朝焼けはいつの間にか真上に登り陽を射し海風で冷えた体を温めた。此処は住み慣れたセインガルドとは全く違う、支給された服しか着なかったからウェアを纏わないこの衣服は涼しいを通り越し寒い。
僕は助けられた。あの女に、そこに自らの意志はなく・・・無反応に苛立ちあの女を巻き込むにプライドなど持ち合わせても居なく押し倒せば流されそうな女は涙を浮かべ僕を拒んだ。
当たり前の様で意外だった。
拒まれたことよりも、無意識に彼女を組み敷いた自分に驚愕すら覚えた。
この真赤に染まった両手でまた更なる罪を犯すのか?
写真と呼ばれる絵画に映る女は恋人と別れたのかわざと回りくどく問えば泪で瞳を潤ませていたから。僕が試しに女に力を見せつければ簡単に屈するかと思っていた。人恋しさで流されるかと思っていたが女が見せたのは泪だった。確かに泣いていた、あどけない笑みに感じたのは同じ孤独だった。
だが、確かに微かに女に触れた肌は何よりも心地よく人肌は何よりもの生を明かした。
何処へ行く道もなくただ流されるままに。左胸の躍動は変わらない。僕は確かに死んだはずなのに何故こんな右も左も解らない世界に置かれているのか。
海底洞窟で敗れマリアンに伸ばしたこの手は濁流に引き裂かれシャルも居ない、巨大な鉄の塊が当たり前の様に固い地面を有り得ない早さで流れていく。
死んで何が残ったか、待ち受けていたのは地獄でもない天国でもない信じられない文明に栄えた世界、孤独の女。
今のこの取り巻く現状が変わっただけだった。
見上げた蒼空は何一つセインガルドと同じ変わりないのに確かに自分を取り巻く世界は一変していた。
何かで固められた煉瓦より遙かに堅い道、足の保護という機能を忘れた意味の分からない靴、胸元が開いた悪趣味な上着に腰で引っかかった緩いズボン。
右腕に巻かれた包帯を握り締める、感覚はないが本来は左利きな為何の支障もない。幾らか寝たからか熱は下がったらしい。しかし、ガルドも無いのにこの先行く宛もないのに・・・
「あの女の言うとおりだったかもな。」
右も左もわからない世界に本当にひとりきりだ。武器もない、晶術も使えない。海が操縦していた四駆の謎の乗り物が猛スピードで行き交う道を抜けて歩みは止めない。
涙を押し隠し僕に叫んだ悲痛な声。壁に押しつけた拍子に流れた彼女の涙は確かに頬を伝っていた。
「エミリオ!」
分からない、マリアンの笑顔が思い出せない。
何故あの時の女の涙が。頭を過ぎるのか。儚くて温かくて哀しそうに僕を見つめていた。
何処へ行けばいい、彼女のマリアンの居ない世界で。
マリアンに会いたい。
生きているのかすら分からない彼女を今も探し続けている。自嘲し、虚ろな視界、普遍的な地に彷徨う様に生きる意味すらなくし宛もなく歩き続けた。
どれだけ歩いただろうか、周囲を見渡しながら得体の知れない世界を歩く、時間帯も分からなくなり子供の笑う声もやがて聞こえなくなった。
空を見上げれば不意に落ちてきた滴が頬を濡らし訳もなく溢れたそれを拭えばそれは確かに捨てた筈の涙だった。
両手で顔を覆えば世界にはもう誰も居なかった。痛み悲しみ苦しみ後悔痛恨の念無様で哀れで愚かしい世界で無意識に僕は泣いていた。やがて雨は枯れることを知らない泉の様に何度も激しく地面を打ち付け涙を洗い流す。
此の弱い心も降りしきるこの激しい雨に強く打たれていっそこの許されぬすべての罪を流して欲しかった。
この世界でもない、もう生きていても。あらゆる世界から消えてしまいたかった―
久しぶりに流した涙は無性に血の味がした、
雨と言う恵みは優しく大地に降り堅い地面を濡らしてゆく。
待ち受けていたのは地獄や天国ではない、死と言うのは辛い過去や悲しみも感じない、約束された安息の眠りなのだ。
ならば罪を犯した人間は、生き地獄を、生きている限り悲しみが隣り合わせなこの得体の知れない世界で生きなければならないと言うことか。
そこで我に返れと言わんばかりに甲高い女の悲鳴が耳を突く裂き反響した。気付けば周囲は暗闇に染まりつつある。何時になったのか、
何時の間に右も左さえも解らない世界に迷い込んだのか、
答えを求める背に降りしきる雨は未だ止まない。
「リオン君!!」
そこで思考は止まる。聞こえた澄んだ声と差し伸べられた手があった。
痛む腕を押さえ、その後ろに跨ればふわりと柔らかな香りがした。
「きさ、ま・・・」
荒々しい音がけたたましく耳を突く、澄んだまだ不慣れな声は紛れもなく僕を助けたと抜かす海と言う先程の女だった。
差し伸べられた小さな白い指先を戸惑う自分がいた。
「ごめんなさい。でも、心配で追いかけてきちゃったの!ここはダンプとかの往来が激しいから危ないよ?信号機の見方も分からないのに自殺行為だよ!」
純粋すぎて眩しすぎる手だ。
武器すら持たず血など、殺戮など無縁の綺麗な手。
先を歩く小さくて華奢な背中は頼りなく腰まで伸ばした緩やかで柔らかな髪がふわりと揺れる。
「誰も、」
「え―」
急に歩みを止め振り返った女はまっすぐに僕を見据えていた。色素の薄い瞳、小さな唇。ますます苛立ちが募った。
今は見るもの全てに対しての拭えない焦燥感があって、そして微かな感情が芽生えた。
敗北した心を、いっそあのまま死んでしまえたなら―
いっそこのままひと思いに突き放してくれ。と、言う諦めにも似た絶望。希望を抱くだけ無駄だ。
僕はいつから人生そのものを諦めてしまったのだろうか。
「助けて欲しいと、言った覚えはないのだがな」
「どういう意味かな?」
「未だ分からないのか?お前みたいな分かり易い馬鹿女は見てていっそ清々しいな。僕を助けて優越感に浸るだけでは気が済まないか?あんなことをされたのにそれでも僕を連れ戻してどうするつもりだ?」
どうせ僕はヒューゴにとって都合のいい駒なのだから。痛みも何も感じない道具なんだ。
今更、助けられたところで、この罪は消えないと言うのに。
優しくしてもどうせ他人なんだ。どうせお前も僕から離れていくのに。そうさ、
そう地面を向いてまた歩き出した僕の前にまた海が道を塞ぐ。
睨みつければ下から僕を見上げる双眼があった。
「もう〜・・・いちいちいいじゃない、何から何まで理由が欲しいの?」
「は―?」
「リオン君って。すっごくめんどくさい。どんな育てられ方をしたのかしら・・・そんな甘ったれたお子様がお城の剣士様とか、どんな国なのかしら?」
「ほう?漸く見せたそれが貴様の本性か?」
「本性だなんて、いくら何でも、あんまりにも人への接し方がなってなくて、ただ呆れてるのよ。そこまで他人の優しさを踏みにじるなんて。」
「お前がお節介なんだよ。」
「私、育ちは悪いけれど、困っている人を見捨てる様な育てられ方はしてない。」
「お前、今まで損して生きてきた人間だろう?」
「そ、それはいいでしょ?」
海が近いのだろう、海の髪が海風にそよぎ、炎の様に踊り狂い濃い潮の香りがした。
海の目つきが変わり挑発的な言葉をふっかけてやれば漸く女は化けの皮をはがした。だが清純でへらへらした笑顔を振りまいていい子ぶる海だと思っていた彼女が初めて見せた綺麗事だけではない姿の方が何故か心地よかった。
「このご時世ね、異世界から来たとか抜かす貴方がトラブルを起こして新聞に載ったりニュースになったらもうリオン君と関わってしまった私の気がすまないから貴方を探してたの。」
「あっさり信じたのも演技か?」
「演技?なんのこと?かわいそうな人だね、人の優しさをどうして簡単に疑えてしまうの?世の中はリオン君が思うような悪人ばかりではないんだよ?人の優しさをどうして押し付けだなんて言うの?私は自己満足だけで他人を助けたりなんかしない!帰る場所がなくて困ってる人を見捨てる真似もしないわ!」
急に下を向き唇を噛んで瞳がだんだん潤めば海は感情をむき出しにそう吐き捨て背中を向けた。
「それに、私はっ!寂しいからって優しくしてくれる男なら誰にでも尻尾をふるような女じゃないからっ!」
負け惜しみか、悔しかったのか。海はただそれを懸命に否定して大きな瞳に涙を溜め、背中を震わせていた。華奢な背中、緩やかな髪、リオンよりも小さな身体。
何故海が泣いていたのか、その涙をリオンが知るのはその先で。
会話は其処で途切れた。
黙ったままリオンは爪先の保護を無視したクロックスと呼ばれる靴から爪先を見ていた。
重い沈黙を破るように先に口を開いたのは海だった。
「ごめんね、私、すごく大人げなかったね。でもリオン君には分かって欲しかったの。ほんと。たしかに寂しいけど、リオン君を別れた元彼の代わりに助けたわけじゃないし、代わりを求めてるわけでもないから」
いきなり振り向いて、そう告げた海にもう何も言い返す気力も皮肉も思い浮かばなかった。
だからリオンも、それで終わりにすることにした。
何故かすんなりと受け入れられた。どこまでも純真で馬鹿正直なこいつを試していたのは、間違いなのだと分かっていても人を信じるという概念はリオンの頭の中には初めからないのだ。
どんなに咎められても人を信じたところで意味などない。自分には心を許せる相手なんて・・・マリアンを人質に取られてヒューゴの言いなりとなるしかなかった傀儡には信頼できる友や家族や恋人を持つことすら許されなかったから。
バスルームになだれ込み右手の包帯を見つめた。未だ膿を持ち彼方此方が疼く様に痛むし正直まだ体調も本調子ではない。痛みが生の実感を与えそして、久方ぶりの誰かの優しさを、浅ましくも安堵した自分に。
「リオン君、どうしたの??」
いつまで経ってもシャワーの音が聞こえず、脱衣所のドア越しにリオンに問い訪ねる海。もしかしたらまだ本調子でないのに無理して歩き回っていて疲れて倒れたのかもしれない。倒れる前に気付いて本当に良かった。
「リオン君、具合悪いの・・・!?入るよ?」
恥じらう場合じゃない、彼ともいつも一緒にお風呂に入っていたし、別に男の人の身体なんて見慣れてるんだと言い聞かせ海は脱衣所のドアを開いた。
「リオン君、」
「なっ、いきなり何だ!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
視界に弾け飛び込んできたのは上着だけを脱いだリオンの背中だった。
その背中は華奢な見た目よりも引き締まって背筋が綺麗についている。
そして、身体は思った以上に傷だらけで無数のアザや切り傷があったから。
確かに彼は背の割に体重は重かった。何だか気恥ずかしくてリオンの背後から声をかけた。
「ごめん、リオン君、右手がそれならうまく洗えないよね、気付かなくて」
「だま、れ。僕に・・・構うな」
「まだ言うの?もういいよ。リオンくんがそうでも、私は放っておかないから」
貧弱な体躯に背もお世辞にも男子の平均よりも小さいのに鍛錬を繰り返したのか彼の身体は確かに男だった。
そう呟いた海に間抜けな声をあげ転がりかけた身体を支え剥き出しの肩に触れると其処はゴツゴツと骨ばり男らしい。
「私は貴方のことをまだ何も知らないの。だから、放っておかない!」
「〜っ!…ッ、わかったから…もう黙れ!勝手に、するがいい」
海を振り払おうとした手をつかんだ。触れた指先は海が思ったよりも大きくて簡単に小さな海の手が包みこまれてしまった。
文句を言いながらもやっぱり不自由な右手が邪魔でまだ洗っていない汚れた髪を洗えない苛立ちを瞳は訴えているような気がしたのだ。
リオンは未だ病み上がり、髪を洗いたいのだが怪我によりうまく洗えず、もどかしくて不快で仕方ないだろう。
「着替えた?」
「あぁ、」
一応念の為にと腰にタオルを巻き先に浴室の椅子に腰を掛けていたリオン。
海も裸足になりお風呂に入ると浴室はあっと言う間に2人分でいっぱいになった。
「じゃあシャンプーからするね、」
「フン・・・怪我さえなければ」
「まぁまぁ、はい、」
剥き出しの背中を見つめると彼方此方に鍛錬かな、真っ白な肌に所々に小さな傷が目立つ。どんな育てられ方をしてきたのだろう。そっと触れるとリオン君は低い声で笑った。まるで…自分を卑下するみたいに、
「醜いだろ」
「なぁに?
はぁい、お湯掛けるから目、つぶってね。」
彼の言葉にはあえて触れなかった。
彼の傷をただ優しく撫ぜればリオンの引き締まった鷲みたいな身体が反応を示して微かに震えた。
リオンの美麗でどこか中性的な見た目とは裏腹に鍛えた肉体と言うギャップは海の顔を熱くさせた。
シャンプーを手にポンプを押して。水を含めて優しく泡立てる。
静かなバスルームにはお湯が散り艶やかな黒髪が濡れて煌めいた。
指先が黒髪を抜ける、すごく、綺麗な髪だと思った、こんなに綺麗な髪、整った顔はマネキン人形みたいに見えた。
「かゆいところはないかな?」
「フン、」
「気持ちいい?メイドさんよりうまいかな?」
「なかなかだな。メイドに髪なんて洗わせると思うか?」
「そうだね。」
中性的な顔立ちと裏腹に傷ついた背中は男らしい。まだ16歳の子供なのに。
それが強がりに見えた、かえって痛々しくてたまらなくて無心で彼の髪を洗った。
頭皮をもみ込んでマッサージをすればリオンは次第におとなしくなる。
身を任せてくれたのかリオンは泡が目に入らないようにそっと瞳を閉じた。
城に仕える身で諜反(ちょうほう)を犯したと海に告げた彼がどうしても大罪人には見受けられなくて、たとえ彼に騙されていたとしても誰も信じきれずに、自分からは出来ないくせに命の終わりを願う浅ましい自分には今更どうだってよかった。
恋を失った痛みでは人は死なないと言うけれど、あの人の居ない1人の部屋は本当に生き地獄で…孤独はいつも生の実感を植え付けた。
つらさを抱える背中。
毛先にコンディショナーを付け無くても構わないくらいの綺麗な黒髪だ。
「トリートメント付けるね、」
「何だこれは?」
「髪を保湿するの。サラサラになるよ」
お湯を汲んで頭に掛けてあげるとリオンが小さく肩を震わせた。左手に桶を持って右手で髪を洗い流してあげる。
本当に綺麗な髪だなぁ。思わずたくさんと言うくらいに触れた。
「うん、綺麗になったね。身体は自分で洗う?それとも洗ってあげようか?」
別に背中を流してあげるくらいいいかな?弟に接するみたいになんとなくそう聞いたら以外にもクールで純情なリオンは真っ赤な顔で海に振り向いた。
「いきなり何を言う!痴女め、恥じらいを知れ!!」
「ふふ、冗談だよ。恥ずかしい?」
「全く、いちいち癪に障る女だ。」
クールに振る舞っててもからかえば真っ赤な顔でムキになって、すごく純真な一面もあるんだ。それがなんだかおかしくて海も先程の涙から少し微笑みを浮かべていた。
「はいはい、冗談なのに。
じゃああとは身体を洗ってゆっくり湯船に浸かってね。
着替えとタオルがあるから、ドライヤーの使い方わかる?」
「知らん、なんだそれは。」
「じゃあ出たら教えるから。」
あの人みたい、あの人が、帰ってきてくれたなんてまた淡い錯覚を抱いてしまう。
脚を拭いてお風呂場を後にするとお湯を被る音が聞こえた。
お湯を流す音が聞こえる。
リオンがお風呂に入っている音をBGMに海はまた片付けを始めた。
あの人は帰ってこない。
リオンは代わりじゃない、いや、誰も彼の代わりなんかになれやしないのだ。
「海!写真撮るぞ!」
今まで過去を受け入れたくないが為に目を背けて拒み続けていた思い出の部屋や写真の数々を眺めてもあの幸せだった過去は決して帰ってこない。
そんなときにタイミングよく現れた異世界から来たと言う見目麗しい美少年。
彼の存在がそれを整理する決心を与えてくれて、漸くその決意を固めたのだ。
もう一人で静かに泣ける場所もない、リオンのおかげだろうか、小さく笑みを漏らし、彼の部屋を片付けてそのままリオンの寝る部屋を作ることにした。
せっせとぽっかり空いた、かつて勉強部屋だった恋人の部屋を見つめ、彼の私物を全部ゴミ箱に捨てていく。
寒い雪の降る日に身の回りのものだけを持ち、家具もみんなそのままにして出ていった恋人を思い出す。
思い出を振りきる様に早く片付けてしまおう、ここも引き払ってしまって。
小さな海にはあまりにも大きすぎるマンション。
ここにはもう、住みたくない。
家賃も払っていけないし、思い出が強すぎるこの場所を離れ引っ越してしまいたい。
残された写真を見つめて。海はまた瞳をにじませた。
本当は忘れたくなんてないのに。思い出にしなければいけない。
あの優しかった温もりも、重ねたキスさえもまるで昨日のことのように思い出せるのに。
今ならわかる。
彼がどれだけ大切で大好きだったか、彼を失ってから気づくなんて、悲しみに暮れる海の横顔に浮かぶ透明な涙が紛れもない証だった。
気配を自然と消した立ち振舞いをするリオンが近くにいたことも知らなかったから。海は無意識にはらはらと流れ落ちた涙を拭うこともしないで泣いた。
開きっぱなしのドアから見えた涙を流す海の後ろ姿が儚くて、リオンは声をかけるタイミングを見失っていたことも知らずに。
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