「待ち焦がれる」
お気に入りのカフェで買ったサンドイッチを楽しんだ昼下がり。
ちょっと大人ぶってブラックコーヒーなんて飲んでみたけれど、意外と行ける自分に気付いた。私の友達は、苦すぎるのか一口目で吹き出していたから、彼女も早くこの苦味が平気になってくれればいいな、なんて思う。美味しい豆で挽いたコーヒー店巡りなんて楽しそうだし。本格的なコーヒー店でもカフェオレにしてくれるのかしら。牛乳を混ぜてもいいのなら、今すぐにでも二人で計画を立てたいんだけれど。
午前中と変わらず、黒板の前ではクライス先生が教科書を読み上げている。彼の髪は驚く程鮮やかなルビー色だが、地毛なのだそう。私は彼の髪の色が好きだ。いつか三つ編みにしてみたいけれど、怒られるだろうか。
「……」
窓の向こうから聞こえる鳥の囀り。少し前まで雪が積もっていたような気がするのにもう春の足音がする。学年が上がってもクライス先生はまた担任になるのだろうか。全く知らない先生になるよりは、見知った先生が担任になる方が此方もやりやすいのだけど。
例えば。
「で、ここで言うwhichは疑問詞じゃなくて、関係代名詞ってヤツなわけだ」
「……」
クライス先生が黒板に向き直った隙をついて、私は後ろの席の友達──フィーちゃんからメモを受け取る。何があってもいいように身体は前を向いたまま、手だけを後ろにやって受け取るのだ。苺型に折られたメモはすんなりと私の手に収まり、クライス先生が再び前を向いた時には、既に受け渡しが完了している。
担任が変わって厳しいだけの先生になってしまえば、こんなことも許されなくなるのだ。それは少しだけ、寂しい。
「……」
「そうなると、この文章は“私の茶色い子犬が三日前に迷子になっているのですが、あなたは見てませんか”という訳になるわけだ。どこ行ったんだろうな、ワンチャン」
「……」
「道端でもよく見るよな。電柱とかに貼ってんだろ。この犬探してますってヤツ。あれ、どれぐらいの確率で見つかってるんだろうな」
「……」
確かに。ずっと貼りっぱなしのポスターもあるから見つからないものだと思っていたけれど、今はSNSがあるし、以前よりは見つかる確率も高くなっているのだろうか。
ではなくて。
内心私は首を振ると、筆箱という防壁の後ろでメモを解いた。
──そういえば、言うの忘れてたんだけど、この前お兄ちゃんが抽選で当たってさ。ホテル最上階でのランチ二名様ご招待券をもらったんだ!お兄ちゃん行く暇ないって言うから、海ちゃん一緒に行かない?
「行く!」
「は?どうした?」
「えっ?」
はやる気持ちを抑え切れなかった自覚はあるのだけど、まさか声に出ていると思わなかった。クラス中の視線と、点になったクライス先生の目を一身に浴びている自分がいてパニックになる。いけない。あっという間に顔に熱が上るのを感じながら、私は思考を巡らせる。
「あ、あの、保健所に行くんです。保健所に行けば、迷子になってる犬が保護されてる可能性がありますから。それで迷子の犬を見つけたことがあります」
「そうかあ、楢崎は優しいなあ」
「優しくなんかありません。当然のことをしたまでです」
ああ。恥ずかしさで口調までおかしくなってきたし、クライス先生も、私が誤魔化していると分かった上で話を合わせてくれるから余計に恥ずかしい。適当に笑いながら場を流そうとしているうちにクラスメイトの視線がばらばらと黒板へ向かっていく。助かったのかそうでないのか、実際よく分からないけれど、私は静かに安堵の溜息を吐いた。
先生が別の関係代名詞の問題へ移ったところで、私は改めて手紙に向き直る。
ホテルの最上階でのランチだなんて。どのホテルだろう。グランドが名前につくホテルかしら。それとももう少し都会に出たところかな。東京の高級ホテルだったらどうしよう。フィーちゃんと二人、飛行機に乗って旅行という形も面白そう。その前にお父さんとお母さんは許してくれるかな──期待に思わず口角が上がるのを止められない。私はペンを取ると、メモに返事を書いていく。
──行きたい!どこのホテルなの?
ああ、東京もいいけど南国もいい。綺麗な海を見ながらのランチだなんて、本当に大人になったみたいだ。叶うなら恋人と過ごしてみたいけれど置いておくとして。再びクライスが黒板に向かった隙をつき、私は後ろの席へメモを置く。
ああ、わくわくする。頬が緩んでしまうのを隠すように、私は両頬に頬杖をつく。今回は流石に違うと思うけれどいつか海外でランチもしてみたい。綺麗に着飾って、二人お揃いのドレスを着て、ワインをボトルで頂けますか、なんて言ってみたい。英語で言うと何て言うんだろう。後でクライス先生に聞いてみようかな。
暫しの空想の後、背中が軽く叩かれメモが回ってくる。開く音がするのも構わずメモを紐解けば、初めに予測したホテル名が記載してあった。あのホテルで、友達と二人きり、無料でランチだなんて夢のようだ。断りを入れる理由なんてどこにも見当たらなくて、私は二文字だけを書くと、すぐに後ろの席へ回した。
日付は今週末の土曜日。確か何も予定は無かったはず。帰ったらお父さんとお母さんに話してみなくちゃ。本当なら今すぐにでも携帯を取り出して許可を貰いたいけれど、流石にクライス先生の目を盗める自信がないのでやめておく。
そんな時だった。
「じゃあ、楢崎」
「あ、は、はい!」
クライス先生の、紫の瞳が私を捉えている。まずい。前後を何も聞いていなかった。動揺を何度か隠しながらも返事をすれば、クライス先生は愉しそうに口角を上げてみせる。まるで悪戯を思い付いた子供のような、今の私にとっては心臓に良くない笑みだ。思わず苦笑を返せば、彼はテキストを私の方へ向けると、トントンと指で叩いてみせる。
「三段落目から。朗読してくれるか」
「あ、はい」
な、何だ……怒られるのかと思っちゃった。
内心胸を撫で下ろしながら、私は冷静さを装いつつも立ち上がり、朗読する。
ああ、お父さんとお母さんに許可をとるのが待ち遠しい。二人でランチに行くのが楽しみすぎて、朗読に全然身が入らない。恐らくクライス先生もそれを悟っている。だからこそ段落までわざわざ教えてくれたのだろう。後でお返しを請求される前に、それこそ美味しいコーヒー豆でも探しておかなくちゃ。
待ち焦がれる
「……」
再び背中に合図があり、私は疑問符を浮かべながらも手紙を受け取る。てっきり、先程の返事で会話は終わりかと思っていたのだ。クライス先生の視線を掻い潜りながらメモを開けば、私の二つ返事の下に文字が追加されていた。
――ありがとう!海ちゃん、好き!
「……ふふ」
私もだよ、フィーちゃん。
言葉にはせず、視線を窓の外へと流す。早く外へと出たいけれど、それは授業を全て受けた後のご褒美だ。私は一度だけシャープペンシルを弄んでから、板書に集中することにした。
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