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『シノちゃんシノちゃん』、そう私を呼ぶ声に振り返ると中年の先輩達が私をちょいちょいと呼んでいた。
『なんですかー?』と行けば、顔を赤くした先輩達の真ん中に座らされ、ボトルを渡された。その目は何かを期待していて。
あぁ、お酌ですね。私、今日のメインじゃないの?と思いつつも、ほろ酔い気分で楽しそうな先輩達を見るのは嫌ではない。普段と違った顔が見られるのは飲み会のいいところだ。『今日だけですからね』とテーブルの真ん中に置いてある氷を引き寄せ、お酒を作ってあげることにした。私のために歓迎会を開いてくれすごく嬉しいので、今日だけのサービスだ。
そんなことを思った私が馬鹿だったのか。
「ちょっと、奥さんに言いつけますよ」
「いいじゃない」
先ほどから先輩の手が腰に回ってくる。
この親父が!と、手を叩き落とすが、欠片も堪えていない。日頃の鬱憤が酒の力で解放されたのか、先輩は随分と無礼講を満喫していた。先輩の性格を考えると、明日死ぬほど後悔することになると思うのに、肝心の本人はその判断ができないらしい。
いくら叩き落としても、不死鳥のごとく復活する手との攻防にいい加減疲れた。正面の先輩は、『いやー、いいなー』と笑い転げている。だめだ、こいつら。
そろそろ逃げるかと腰を上げようとしたその時だった。私にセクハラをかましていた先輩がごっと、鈍い音とともに、机へ真っ直ぐに昏倒した。周りのお皿ががちゃんと飛び、その音に一斉に周りの視線が集まった。
倒れた先輩の頭がつまみのお皿に綺麗に入っている。赤いソースにまみれていびきをかく先輩は大層幸せそうだった。一方、先程まで笑い転げていた正面の先輩は青ざめていて。
「シノ、こちらにいらっしゃい」
その声に驚いて振り向くと、ジャーファル様が私達の後ろにいつの間にか立っていた。口元は弧を描いているのに目は笑っていない。以前、仕事から逃亡を図った王様を中庭で捕縛していた時の顔だ。
「酔っぱらいに優しくする必要なんてないですよ。たとえ立場が上だろうが毅然とした態度で対応しなさい。私が許します」
普段から酔っ払いに苦労しているせいか、ジャーファル様は私に力強く言った。
目が笑っていないジャーファル様に連れてこられたテーブルには、ヴィゴさんやその他ザルな胃袋をお持ちの先輩達がいた。酒豪のメンツに、『確かにここなら平気か』と、私はおとなしく勧められた席に座った。
私は彼らのようなピッチでは飲めないし、そもそも隣の方が飲ましてくれるわけがない。やっと許可を得た、極めてアルコール度数の低い果実酒をちびちび飲みながら、私は周りの話に耳を傾けていた。
奥さんの話や、子供の話、娼館の話に、ごくまれに仕事の話。たまに会話をふられて二三の返事をする。心地よい空間だ。
少しアルコールが回ってきたのか、非常に気分もよく、私は先ほどと同じように先輩達にお酒を作ることにした。この人たちなら酔っぱらうこともないだろうし、セクハラは隣のジャーファル様が止めてくれるはずだ。
水割りの作り方を思い出しながら、私はボトルや氷を自分のところまで引き寄せた。
グラスの八分目まで氷を静かに入れて。ここに座っている先輩達は濃い目が好きらしいので、注ぐお酒は普通の人より少し多く。その後、水を入れてマドラーでかき混ぜ、いいころ合いでマドラーをストップ。中の氷の動きが止まってから、すっとマドラーを引き抜けば水割りの完成。うん、上出来。
「手慣れてるな」
「亡命中、色んな仕事しましたので」
普段お世話になっているのでヴィゴさんにも、とお酒を渡したら初めて褒められた。仕事じゃなく、お酒で褒められるとは。いや、お酒命なヴィゴさんにお酒方面で褒められる方がすごいことか?
そんなことを考えていると、私の台詞を聞いた真向かいの先輩が泣きそうになっていた。やばい、今言う言葉じゃなかった、ミスった。
隣のジャーファル様もつまみを取りわけていた手が止まっている。
先輩は鼻をすすりながら、『苦労したんだねー、今日はおじさんのおごりだ、好きなだけ飲みなさい』と、蒸留酒を水なし氷なしでなみなみと私のグラスに注いだ。
いやいや待って、このおっさん、私を潰す気ですか?
『嫌なことは飲んで忘れるんだよー、さぁ飲みなさい』とお酒を勧めてくれる先輩。さすがに度数が高過ぎです。
あっちはセクハラでこっちはアルハラ。
こちらの席に連れてきてくれた、隣に座るジャーファル様を見ると、私以上にすごく疲れた顔をしていた。お疲れ様です。
結局私に注がれたお酒は、ジャーファル様が無言でヴィゴさんの方へ押しやった。私が作ったお酒をあっという間に飲みきったヴィゴさんは、ためらいもなくそのお酒を取り、口につけ、そしてさらりと爆弾発言をした。
「ちびすけ、お前娼館にいたのか?」
その台詞にその場が水を打ったように静かになった。テーブルを囲む皆の固まりようは先ほどの比ではない。
この人、突っ込むなぁ。
先輩達は青くなっているし、隣のジャーファル様は『嫌な質問には答えなくていいのですよ。』と焦っている。
「ヴィゴ君、聞いちゃダメでしょう!」
「いや、春を売っていたにしては色気から程遠いので」
色気がなくて悪かったですね。
中年の先輩にヴィゴさんはたしなめられているが、少しも悪気を感じてなさそうだ。私はこの人の案外何でも言っちゃうところは好きである。お互い下手な気遣いをせずすごく楽だ。私は焦る先輩達を安心させるように口を開いた。
「下働きは一時期してましたけど、春は売ってないですよ。私、その時ちょうど皮膚が植物にかぶれてしまって、背中に水ぶくれができていたんですよね。怪我の功名です」
その台詞に皆がほっとしていた。むしろ私の方がほっとした。
雰囲気が元にもどったことに安堵しつつ、私はこっそり先ほどの言葉を頭の中で反芻した。
怪我の功名か。
亡命中お金がなくて大変な時に女性である最終手段を使えなかったことは良かったのか、悪かったのか。
あの時お金を得られていたら、シンドリアに辿り着いた亡命仲間はもう少し多かったかもしれない。もしくは、私なんかには娼婦の仕事は耐えられず、シンドリアに来る前にどこかの土地で眠ることになっていたかもしれない。今さら考えても意味のないこととは分かっている。でも、すでに治ったはずの背中が少し熱かった。
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