王子様になりたかった。王子様になれなかった。彼女は平民を愛した。 | ナノ

 ――嗚呼! 嗚呼! 嗚呼!
 叩きつけるように最後の音を弾いた。それは、音といえないような、酷いものだった。もし週一回ここにレッスンに来る講師がこの演奏を聞いたのならば、発狂したことだろう。
 彼女の俺に対するイメージは、おとぎ話に出てくる王子様のようだった。そうだと、思っていた。
「……すまない」
 滑り落ちるように出た謝罪は誰に向けたものなのか。ピアノ、講師、それとも彼女だろうか。自嘲的に笑い、蓋を閉じる。自分自身のことでさえよく理解できていないのに、彼女の何を解ったつもりでいたのだろう。後悔しても遅かった。
 ――あの日、俺は見てしまった。
 なかなかグラウンドに現れない山菜と倉間を教室まで探しに行ったときだった。
 あの時「俺が探しに行こうか」という霧野の提案に素直に従っていれば、こんな状態にはならなかっただろう。今更、少しだけ期待していたと言えば笑われるだろうか。
 教室の中から聞こえてきた会話に、伸ばした手を止めた。この声は、山菜と倉間だ。聞き耳を立てるつもりはなかった。聞き耳を立てずとも聞こえるほど二人の声は大きかったが。去るべきか待つべきか思案していると、叫ぶような山菜の発言に思考が停止する。考えていたことは全てどこかへ飛んでいった。
「シン様は絶対、私のことを好きにならない」
「はあ? 何言ってんだ」
 俺の気持ちを代弁するように倉間は言った。
「違うの。シン様は分かってない」
「何を?」
「私はファンの一人なの」
「ファン?」
「シン様の格好いいところが好きなだけな子たちと一緒なの」
 大きく目を見開く。――違う、のか? 彼女は練習中グラウンドの周りで声援を送る女性たちと何が違うというのか。
「私知ってるよ、シン様が意外と泣き虫なとこ」
 山菜の言葉は続いた。山菜の口から語られる俺は、王子様と程遠い、弱い人間だった。
「……それでも、私は、シン様が好きなの」
「山菜、」
「好き、なのになあ……」
「バカ」
「倉間君?」
「――俺にしろよ」
 その後のことはよく覚えていない。俺はその場から逃げるように駆け出し、気付いたときには練習は終わっていた。
 ――嗚呼! 嗚呼! 嗚呼!
 俺は見てしまった。彼女の瞳が揺れたのを見てしまった。
 小さく息を吐く。閉じられたピアノに映る顔は見られたものではなかった。瞼を伏せ、じっと考える。間違っていたのだろうか。間違っていたのだろう。昔から特別視されるのは慣れていた。好意や悪意を向けられることも、女性から慕情の念を送られることも。けれど、それは上辺だけのものだとずっと思ってきた。
 しかし、彼女は言った。理想から外れるような神童拓人も好きだと。過去、彼女のように恋情を抱いてくれた女性がいたのかもしれない。だが、気付かなかった。今回も、終わりのその時まで気付けなかった。
「……好きだ」
 もう二度と彼女に言うことはない言葉をそっと呟く。
 山菜茜という女性が好きだった。きっかけは曖昧で、もう忘れてしまったが、彼女からカメラを向けられたときレンズ越しの真剣な表情や、タオルを渡すときの柔らかい微笑みに恋をしていた。それを自覚したとき“神様”であることが、苦しみに変わった。彼女が“神様”を好きであることは、俺がずっと“神様”でいなければいけないことと等しい。“神様”でいたい気持ちと全てを知って欲しい気持ち、矛盾する二つが胸の奥で渦巻いていた。こんなことは初めてだった。
「好きだった、好きだったよ」
 目から零れ落ちる涙を拭うことをせず、泣き続けた。これは、彼女が好きだと言ったものだった。
2012/12/31
王子様になりたかった。王子様になれなかった。彼女は平民を愛した。
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