「…………」
一瞬、呆気に取られ無言になる。後から
本人に聞いた話では、どうやらこの時は
ド派手に登場したかったらしい。雑誌や
テレビ等、メディアを通してでしか見る
機会が少ない外車を運転し、助手席側の
ドアを手動で開け、青年が降りて来たが
随分と自信に満ちた立ち姿にドン引き。
*
「やぁ、雫!」
「――純さん」
俺の恋人に馴れ馴れしく呼び捨てにした
“純”という男。それは、未だかつて雫
の口から聞いた事の無い名前だ。しかも
俺以外に下の名前を普通に呼び合う仲の
男がいるとは、ちくりと胸の奥が痛む。
「この人、誰?」
「この間変わった、新しい担当の人」
担当が変わる事すら知らなかった。取り
残された感に陥る俺の隣では、親しげに
話す雫の姿。目に写り込む二人を横目で
見て眺めてみたが、会話に夢中で俺には
気付かれない。軽い嫉妬から、膨らんだ
寂しさは怒りへと変貌し、尾を引いた。
「良い漫画を描くには、色々と恋愛して
経験豊富にならなきゃ……ね?」
この奴の発言によって、火に大量の油が
注がれてしまうと、太く鋭い一筋の矢は
女々しい俺の心に刺さった。色々と恋愛
って何だよ。俺だけでは駄目だとでも?
遠回しに嫌味を言われた気分だ。それは
雫にとって俺が初めての人で――。故に
余計に見下され、存在すらも否定された
と、頭からそんな考えが抜け出せない。
「くそっ!」
無意味に地面を蹴ってに八つ当たり。髪
をぐしゃぐしゃに掻き乱しても、上手く
言葉には出来ず、このモヤモヤは一向に
消えない。心の隅に、ぽっかりと空いた
大きな穴の傷。簡単には癒えなかった。
*
「今日、雫の家に寄っても良いか?」
次の日の帰り道。首を横では無く、縦に
振らない事は、聞く前に端から分かる。
それでも、頷いて応えてくれる可能性を
彼氏として願わせて欲しいだけなんだ。
「駄目だよ。休日分の漫画も描かなきゃ
いけないし……って、何かあった?」
俺は突然立ち止まって、長い間一緒には
居られない、悔しさをぶつけるかの様に
わざと強く抱きしめる。そして少しだけ
力を緩ませ、今度は指を絡めさせながら
唇を重ね合わせた。しかも、角度を変え
何度も、何度も。このまま時が止まれば
良い。そしたら二度と、あの男に会わず
に済むのに。……不安だから心配する。
だからと言って、雫を信用しない訳では
無い。そんな矛盾が俺に襲い掛かった。
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