忘れる




 春歌と、こんな話をしたことがある。
 死ぬことは怖いか、きっかけやなぜそんな話に流れたのかは忘れてしまったけれど、その時翔は春歌にそう問い掛けていた。

「そうですね…」

 彼女は翔の問いに大きな菜の花色の目をひとつ瞬かせ、柔らかく細めた。突然の問い掛けに驚いた様子も動揺した様子も見せなかった。空いた湯のみに茶を注ぎ入れる穏やかな横顔は、死を想ったことのある人間のものだと翔は思った。

「痛いのや、苦しいのは嫌ですが…死ぬこと自体はあまり怖いとは思いません」

 暖かい、春の日だったと思う。淡い陽光と揺れるような風の中で発せられた声はどこまでも透明で、優しかった。

「でもね、翔くん」

 並んで座っていた春歌が、身体を寄せてくる。ことん、と肩に感じる感触は確かな温度と質感を脳に運んで、春歌がここにいるという実感が生まれた。

「やっぱり、死ぬのは怖いよ。…ううん、死んで、わたしがこの世界からいなくなって…忘れられちゃうのが、怖い」

 わがまま、かもしれないけれど、と彼女は小さく笑った。
 死んだ人間との楽しく幸せな思い出だけ抱いて生きていけるならいいけれど、どうしたって失った哀しみを感じなければならない瞬間はある。人は死んだらもう戻ってこられない。どんなに願っても、戻ってはこられない。
 越えることのできないその摂理は、喪失感を増幅させて、哀しみを増大させる。だから、人は忘れる。忘れることで己の心を守ろうとする。それは仕方ないことで、自分の死が相手を哀しませるなら、死んだ人間だって自分を忘れてほしいと思うだろう。
 ぽつりぽつり彼女が語る死の話は、優しく、哀しかった。

「だからね、わがままだって…分かってるんです。『わたしを忘れないで』なんて、言えません。分かってるけど、でも、それでも…忘れられることは、哀しい」

 彼女は社会的な、文化的な死を恐れているのだと翔は気付いた。肉体的な死がもたらす第二の死を、彼女は恐れている。仕方ないと理解して、いや、諦めているけれど、やはり恐ろしいのだろう。
 自分もそうだと、思った。自分が先立ったとして、愛した春歌の中に自分の居場所はあるのだろうか。想い出となった自分が、いつか錆びていってしまうのではないかと思うと、それは堪らなく哀しいことに思えた。愛した人を失うことと同じくらい、愛した人の中から自分が消えることは哀しいことだと思う。

「俺は…絶対、忘れない」

 気付いたときにはそう口にしていた。どこか悲しげな顔をした彼女を慰めたくて出た言葉だったのかもしれないし、自分に言い聞かせるためのものだったのかもしれない。そして、それは懇願でもあった。俺はお前を忘れたりしないから、お前も、俺を忘れないでくれ。そんな、懇願。

「…ありがとう。翔くんは優しいね」

 そう言って見上げてくる春歌の瞳はどこまでも透き通っていたのを覚えている。




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恋する動詞111
48.忘れる(翔春)

thanks/確かに恋だった


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