「傷だらけの足を引き摺り歩むこの先に絶望よりも美しい何かを求める」
春の雪というものが存在するのなら、窓の外の風景のことを指すのかもしれない。
三月二十七日。春の香りは微かにするけど、冬のにおいもまだ残っている時期。そして私の誕生日。そんな日に私は今日も独り。今更誕生日を誰かに祝ってもらいたいなんて気はない。暖房のついた暖かい家にいるのは私だけという悲しい状況のせいなのかもしれない。
今日も私はコンビニで買ってきたケーキをテーブルの上に置く。それから、亡き父と母の写真を独りの誕生日会に参加させる。テレビは煩いし、好きでない番組がかかっているからつけないでおく。代わりに点けたのは、ケーキの上に一つだけ立てた蝋燭。
「……」
ああ、今年も駄目だった。
独りの誕生日会は回数を重ねている筈なのに、いつだって私はたった一つの感情に負け泣いてしまう。今年は頑張るつもりでいたけど、もし泣いたらいけないから、とタオルを持ってきた。蝋燭がじりじりと音を立てる中、私はタオルの中に顔を埋めると短く息を吐く。
友達がいないわけではない。ただ、誘う勇気がないだけ。友人は皆忙しそうだし、自分の為に彼女達を誘い出すのも気が引けていた。もし誘えたとしても、楽しい誕生日会を催せる自信もない。私がもう少し明るくてプラス思考だったなら今頃、この小さい部屋にたくさん友達を呼んでピザでも振る舞っていたかもしれない。
そこまで考えて、私はまた溢れ出してきた涙をタオルに吸わせる。
職場の人にもよく言われる。もう少し明るく振る舞えないのか、と。それが簡単に出来るのなら苦労しないし、何も考えず行動に移していただろう。でもそれが出来ないのは私が臆病だから。
「……」
蝋燭の小さな炎がふわりと揺れ、早く消せと言わんばかりに蝋を溜めている。私は鼻を啜ってからタオルを再びテーブルの上に置くと、いつもの儀式に取りかかる。
そう。何を今更思い詰めることがあるの?寂しいだなんて駄々をこねちゃ、玩具を欲しがって駄々をこねる子供と変わらないじゃない。私はもう大人なんだから、少しくらい寂しくたって我慢しなきゃ。
「……お父さん、お母さん」
膝の上で拳を握り締め、私はそれぞれの写真にそっと声を掛ける。
腕の立つ刑事だった母。料理人で、私をいつも庇ってくれた父。甘えたかったといえば嘘になるけれどどうすることも出来ない。海に還りし者が再び砂浜を歩くことなどないのだから。私に出来ることは、父や母が生きている夢を見ることではなく、愛しき二人の為に立派な女性となり安心させることなのだから。
たとえ今、その始点にすら立つ勇気がない状態だったとしても。
「今日で私も一つ歳を重ねたよ。私もこれで少しは大人に近付けてるのかな」
二人に向ける笑みには嘲りが混じる。
分かってる。歳をいくら重ねたって心が子供なのでは、彼のことを大人と呼ぶことは出来ない。そういう意味では、この世に大人と呼べる人なんていないのかもしれない。みんなどこかあどけなくて、独りが寂しくて、甘えたいのだから。
私が完璧主義だからなのかもしれない。或いは、ただ単にドラマの見過ぎなのかもしれない。人に甘えられ頼られる、何でも出来る大人になろうとしていた。
それでもやっぱり誕生日には分かってしまう。私は背伸びをすることに一生懸命になって、前には一歩も進んでいないこと。痛む爪先に踵を下ろしてやっと、自分の状態が理解出来るのだ。
「今年は大人になるよ」
そんなこと出来るわけもない。苦しい。苦しいの。いつまで経っても進めない、背伸びばかりしているせいで足が痛い。それなのに子供な大人からは大人扱いされ、完璧を求められるんだから。
「……」
私は蝋燭を吹き消すのではなく、手に持つ。そうして立ち上がり、木製の棚のそばに寄る。
よく燃えそう。これで私も、きっと。
無意識のうちに安らいだ笑みを浮かべ、私はそっと棚へと蝋燭を傾ける。でも、不意に腕を掴まれ火のついた蝋燭を奪われた。
振り返れば、知らない人。
.
黒髪の、背の高い人だった。
私を見下ろす菖蒲色の双眸はひどく冷たく、若干憤怒を浮かべているようにも思える。それにも驚いたのだけれど、彼の妙な格好にも驚いた。まるで御伽噺から出て来たかのような格好をしているのだ。
何故鍵を閉めているのに入ってこられたのか。何故私が火事を起こそうとしたことを悟ったのか。冷静になればいくらでも不可解な点を挙げることは出来たけれど、完璧に混乱している私がそのような疑問を抱けるはずもなかった。
私は目を見開いたまま暫く固まっていたが、ふと我に返ると彼の手を払う。そして警戒を浮かべた鋭い声で彼に詰問する。
「誰なの?何をしに来たの?私はあなたなんか知らない。私に関係のない人が関わろうとしないで!」
「それが、絶望に駆られ死のうとした奴の言えることか?それは素晴らしいな、笑いすら起こらん」
「馬鹿にしないで!帰って!これ以上変なことを言うなら警察に突き出すわ!」
言葉には怒りを込めている筈なのに、こぼれる涙は恐怖そのものを訴えている。そもそも、私の周りにはこんなに背の高い同僚も患者さんもいない。だから余計に、何か余計なことを言ってしまえば殺されてしまうような気さえして、私は壁に背をつけた。
だが、彼は全く怖じ気付くことなく、小さく笑ってみせる。所詮吠える犬ほど臆病で大したことはない、そう言わんばかりに。
「お前が何を思い詰めているかは知らんが、それではお前の両親も心配するだろう」
「何よ、分かりもしないくせに適当なこと言わないで!」
「僕は適当なことは言わない。僕は事実を言ったまでなのだが」
「なに?あなたは天国から来た人なの?私を連れて行ってくれるの?」
「……」
「答えなさい!」
自分が何を問うているのかすら分からない。初対面の人に天使かどうか尋ねるなんて何て馬鹿げているのだろう。
でも、怖かった。父と母の為に大人になると誓ったのに躊躇う自分がいる、逃げだそうとする自分がいる。かといって両親に甘えようと、天からの迎えを乞おうとすれば赦されぬことだとはねつけられる。現実に帰ったって逃げ出したって、私に用意された路なんか少しも見えない。
涙がついに男の輪郭を滲ませる。膝に力が入らずその場にへたり込めば、男が私にタオルを差し出すのが見えた。
「何故初めからそうしなかった?何故、怖いと一言叫ばなかった?」
「……」
「お前は勘違いしているようだから言っておいてやろう。弱音を吐かない人間は強くなどない。弱いんだ。誰かにそれを讃えてもらおうと思ったって無駄な話だ」
「……」
「今日は誕生日なのだろう。お前の両親がお前の誕生を祝福した日に、お前はその命を投げ出そうとしたんだ」
「……!」
「くだらんことはするな。悲惨な結末を迎えたいなら別だがな」
彼は私の頭を撫でるとそっと微笑んでみせる。私は恐らく真っ赤になっているであろう目だけを彼に見せると、小さく頷いてみせた。
この人の言うとおりだ。母も父も私を護ろうとしてくれていたのに、私は自分のことしか、自分に向けられるであろう評価しか気にしていなかった。何もまともに考えられていなかった。
再びタオルに顔を埋めれば、彼は何か呟いてからテーブルの方に向かう足音を立てる。何を言ったのか聞き取れず顔を上げれば。
「……!」
黄金色の鱗粉がふわりと空に消えるのだけが、見えた。
タオルを口元にあてたままそっとテーブルに寄ると、あの男が奪ったはずの蝋燭がケーキに刺さっていた。揺れる火は新しく、溶け始めた蝋の塊もない。それから、そばに大きな包みが残されていた。
「これ……」
タオルを置き、私は緋色の包みを躊躇いもせずに解く。本当なら危険物が入っているかもしれないというのに、私は何故か無心のうちに紐を解いていた。いつもは綺麗にテープを剥がす包装紙も汚く破り、箱の中を露わにする。
「──!」
床に放り投げた包装紙の落ちる、短い音。
それと共に姿を現したのは手作りの小さなケーキだった。父がいつもしている風のケーキだからすぐに分かる。プレートも何も無かったが、メモに走り書きされている小さな手紙に私は確信する。
父はいる。どこかにいる。自分が出て行くのはまずいから、と、あの黒髪の人に頼んで持ってきてもらったに違いない。
「お父……さん」
写真にて微笑む父の姿に、私は小さく首を振ると嗚咽も我慢せずに言葉を口にする。
「ありがとう……私、生きる……惨めな状態でも生きる……!」
私の誕生をどこかで祝ってくれる両親がいるのに、消えてしまおうとしていた自分こそが一番惨めだ。無視されるのが怖くて苦しいと叫べずに黙って、壊れそうになった私こそが一番惨めだ。気高き大人になれなんて、両親が望んでいる第一のことなんかじゃないのに。
居ても立ってもいられずに、私は蝋燭の火を吹き消してから家を飛び出す。携帯も持たず、家の鍵だけをポケットに入れ、夜の静かな道を一気に駆ける。温かく感じられる雪は涙と溶け合い、認める間もなく姿を空に解かす。呼吸を繰り返す気管支は灼けるように痛くて、血の味がして、苦しい。それでも足は止めない。止められないからじゃない、止めたくないからじゃない。止める理由がないから。
「はあ……はあ……」
漸く着いた、家の近くの浜辺。同じ名を持つはずなのに人間の海はひどく苦しげで、自然の海はひどく落ち着いている。私は膝に手を当て呼吸を整えてから、誰もいない砂浜の上をそっと進んだ。
夜の空の色をした海。
私は靴に水を受けながら、ぼんやりと現れた月を見つめる。その下にて広がる海は美しくきらめき、誇らしげに色を変えている。
「……ありがとう」
その言葉を向けたのは、誰に対してだっただろう。傷だらけの足を引き摺り歩むこの先に
絶望よりも美しい何かを求める
決めたこと。
大人か子供か、なんてもういい。私は両親を安心させ、喜ばせられるような人になりたい。
テーブルに伏せ微睡みながらそう思う。近くにあるのは綺麗に片付けられたケーキの箱と、立てかけられたままの二枚の写真。
***
うおおおー!!エレちゃん、膿(海)のために素敵なお祝いをありがとう…エレちゃんの書く素敵な文章力で膿(海)がいつもとてもふわふわでかわいらしいくて大好きです!
隊長が余りにもかっこよすぎて動悸が…そして海翔さんの演出が憎いですね…ごちそうさまでした!
27/MAR/10
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