「Buon compleanno papà」
気が付けば、誰だって言える小さな一言が──言えなくなっていた。
人は素直になれと言う。大切な父親なのだから、と諭す。でも私には響かない。素直になる方法も分からないし、私の為に毎日働いてくれていることくらい分かっている。分かってるからこそ言えないこともあるし、言えないことへの言い訳なんて存在しないことも分かっている。
今日も変わらず、私は彼を一瞥して家を出て来てしまった。
お父さんに私の気持ちが分かるわけない。そんな、音無き愚弄を残して。
「……楢崎?」
「……」
「楢崎」
「ひゃっ!ごめんなさい!」
夕陽差し込む小部屋にて。ぼんやりと考え事をしていたから、きっと反応も出来てなかったのかもしれない。リオン先生が数式をボールペンで指したまま、私の方を呆れたように見ていた。
慌てて姿勢を正して、私は先生に向き直る。
そう。今日は三月三日、雛祭り。女の子の為の日ではあるけれど、私はリオン先生にお願いして、大嫌いな数学の補習を受けていた。本当ならフィーちゃんと遊びに行きたかったけど、家の用事があるみたいで帰ってしまった。面倒臭そうな顔をしていたから、きっとお兄さんのことだと思うけれど。
それよりも、と、私は両拳を握り、唇を噛み締める。私から補習を頼んだのにぼんやりしてちゃ、きっと先生は呆れてやめてしまう。今はまだ六時、もう少し時間を稼がないと意味がない。
「ごめんなさい、先生。大丈夫です」
「……」
「あのっ……説明を続けてください」
「……分かった」
探るような先生の瞳。探られまいと、私は強い目を返す。きりがないと感じたらしい先生。再びボールペンが走り出す。
「この式が出たら、後はmに数字を当てはめるだけだ。mが1の場合──」
「……」
「……海翔のことか」
「──!」
口振りからすると、初めから分かっていたんだろう。私が思わず瞠目すると、先生は二度目の呆れたような溜め息を吐く。そうだった。先生とお父さんは仲がいいんだった。きっと私の態度のことだって知っている。
そこまで考えたとき、不意に拳に冷たいものが落ちてきた。
私のばか。クライス先生はお父さんに似てるから嫌だったけど、リオン先生だってグルだった。忘れてたし、きっと忘れさせてくれない。フィーちゃんに無理矢理ついて行けば良かったのかもしれないけど、そんな勇気も無かった。
涙を拭くこともせず、私は先生を見つめる。そして、無理矢理笑う。
「説明、続けてください」
「……」
「ごめんなさい……私、花粉症なんです。気にしないでください」
「涙の言い訳が花粉症か」
「……疑うんですか?」
「疑うも何も、自分から違うと言っているようなものだろう。数字が泣くほど嫌いなお前が補習を頼んできたのも、何か理由があるんじゃないのか?」
「私は数字で欠点を取りたくな──」
「テストはもう無いのに、か?」
「……」
「……詮索するつもりはない。お前の為を思って聞くが、海翔と何があった」
ボールペンを置き、先生は腕を組むと背もたれに寄りかかる。簡単に知られてしまった恥ずかしさと、逃げ場のない苦しさとで涙が止まらなくて、私は小さく俯く。
簡単なこと。
ただ嫌いで、嫌いで、嫌いで仕方のない人の誕生日が今日で、今日という日すら嫌いで、嫌いで、逃げ出したかっただけ。お父さんが私に何かしたわけじゃないのに、誕生日を祝うことすら、いつの間にか嫌忌してしまうようになっていた。
ただ恥ずかしがっただけだったけど、話したって変わらないと意地を張って、私は口を開かなかった。もし話したとしても、返ってくる言葉がどんな形をしているか私は知ってる。失われた箇所に綺麗に嵌る、パズルのピースのような形。
でも、どうしてなんだろう。
目の前にそれが落ちているのに、未完成のパズルのままの方が落ち着くのは。
「……先生」
「……」
「お願いします、せめて七時まで、ううん、六時半まででもいいの。私に数字を教えて。私、フィーちゃんに教えられるように頑張るから」
「……」
「お願いします」
「……僕はそれでもいいが、お前は本当にいいのか?」
「私は別に──」
「本当に、か?」
目をきつく細め、先生は芯のある声で私に再度問う。それにすぐ答えられなかったのは、私の中にまだ迷いがあったからかもしれない。
気が付けば、窓の外は雲に覆われ、白いだけの冷たい光が私達を照らしていた。
「……」
お父さんなんか、私に祝ってもらわなくても。
お父さんなんか、私がいなくても。
私はお父さんを嫌うことしか出来ないから、せめて遅く帰って、傷つけないようにそのまま眠ればいいと思った。だから、私は先生に数字の補習を頼んで家に帰らないようにしていたのに。
こんなのじゃ。
「う……ふえっ……」
「補習は明日にするぞ、楢崎。今日はもう帰ったらどうだ」
「むっ……帰りません……!」
「僕“が”疲れたんだ。帰らせてもらう」
「まっ待ってくださいイルヴェ先生きゃあっ!」
さっさと片付けを始め、席を立つ先生。慌てて彼のスーツを無理矢理掴んだとき、バランスを崩して転んでしまった。
椅子の倒れる音。机の震える音。膝を打ち付ける音。紙が舞い上がり、はらはらと私達の方へと落ちてくる。
「……」
私は床に突っ伏し、同じくバランスを崩した先生は仰向けになって倒れていた。打ち付けた膝が痛くて、でも先生の様子も心配で、私は顔だけをそっと上げる。
予想外にも、先生は起き上がることもせず、私の方を見ると口角を上げてみせた。
「海翔だったならこのような時、自分だけが怪我をして、お前を守ってやるのだろうな」
「先生……」
「見て分かるだろう、楢崎。僕は暫く起き上がれそうもない。補習は中止だ、さっさと帰るんだな」
「でも……わたし……どうすればいいのか……」
「ケーキでも買ってやったらどうだ。不味い、と一蹴するかも知れないが」
「……」
「それに、今日は雛祭りだ。お前も欲張って祝ってもらえばいいだろう」
「先生のばか……」
「そんな馬鹿は置いてさっさと行け、海」
悪戯っぽい先生の笑みに、私も思わずふわりと笑みを浮かべる。“起き上がれそうもない”先生は誰かに任せることにして、私は鞄を手に取ると、一礼してから教室を出た。
お父、さん。
本当は嫌いなんじゃない。誰かの言うように、素直になれないだけ。戸惑ってるだけ。自分の弱さを見つけた時、それをお父さんにも知られるのが怖い。ただ、それだけで。
お父さんが生まれてなかったら、私もいなかったんだから。誕生日くらい。
「……」
学校の外に出ると、重い雲が不穏を落としている。時刻は六時十五分。ケーキ屋が閉まるまでにまだ時間はある。私は膝を打ち付けたのも忘れて、バイクに跨ると先を見据えた。
怖いけれど、今日だけは。
* *
時計の針が進む。
長針が進むたびに、雨の降る窓の外を見つめ、買ってきたケーキの箱に目を落とす。雨音が杞憂を呼び、不安を呼び、耐えきれなくなり振り返る。
ドアは、孤独しか告げない。
「お父さん……?」
時刻は八時五十分。
帰って来ている筈の、時間。
* *
傘も持たず、携帯電話も持たず、私は道を走っていた。降りしきる雨は冷たくて、吹き抜ける風がそれを助長する。髪は顔や首に張り付いて気持ち悪いけれど、気にもしていられなかった。
ざあ、と降る雨だけが、道にある。切れかかった街灯。昼は人通りの多い道も、夜になると誰もいなくなってしまう。まるで、初めから誰もいなかったかのように。
「お父さん!」
叫ぶ。携帯も繋がらなかったのに、声が届く筈はないと分かっていても。
「お父さあああん!」
雫が頬を流れる。雨か泪か分からない。だんだん息が苦しくなってきたけれど、お父さんがいない幻の方が苦しくて、尚も駆ける。
お父さんは私がいなくたって生きていける。私はお父さんを傷つけることしか、嫌うことしか出来ない。それは真実かもしれないし、ただの虚妄でしかないのかもしれない。ただ、お父さんのいない家でお父さんの誕生日を迎えた時に見えたのは。
例えようのない、恐怖。
「お父さん!どこなの!?いなくならないで!お父さん!」
──生まれてきてくれて、ありがとな。
幼い頃、私の頭を撫でながらお父さんがそう言ってくれていたのを思い出す。彼の言葉に、無邪気に高い声で返事をしていたことも。私はまだ大人にはなれていないけど、今こそお父さんに同じ言葉を返さなきゃいけない。
そう思うのは、お父さんがいなくなってしまったのを想像してしまったから。
私は傷つけたまま、嫌ったままだったから。
「おとう……さん……」
苦しくて、気管支が灼けるみたいに痛くて、私はよろめきながら壁に寄りかかる。そのまま腰から力が抜け、弱々しく座り込む。
ぶつけた膝を見ると、知らないうちに青痣が出来ていた。今まで痛くも何ともなかったのに、気が緩んでしまったのだろうか、刺すような痛みが左膝から放たれる。
「……」
暴言ばかり吐いて、感謝なんて恥ずかしくて出来なくて、意地ばかり張って、兄と二人暮らしをしているフィーちゃんが羨ましくて仕方ないと思ったこともあった。あんな風に年が近くて、何でも言い合える人が一緒にいたらいいのに、と。私にも兄がいたら良かったのにと、父親に娘の気持ちは分からない、と、父親の優しさを横目に悪態ばかり吐いた。
その、報いなのかな。
「おとうさん……わたし……」
身を刺すような風が吹き抜ける。雨は弱まることを知らず、街灯の光は温かみを失っている。光でありながら光でない、そんなものを放っている。
でも、街灯の光が一瞬消え失せ、再び灯ったとき、今まで感じていたものと違う暖かさを感じて、私は咄嗟に顔を上げた。
「……」
雨が、流れている。
その中でも強く、気高く、彼は立っていた。小さい頃、宝石みたいで大好きだった紫の双眸を円くして、私の方を見ている。右手には仕事用のバッグ、左手には小さな箱を持って。
やっぱり私達は親子なのかもしれない。
こんなに冷たい雨が降っているのに、どちらも、傘なんて持っていなかった。
家にいる筈の一人娘が、道路の脇で膝を折っているのを見て驚いたんだろう。お父さんは暫く口を噤んでいたけれど、やがて、目が覚めたみたいに私のそばに寄る。
「海……お前、こんな所で何をしてるんだ。風邪を引いたらどうするんだ」
「お父さんには関係ないの!」
「……」
「お父さんが……早く帰って来ないから……」
「海……」
恥ずかしくて目を合わせられなくて、私は地面に目を落としたまま続ける。
「お母さんは今アメリカだし……お母さんの代わりに私が捜しにいかなくちゃいけないんだから……」
「……」
「携帯に電話かけても出てくれないし……心配になったの……」
「……」
「お父さんに何かあったら……お父さんに嫌われたら……私……!」
「お父さんに何かあるわけねえだろ。それに、何処の父親が可愛い一人娘を嫌うって言うんだ。寝言は寝てから言え、海」
「……!」
「ただいま、海」
身を屈め目線を合わせてから、お父さんは微笑んでくれる。目を細めて、私を安心させてくれるような淡い笑みを。
思わず目を逸らしてしまった。見ていられなかった。こんなに優しい笑みを浮かべられるのはお父さんだけだったから。イルヴェ先生にもシャルティエさんにも出来ない、私だけの宝物のようなもの。
それを見られなかったから不安になって、愛されていないかもしれないと不安になって、嫌ってばかりだったのかもしれない。
ふと、お父さんは私の手を取って立ち上がらせると、左手に何かを握らせてくれた。お父さんが持っていた、見覚えのあるような無いような、小さな白い箱。
「これ……」
「雛祭りは女の子の為の祭だからな。甘いものが嫌いなお前のために、甘くないスイーツを簡単だが作ってみた」
「!」
「それに夢中になってたらもう八時半でよ。やべえと思って退社すれば、娘が道路に座り込んでるじゃねえか。お前に何かあったんじゃねえかと思ったら心臓止まっちまうかと思ったぜ」
「……」
「そいつも雨に濡れてぐちゃぐちゃだろうけどよ、開けるだけ開けてみてくれ。お前の為に、腕によりをかけたんだからな」
「……お父さんのばか!そんなのどうでもいいの!」
涙が止まらなくて、嗚咽まで漏れてしまっているけど気にしていられない。私は小さな箱を持ったまま、一度口を噛み締め躊躇ってから、小さな声で言葉を紡ぐ。
長い間、言えなかった言葉を。
「お父さん……おたんじょび……おめでとう……」
「──!!」
「おとうさん……が……わたしのおとうさん……で……よかっ……」
「……」
「ふえっ……ぐすっ……」
「全く……仕方ねえ娘だな、お前は」
不意に、お父さんの片腕に引き寄せられて、からかわれるみたいに頭を軽く叩かれる。お父さんに抱きしめてもらったのなんて久しぶりで、暖かくて、安心してしまったのかもしれない。いつもなら突き飛ばすかもしれないのに。
今日だけは。
お父さんの為に──泣いた。
* *
翌日。
あの後二人で帰って、二人で盛大なパーティーをして、笑いながら眠りについたからかもしれない。七時半に起きなきゃ間に合わないのに、起きたのは八時半だった。
フィーちゃんに、先に行ってもらうようにメールをして、私はそんなに焦ることもなく朝の準備をしていた。久しぶりにカーテンを開けると気持ちがいい。昨日の雨が嘘みたい。
いつもなら自分のものしか準備しないけど、今日はお父さんの好みに合うようなコーヒーを淹れてみる。イタリア人とのハーフだから、コーヒーの味には煩いところがあるけど、多分気に入ってくれるだろう。そう思うのは相手がお父さんだから。家族じゃなかったらきっと、スプーンできちんと量って作ってる。
自分の朝食を済ませて、私は学校に行く準備をする。今から出たって遅刻は遅刻だけど、イルヴェ先生がきっと分かってくれてる。クライスがからかってくるかもしれないけど、その時はフィーちゃんとイルヴェ先生とで守ってくれるはず。
そこまで考えた時、私は思わず足を止めた。
「クライス……」
お父さんに似てるからかもしれないけど、何となく喋りづらかった。無意識のうちにどう関わっていいか分からなくなって、たまに避けることもあった。
でも、もうそれも終わりだ。
お父さんのことは好きじゃないし、お父さんに似てるクライスだって同じ。でも完璧に嫌えないのは、きっとお父さんがお父さんだから。私の家族だから。家族に似ている人を何となく放っておけないのだって、同じ理由に因ると思う。
クライス先生に優しくした時の彼の反応を想像し、少し笑ってから、私は鞄を手に取った。そろそろ行かないと、いくらイルヴェ先生が事情を知ってても叱られちゃう。
玄関に行き、靴を片方だけ履いて、止める。靴を脱ぎ散らかして、お父さんの部屋に足早に向かうと、私は昔を思い出しながら息を思い切り吸い込んだ。
「お父さん!!ブオンジョルノ!!」
「ああ……うみか……おはよ──」
「チャオチャオ!」
「ああ……きをつけてな……」
せっかくイタリア語で挨拶したのに、お父さんったら全部日本語で返すんだから。
内心口を尖らせつつも、一度だけお父さんの顔を見てから、私は再び靴を履く。うまく履けなくて転びそうになったけど、バランスをとって体勢を立て直す。
外に出ると、薄い青をしていた風に微かに緋色が混じっているのが分かる。雲が薄く広がり、誰もいなかった道から人の声がする。私はバイクに乗ると、左足を立てた。
お父さんに、青痣の上から貼ってもらった湿布。それを止めるテープがもうぐちゃぐちゃになっていたけれど、私は笑みだけを浮かべてから鍵を回した。
不器用なお父さんと、不器用な私。そんなお父さんの為に私は走り回って、お父さんは自分のことも忘れて身を削ってしまう。互いに憎みきれないのはきっと、私達が似た者同士の親子だから。
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