた、し・・・怖かったよぉ・・・」
「すまなかった・・・友里から全て事情は聞いた。事情を良くも知らずにふたりきりにさせて悪かった・・・」
「いいの、私も話さなかったから・・・でも、っ、急に、ふたりきりにされて、嫌だったよ・・・リオンに居なくなられたら・・・私・・・っ、こんなことして、リオンに引かれたんじゃないかって、嫌われたんじゃないかって!怖かったよぉっ」
元彼に無理矢理抱かれそうになって必死に抵抗したのか、海が着ていたスーツのシャツは釦が外れ、胸元がはだけて幼い顔立ちに不釣り合いな黒いレースの下着が見えていた。それを隠すように自分のジャケットを着せてやると海は怖かったのか力なく崩れ落ちた。
「馬鹿め、嫌いになるわけ無いだろう・・・」
海から目を離せなくなる、海が愛しくてくしゃくしゃに泣き叫ぶ小さな身体を気付けばリオンは拒まれることを恐れているのに泣いているのに自分の胸に顔を埋めさせ、優しく抱き締めてやる。
海はいつも温かく、雨で濡れた身体を引き寄せ温もりを分かち合う。
「リオン・・・お願い、もう勝手にどこかに居なくならないで…傍に、居る、って…貴方の面倒を見るって…約束、したのに…せっかく、仲良くなれたのに・・・っ、リオンのほんとの名前だって!」
「海・・・」
「私に気、なんか遣わないでよっ・・・」
嗚呼、もう駄目だ。
離れようと決めた覚悟をこんな形で後悔するなんて。離れて思い知らされた、離れようとしてみたが、結局彼女から離れられないのを思い知った。
あの頃の、シャルティエを手に戦い続けていた孤独な闇が消えて行く。
よそよそしいこの世界では、誰もが孤独を抱えている。だから人は人を求める。
リオンも海も互いに孤独を引き寄せて巡りあったのだろう。
「ぼっちゃんが母上様について考えるのは、とても自然なことだと爺は思いますよ。しかし、忘れてはなりません。クリス様は既に亡くなられ、当然のことですが他の誰が代わりになれるというものではない。
たとえ――…たとえ、仮にですよ。母上様に生き写しの女が現れたとしても、それは他人のそら似に過ぎないのです。」
その通りだ、マリアンは大切だが、あくまで母親の生き写し。だからこそ、リオンは今こうして巡り会えた海の名前を呼ぶ。
「海」
思わず、呟いてもっと海を近くに引き寄せていた。雨に濡れてしまわないように、柔らかい、見た目よりも。冷たい雨にずぶ濡れて、恋しく寒い心を海の温もりが満たしてくれる。
今ならわかる、口にはしたくないし認めたくはない。
友里と出掛ける時は穏やかに見送ったのに、海翔と遊びに行く海をなじったのも、海翔を選んだのが許せないのは海を失いたくないと気付いたから。
元彼が海に会いに来たときに腸が煮え繰り返りそうになったのも、海を奪われてしまう恐怖を感じたからだ。
「っ!は、はっくしゅん…で!あ、あの…ごめんね、泣いちゃったりしてリオン、は、離れていいよ」
「いい」
「え、えっ!」
「もう少し、黙ってろ。」
今さら恥ずかしくなったのか腕を突っぱね、リオンから離れようとした腕を制し、口調を強めれば海はリオンの腕の中でおとなしくなった。
また不思議そうにリオンを見つめる海の丸い子供のような純粋な眼差し。半開きの柔らかい唇が濡れたように輝いて、艶やかしく映えた。そう言えば、海の顔をこんなに間近に見たのは始めてだ。泣く女はうっとおしくて面倒くさかったのに。海の涙はやるせなくなる。
理由はわからない、だが、海を泣かせてまで、海を独りにするのは、酷だ。
「居なくならない。だから泣くな、海、」
「リオン・・・あ、りがとう・・・何か嬉しいなぁ、今は、リオンがいる。リオンに出会えて、私、すごく楽しいの」
何よりもあの胸の渦を巻く闇を晴らしてくれたような、そんな気がしてならなくて。
どちらからともなく2人は手を繋いでいた。
濡れたジャケットでは海を濡らしてしまった。風邪を引かなければいいが・・。
海の手を引きながら無意識に高ぶる感情に瞳が熱く視界が滲んで行く。
一度引き寄せられて気付かされた感情。
いつの間にか冷たく感じていた雨は柔らかな海の温もりにより、むしろ高なる思いが風化しないように熱を増して行くようだった。
海は持っていた家の鍵をあの日と同じ、けど今度は違う。羽交い締めにされていた腕から逃れ、今度は
海からマンションの鍵を投げつけてやった。
「私、日曜日に引っ越すから。」
「どこにいくつもりだ!?」
「知らない、教えるわけないじゃない!こんなマンションにいつまでも居たくない!家賃ももう払わなくていいよ!
さっさとこの荷物まとめて私の前から居なくなって!
あ、鍵はポストの中に入れておいて。」
ありったけの声でそれだけ叫び、海は目を覚ました元彼を外へ押しやった。短く捲し立てるとリオンも静かに頷いて。
あんなに好きだったあの人はもう居ない。人はいつか変わる。時間と言う存在が海を変えた。今なら冷静に思えた。
「リオンを巻き込みたくなかったんだよ・・・悔しい、悔しかったよ・・・なんであんなやつと付き合ってたんだろう!!」
「泣くな、」
泣く女は面倒だと思っていたのに。今はただ胸が痛い、海の涙が止まるまでどうにかしたい、そして思うのは海にはいつも無邪気に笑っていてほしい。
「悔しいなら、見返してやるくらいの、恋をすればいいだけだろう。」
愛だとか恋だとか、ほざくやつの気が知れない、むしろそういった感情を抱くのは馬鹿な人種の文化だと忌み嫌っていたのは自分だったのに。
リオンは海が持つ未知数の感情に次第に規律や礼儀を重んじていたかっちかちの脳味噌が解れていくような気配を感じていたのだ。
「リオン、ありが、とう・・・」
「だから、泣くな。泣き止むまで、幾らでも・・・居る、から。」
今は精一杯の言葉、リオンなりの情けでもその不器用な言葉が今の海には何よりの優しさで。
海はますます外の激しく降り続ける雨のように泣き続けた、泣いて、泣いて、泣き止んでもリオンは海の背中を擦ってくれた優しさが痛かった。
何であいつを好きになったんだろうと。
あいつはもう、なんとも思わない。
リオンは忘れられることを恐れている。元カレを忘れて進む海をリオンはもう軽蔑したりはしなかった。
辛い過去を、悲しい恋を忘れようと新しい恋を探していた。新しい恋をしたら忘れられる。
だけど、新しい恋なんて、出会いなんて探しても見つからないもので、逆に悪い未来を引き起こしてまた楽しかったあの頃にすがってしまうんだと。
そして見つけて気づくものがあるのだ。
恋に落ち、そして辛かった気持ちは過去になり、癒える、そうして忘れられるのだと。
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