海は予期せぬうちに現れた男の存在にただ開いた口が塞がらない。
無意識にすがり付いたリオンの手に繋がった買い物袋の震えが止まらずにいる。ぎゅっと空いた手で胸に当てた手を握り締めて半ば投げやりになりながら海は叫んだ。
「久しぶりだな、海。」
「なんで、どうしているの!?」
「何度もメールしただろ?今からお前んちに行くって、既読スルーかよ?電話も出ないし。家に行くしかないだろ。」
「しっ、知らない!そっちから先に、ブロックしてきたくせに!あなたが私を捨てて出ていったくせに今更連絡よこされても困るんだけど、要件は何ですか?」
普段温厚な海が見せた拒絶、今にも泣きそうなくらいに歪む彼女の表情にリオンも無意識に見据えた男に嫌悪を抱いた。その先には自分より背が高く、そして知的な雰囲気を纏う、年上の大人の雰囲気を放つ成人男性。海の心を占める元カレの登場にいつまでも続くのかと思っていた生活は突如として終わりを迎える。何故かたまらず不安になり、リオンは胃の奥がやけに痛んだ気がして腹部を押さえただ相手を海と同じく威嚇するように睨み続けるだけ。
「敬語だなんて、いつからそんな冷たい女になったんだよ?何って決まってるだろ、あの時はどうかしてたんだよ。やっぱり、気づいたんだ。俺はお前が大切だって、お前と離れて気付いたんだ・・・お前みたいな女はいないって」
そうして歩み寄ってくる元彼に対し泣いて駆け寄るかと思っていたリオンの想像とは違い、海は陳腐な台詞に呆れた様な半笑いを浮かべた。
「もう何もかも手遅れよ。何よ・・・今さら、本当に今更ねっ!ドラマみたいな台詞で私が泣いて戻ってくると思ったの?いい加減にして!バカにしないで、あなたを好きだった私はもういないの!リオン、いこう!!」
もう、叶うなら二度と顔を見たくなかった。やっとここまで立ち直れたのに。海はなるべく目を合わさないようにしてリオンの手を引いてその場を立ち去ろうとした。今さら、やっと忘れられた彼を忘れさせてくれた紛れもない存在のリオンを引き連れて。しかし、リオンはその場を動けずにいた。小さな手で自分を引く海の力から彼女がどれだけ動揺しているかわかった。
いつもの、のんびり屋でおっとりしている平和主義者の海からは俄に信じがたい表情と焦燥感にリオンは何も口にせず状況を探る。背中を向けた海にリオンが声をかけようとしたとき、怪訝そうに男は問い詰める。
「リオン?おい、誰だこいつ、」
「見ればわかるでしょう?」
「男だと!?」
「まさか、僕は・・・」
何も言うつもりなどない、しかし、勝手に新しい恋人にされるのは嘘でも演技でもご勘弁だと、とっさに口をついたリオンを制したのは意外なことに彼女だった。ふわりと柔らかな髪を揺らしてやや濡れた髪が、顔を出した月の光を浴びて輝いていた。
「リオンは何もしゃべらなくていいよ、これは私の問題だから・・・。
私とあなたの問題は終わったの。もう会うつもりなんかない、不思議だね、あなたに捨てられて、あんなに世界の終わりが来たみたいに落ち込んでいたのに、今は辛くないの。」
とっさに助けを求めて泣きついてくるとリオンは頭の片隅でそう思っていた。しかし、海は違った。リオンが思っていた期待をいつも海は裏切っていたように今回もリオンの腕にしがみつくと凛と結んだ淡い唇、色素の明るい真っ直ぐな瞳が彼を見据えていた。
しかし、虚勢を貫く海の手の震えはまだ止まらない。
「海、そいつを選ぶのかよ?俺のことが好きで好きでたまんなくて、なんでも俺の言いなりだったお前が」
「もう、それは過去の事だから。」
「おい、リオン?だっけ、いいのかよ。こいつと俺は結婚するつもりで付き合っていたんだ。学校で出席日数が足りなくて問題ばかり起こすそいつを変えたのは俺なんだ。海は俺なしじゃ独りなんだよ、俺に捨てられて泣いているところを優しく慰めてくれたのは有難いけど、」
「言いたいことは其れだけか、」
本当に身勝手な男だ。海はこんな奴のために今まで泣き笑い必死に孤独や痛みに耐えてきたというのか、黙っていたリオンは静かに口を開いた、黙っていればそいつ、こいつ、お前、名前さえ呼ばずに海を形容するこの男。
引き留めようとした海を遮り、リオンはあきれたように冷やかな笑みを今さら、海の優しさを利用してすがり付く男を見上げていた。
馬鹿馬鹿しくて、気が短いリオンは今すぐにこの世界でなければ今すぐにでもシャルティエでたたっ切ってやりたかった。
この半年、海をずっと見てきたリオンはまっすぐに好戦的な目をする相手を見据えていた。どうやら何か勘違いをされているらしい。リオンは迷惑だと言わんばかりに眉間にシワを寄せた。面倒事は勘弁だ、ましてや男と女のいざこざなど、他人にまったく無関心なリオンには本当に迷惑な話である。しかし、海の困惑ぶりが手に取るようにわかり、リオンはらしくもなく助け舟を出した。
「今更・・・彼女に詫びたところでもう手遅れだ。お引き取り願おうか。」
「あぁ?ならなんでお前みてぇなガキに指図されなきゃなんねぇんだよ。当たり前にこいつと居やがって。お前中坊だよな?それがどういう経緯で海と居る?海の身体目当てか?こいつに毎晩気持ち良くしてもらったのか?なぁ、俺にもしたように、」
「っ!!」
男が勝ち誇ったようにリオンに吐き捨てたその言葉があまりにも屈辱的すぎて・・・過去に受けた傷を抉り出され、海は悲しみに身体を震わせ取り消せと言わんばかりに元カレにつかみかかったのだ。
「やめてっ・・・それ以上は言わないで、言わないで!リオンは関係ないの!」
「お前には聞いてねぇんだよ!!」
リオンにだけは聞かれたくなかった、軽蔑されたくなくて、嫌われたくなくて隠し続けてきた過去を暴かれ、海はあまりにも酷く性を匂わす直接的な言葉を並べる元カレにヒステリックに涙を流し声を張り上げる。潔癖なリオンに絶対に軽蔑された、深い悲しみにただ涙が止まらない、教職者である海の元恋人。
しかし、そんな教職者である真面目にスーツに黒ぶち眼鏡の理知的な格好と裏腹に暴力的な言葉が容赦なく海を苦しめて。
海の身体は寒くもないのにさっきから震えが止まらない。まるで目の前の男との日々に植え付けられた恐怖を思い出すかのように。
海が落ち込み泣いている姿も、彼を忘れようと懸命に振る舞い、それでも我慢できずに影でいつも泣いているのを知っていた。そのせいで眠れないのも知っている。
しかし、それ以上に見せた確かな怯え。自分が肉親であるヒューゴに抱いた言い知れぬ恐怖が同じく海にもこの男から受けた仕打ちが身体に植え付けられているのだろう。自分はなんと言われようが構わない、しかし、それに対し怒りを露に必死に抗う海の姿にリオンが歩み出していた。
「話にならん。海はお前の欲望を満たす道具ではない。まして、僕は彼女にそんなことを求めたりはしない。お前みたいな低俗な人間と同じにされるのはごめんだ。」
「リオン!」
「てめぇ!澄ました顔して海に手を出したのは事実だろ!」
リオンの挑発的な言葉に上背のある海の元彼にリオンは胸ぐらを掴まれマンションの壁に頭から押し付けられた。
その間に2人の手を繋ぐように持っていた買い物袋が引き離され地面に落ちて、買ったばかりの卵が割れて中身が飛び出した。
相手の凄まじい剣幕。しかし、リオンはいつも通り冷静で、眉ひとつ動かさない。持ち上げられる勢いで胸ぐらを掴まれながらも息ひとつ乱さず静かな獣のような目付きで睨みつける。
「殴れるものなら殴ってみろ。正当防衛で僕も遠慮なく殴れるからな。その覚悟があるんだろう?海の過去を詮索する気も、貴様らの過去の事情など僕には知らん。ましてや、こいつを卑下するようだが、貴様が一番の下衆野郎だな。」
下衆、まさにその言葉だった。いつも悲しむ姿や怒りを決して他人に見せず素直で前向きな海にはいつも回りの人が絶えず集まってきて、気付けば自分もその輪のなかに引きずり込まれて巻き込まれて、彼女と過ごす日々が当たり前になっていた。
マリアンは大切だ。何にも代えがたい偉大な存在。しかし、そんな中でリオンは次第にマリアンの笑みが、声が、温もりが、あの長い髪が記憶から消えていくのを確かに感じていた。
そして、上書きされて行くこの世界の情勢や情報がその消去を促しているように、埋め尽くすのは海の存在だった。
海と生活を共にするうちにリオンは傷つきながらも海が抱えた傷や孤独や悲しみを乗り越えようとする姿勢に次第に植え付けられた価値観や絶望さえ切り捨てようとしていることに。
「やめてーっ!」
リオンが殴られる。そのまま元彼がリオンを右ストレートで殴り飛ばそうとした瞬間、鈍い音と共に地面に崩れたのは海だった。
海がリオンを庇うように、代わりに拳の犠牲になったのだ。間の抜けた声で海を殴り飛ばしたのに平然とする元彼に、自分を庇って殴られ地面に倒れ込んだ海の痛々しい姿にリオンの怒りが爆発した。この世界に剣が無くてよかったと心底思った。
「貴様っ!」
「駄目だよリオン!やめてっ、そんなやつ殴る価値もないよ!」
海は痛みに震えながらもふらふらと立ち上がり逆上したリオンに後ろからしがみつくように抱きつき必死に止めた。振り向けば海の小動物のように愛らしい顔はよく見れば地面に赤い血が垂れ、それは海の鼻や殴られた口角から流れ出たものだった。
痛みを堪えてリオンを守ろうとする海の姿にリオンは振り上げた拳を握り締め耐えた。
わかっている、自分がやり返せば相手がどんな目にあうか。自分の力では骨の1本や、2本ではすまないことになる。もしかしたら殺してしまうかもしれない。
リオンを取り巻いてずっと離れなかった深い深い闇の中に一筋の光が差し込んだ。小さな、星みたいに小さな光だけれど、それは確かにリオンの進む道を照らしている。
いつも側で笑みを与えてくれた太陽のようなマリアンの存在。しかし太陽はいずれ沈むようにマリアンはそれだけだった。だが海は暗闇に寄り添う小さな光のようだった。
「馬鹿、どうして・・・」
そんな右ストレート、鍛錬を積んできたリオンならシャルティエが居なくても簡単に避けられるのは明確なのに・・・。
しかし、海はこんな状況で鼻血を垂らしながらもにこやかに笑みを浮かべている。
「関係ないのに巻き込んでしまってリオンの綺麗な顔が傷つくのは嫌だったのっ」
「お前・・・」
海に駆け寄り肩を支えたリオンの瞳が微かに揺らいだ。
「海、ごめんな。痛かったよな・・・まさか飛び出してくるなんて・・・ごめん。ふたりでちゃんと話し合おう、俺がどうかしてたんだよ」
海の頭を撫でながらティッシュを差し出し海の鼻に当ててやりながら男は海の肩を抱いて視線をあわせるが、海は何も答えずただ思い詰めるように睨み付けていた。
それを見つめながらリオンはただ込み上げる何とも形容しがたいどす黒いこの感情を制御するので精一杯だ。
リオンは冷水を頭から浴びせられたかのようにヒヤリとした。得体の知れない感情がリオンの嫌悪を露にする。そうして思い知る。やっぱり自分は未熟な子供で、海をいつも傷つけることしかできないんだと。この男との違いを嫌でも比較されたことを知る。
しかし、海からの意外な一括があり口を出すことも手を出すこともできないままでその怒りを遮り海が身勝手な言葉を並べる彼の手を振り払ったのをみた。
「ふざけないで!今さら、今さらっ・・・!」
「海、またいつもみたいに一緒に暮らそう、な!」
甘い言葉が次々降りかかる。彼の言葉に海は心が揺らぐ。魔法だ、今も効力をもち、やはりはじめて好きになった存在の大きさは計り知れないものだ。どんなに辛い記憶が胸を締め付けても。
何度も何度も、しかし、いつまでも甘い夢など甘い言葉ならいらない。海はずっと、たった一人で抱えてきた爆弾をリオンを侮辱した怒りをぶつけると共についに投下した。
ついに立っていられなくなり膝を着きながら涙を流して苦しげにただ吐き捨てるような声で。
彼への未練をここで、ピリオドを。海はリオンにも驚かれるくらいに綺麗に元カレの顔面に強烈なラリアットを喰らわせたのだ!眼鏡と共に固いコンクリートに叩きつけられた彼に海は怒りをぶちまけた。
「ふざけないで!私に触らないでよ!いい年した大人のくせに!奥さんがいたんでしょう?私が知らないで、いつもにこにこしてると思ってたの?おめでたいね!」
「海・・・」
「二度と、顔、見せないで!アンタがリオンを悪く言う資格なんかないんだよ!このっ!ハゲ!あんたみたいな男に騙されてたまるか!あんたなんかただのクズよ!」
穏和な海からは信じがたく、そして容赦ない言葉たちを浴びせて海は興奮と怒りと感情を溢れさせ身体を震わせながら赤らんだ頬を携え背中を向けた。
「今度こそ、永遠にさようならだよ!二度と私の前にその顔を見せんじゃねぇ!わかったら消えろ!!」
怒りに満ちた女はなぜこうも恐ろしいのか。海の本気で爆発した怒りは止まらない。
普段穏やかな海だからこそ身も凍るような恐ろしさをリオンは感じていた。海を怒らせてはいけない。優しいからこそ、怒気迫るものを感じた。
罵声を浴びせられ、萎縮した男を見下し、今度こそリオンの手を握り返して痛々しくも微笑む海。可哀想に、営業は顔が命なのに、明日には腫れるに違いない。
マンションのエントランスに入ると海は無人だったが、先程のやり取り、近所に聞かれたかもしれない、今さら気恥ずかしくなり俯くとリオンに頭を下げた。
「リオン、ごめんね、巻き込んでしまって・・・見苦しいところ、貴方に見せちゃったね、」
「いや、いい。それよりも・・・」
逃げるように駆け込み上から降りてくるエレベーターを待ちながら、リオンは疑問符を抱いていた。
輝く風が二人を包む、二人の未来を約束したように暗く長い夜が、明けて行く気がした。
「お腹すいたでしょ、家にかえったらなんかちょっと作るね。」
「海」
「あぁ、でも、スッキリしたなぁ〜正直、リオンには見せたくなかったんだけど」
「海、誤魔化すな。」
「なぁに?」
「お前、僕に、遠慮しているだろう」
気丈に振る舞う海だったが、リオンはその瞳がまだ迷っているのを見逃さなくて、そして振り切るように背中を向けた海に拭いきれない感情があった。
「いつかは僕は居なくなる存在。いや―、最初から僕はこの世界には存在しない、異端な存在だ。そんな自分がいつまでも海の厄介払いになっていいはずがない。居候の僕がいるから、あの男を突き放したのか?」
「まさか!それ、本気で言っているの?」
「どうだろうな。生きている間にわかりあえると言ったのは海だ。海が僕に言ったんだ。」
「違うよ、私は・・・結局、あの人の愛人だったのよ。愛なんて最初からなかったの。いいように利用されてすてられただけ。」
やがてエレベーターが到着し、そのまま乗り込み会話をはぐらかそうとした海にリオンは何かを秘めたように、彼女を無理やりエレベーターに押し込み海が振り替えるまもなくボタンを連打したのだ。
いつからか気付いていた、海の柔らかな髪がマリアンと異なる愛しさを感じ始めるようになったのは。
しかし、その感情を知るにはリオンはあまりにも無知すぎて、そして純粋だった。
人を愛する、そして愛される喜びを本当の意味で理解していないリオンが抱いた感情が、やがてはじめて抱いた恋になる。きっと、海とはじめて出会い、そして温もりを知ったあの日から。
「えっ!リオン!?」
「世話になったから、最後に・・・ひとつ教えてやる、世界で誰も知らなかった、戸籍から抹殺された僕の本当の名前を海にやる。¨エミリオ¨だ」
「エミリオ?」
「エミリオ・カトレットそれが僕の本当の名だ。」
なぜこの状況で・・・自分にもわからない。
かつて、黒髪をたなびかせた美しいあの人だけに預けた本当の名前だったのに、なぜ海に教えたのか。これが最後だとわかったのか。
そして、確立したリオン・マグナスと言う自らの誰にも汚されぬ願いと共にその名は消えたはずだった。
「エミリオ・カトレット、
世話になったな。海、」
「えっ!リオン!待って!!」
海のためを思うならば、あの男をいまだにきっと思い続けているくせに、自分のために背中を向けた海にせめてもの餞を捧げよう。海は無知だった。彼女は相手が結婚していることを知らずに恋をしていた。世間からは非難されるべきことなのに、しかし、海はあまりにも純粋に彼を愛していた。リオンは海を軽蔑することなんて決してなかった。打算やなんの欲もなく見返りもなくただ、人を愛する海の心の清らかさは一緒に過ごして理解していたから。
自分はいつかいなくなり、海を孤独にすることしかできない、ならば、彼女の幸せを願い、さっさと消えるべきだ。と、リオンは最後に、自らの誰にも明かさなかった名を呟き、そして、海と離れることを、選んだのだった。
そうして気づき始めた。脳髄からしびれて、まともに海と目を会わせなくなって。触れた場所から熱くなるこの胸を焦がす感情を、
また降りだした雨の中、未だに愕然とする彼の姿など海は知りたくもないだろう。
男は結局図星であり、妻も海も、どちらの温もりにも溺れていた末路を、海の優しさは見抜かないと甘えていた自分がどれだけ愚かなのか今さら悔やみ続けていた。
一度失った信頼はきっともう二度と取り返しなどつかないだろう。
あの優しかった海をあんなになるまで怒らせたのだ。
温厚な海が見せた怒りに震える身体、そして数えきれない罵倒、もう引き留める言葉も浮かばなかった。あれから元彼はひとり、いまだに立ち上がれずにいた。
いつまでも甘えたで泣いてばかりいた海は居ない。自分を見据えたのはもう海は一人で歩ける強い存在に大人の女性に変わっていた。
自分が居ない間に、隣には見知らぬ年下の幼いが、海を気遣う優しい美少年の姿。
諦めて帰るしかない、自分は結局あの子供に海を奪われたと、痛感していた男の前に再び雨が降りだし、やがてリオンが歩み寄ってくる。一体なんだと思えばリオンは海に口を出すなといわれたが、それでも伝えたい言葉があった。
「今一度、貴様に問うが、本気であいつとやり直すつもりで来たのか。」
「当たり前だ、」
「だったら、誠意を見せろ。」
「ガキがっ!目上に向かってなんだその口はよぉ!」
半ば八つ当たりだった。勢いよく振りかぶり怒りに身を任せリオンの胸ぐらを掴み殴りかかろうとしたが鍛練を繰り返し国に認められる天才の前ではどんな武術も喧嘩も通用しない。
「何だ、テメェ、今のは」
「フン、雑魚が。地を這っているんだな。」
「ふざけるな!一応これでも空手の国体に出たんだぞ!」
「弱い犬ほどよく吠える、」
本気で人を殺したこともない奴が。
この世界の平和に暮らしている連中たちがリオンの相手など出来るか、言葉の代わりにリオンが海の分も込めて勢いよく殴り付けたのだった。
海には悪いが自分は気は長い方ではない、何より海の屈辱をはらしてやりたかったから。
殴られたその拍子にシャツの袖口を止めていたボタンが弾けとび濡れた地面に転がった。
「今のはこれまで悲しませてきた海の分だ。」
リオンが抱いたのは、彼なりの不器用な恩返しだった。リオンは俄に気付いていた。しかし、もう今さらどうにもならない。
「そしてこれは海を殴った分だ。」
いつか、自分は居なくなる身、そんな不安定な存在だ。
「八つ当たりもいいが僕を巻き込むな。すべて貴様が招いた事だろう。あいつを、泣かせるやつは誰だろうが僕が許さん。後悔しているのなら、今度こそ、家庭をきっぱり絶ってやり直す気があるなら、追いかけろ、今すぐに。」
「なっ!」
「失った信頼を取り返すのは無理だろうがな、」
自ら意外な言葉を口にしたのはリオンだった。リオンは冷たい瞳の奥に宿る炎を燃やすようにきっぱりそう吐き捨てると膝をついた元彼を後ろから蹴りあげたのだ。
行け、目と顎で一回り上の大人を軽々とぶっ飛ばす力の強さに男は戸惑う、しかし、行かなければ海は。
「何でお前なんだ!俺が一番にあいつをわかってやれるんだ!海のことをよく知りもしないテメェみてぇなクソガキに奪われなきゃいけないんだ!」
元彼は脇目も振らずに立ち上がり元々自分がいたマンションの中に走り去っていくのをリオンは言い返す気も失せ、ただ睨み付けていた。
なぜ身を引いたのだろうか、自分でもわからない。
しかし、気持ちはあった。
海のあんなに辛い表情をこれ以上見ているのが辛かった。
海には、幸せになってほしい。自分にできることはそれくらいだ。
「世話になったな。海。」
しかし、リオンはどうしたことか追いかけるどころか海に、マンションに背を向けてしまった。
止んだはずの7月の雨がまた月を隠し、騒動の余韻すら掻き消すようにリオンの頭上にまた激しく降りつける。
雨が降れば嫌でも思い出す。
あの日も雨だった。
ヒューゴの、いや、ヒューゴの、姿を借りた恐ろしいなにかと対峙した時、あの言葉が不意によみがえる。
分かることは自分は咎人だ。どんな代償を払っても拭いきれない罪。国を仲間を裏切り孤独に死んだ男にこれ以上はない至福を与えてくれた優しい海の幸せを願う。誰よりも。
「僕はもうお前の傀儡じゃない!お前の操り人形はおしまいだ!!!
僕は今から僕自身として生きる!!与えられた運命を甘んじて受けるだけではなく、運命に立ち向かい道を切り開く男になる!
僕の居場所は僕自身の場所はこの手でこのセインガルドに作る!この国に仇なす者は誰だろうとこの手で止めてみせる!!」
「フィンレイ将軍の事を言っているのか?」
「そうだ」
「あの男はつくづく私の計画に水を差してくれる・・・不出来な『駒』の指南役くらいの価値はあると踏んでいたがとんだ誤算だ。社の拡大や王の懐柔に邪魔なだけでなくこんなつまらん正義感まで指南するとは・・・そう言えば、マリアンはどうしているのかな?今頃、」
「何・・・!」
「あの騒ぎの中ではぐれたんじゃないのか、マリアンと。
無事だといいのだがな・・・フフッ」
「まさか・・・貴様ッ!」
「七将軍どもから何を吹き込まれたか知らんが・・・まさかお前は英雄にでもなるつもりだったのか?
私を失望させるな、傀儡(エミリオ)。
お前が私の元を離れて別の場所に行くのならそれでも構わん。
お前ならそれが出来るだろう。
だがなリオン、世の中は危険でいっぱいだ。
お前が守ってやらないと・・・あの様な女、いつ突風に吹き飛ばされるかわからんぞ??」
未だに抜けきらないヒューゴへの得体の知れない恐怖、マリアンを失うかもしれない日々の中で過ごした記憶は今も自分のトラウマとして苦しめていたが、行く宛もないくせに優しくしてくれた海に不器用に海の幸せをただ願い、再び降りだした漆黒の闇に再び姿を消した。
「好きな人が出来たら、すごく変わるよ。」
「わからないよ、私はあなたじゃない、あなただって私には理解されたくないくらいに闇を抱えてて、寂しくて今まで大変だったんでしょう?」
大人びているくせに本当は誰よりも儚く、泣き虫で明るい不思議な空気を纏う海へ、マリアンとは異なる愛しさを抱いていたと気付きだしたこの感情が愛だと、噛み締めながら。
¨「リオン!いつもありがとう!私、リオンに会えてほんとによかった」¨
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