真冬の出会い




(あ、今日もいる。がんばるなー)
 彼女に対して抱いた最初の感想はそんなものだった。




 深夜といっても差し支えない時間帯、とある街のとある駅前。
 大きな住宅地や某有名高校や大学までバスで数分という立地にあるその駅は、夜も更けたというのに人の喧騒で賑わっていた。会社帰りとおぼしきサラリーマンやOL、友人たちと連れ立って歩く学生たち、そして何よりも夜の駅前を賑わせているのはストリートミュージシャンの歌声だった。
 そこかしこからギターやシンセの音に乗った声が響いてくる。初めて見る人間には異様に取れるであろう。多過ぎると言っても過言ではないからだ。
 それにはひとつ理由がある。今では全国にその名を轟かせる歌手がデビュー前にその声を磨いたとかいう場所がこの駅前で、更に言えば彼がスカウトされたのもここなのだ。明日のスターを夢見る人間が、彼をリスペクトする歌い手たちが集まってくるのも無理のない話であった。
 「歌と夢の駅」。
 いつしかその駅はそう呼ばれるようになった。駅前の現状を好意的に取るか否定的に見るかはまた、別の話だったが。
 
 結論から言えば、嶺二は後者だった。別にストリートミュージシャン自体を否定する気はない。彼らが夢に向かって歌う姿はカッコイイと思うし、音楽自体が嫌いなわけでもない。むしろ音楽は好きだった。一家言あると言ってもいい。
 だが、好きだからこそ彼らを肯定的に見ることができなかった。さっき「夢に向かって歌う姿はカッコイイ」と表現したが、嶺二から見て「夢に向かって歌って」いる人間は少なかった。どちらかと言えば、「そうするのがカッコイイから」歌っているようにしか聞こえない。その辺りを歩く酔っ払いと何も変わらないように思える。
 自分に酔うばかりの人間に果たして良い歌は歌えるだろうか。答えは否だと嶺二は思っている。専門家でもないしがない大学院生のくせに何をと笑われるかもしれないが、少なくとも嶺二の心を揺さぶる音楽をこの駅前で耳にしたことはなかった。
 路上で歌う彼らを取り巻くファンたちが通行の邪魔だとか、ヘッドホンで聴くお気に入りの音楽が聞き取りづらいとか、まあ、そういう理由もある。なので、駅ふたつ分離れたバイト先から戻ってくるとき、嶺二が真っ先にするのは音楽プレイヤーの音量を上げることだった。




 その日も同じようにバイトを終え、アパートへ帰るために嶺二は駅前に立った。目の前に広がるのは見慣れた光景である。今日はまたずいぶんと盛り上がってるなぁ、寒いのによくやるねぇ、とコンコースのすぐそばで歌う男性とその取り巻きを横目に足を速めた。
 ギターを掻き鳴らし叫ぶ姿を視界の端に留めつつ、白い駅舎の壁を逆方向へ進む。その先には駐輪場があって、嶺二はいつもそこに愛車を停めていた。それに乗ってアパートまで帰るためである。
 駐輪場へ向かう駅の西側は東側に比べて暗いように感じる。一番は東側にあるファッションビルから届く明かりが理由だろう。賑やかで眩しい東側とは異なり、西側は比較的静かであった。それほど離れていないというのに、先程の歌声が遠くに聞こえる。
 今年一とかいう寒さに身をひとつ震わせつつ、もう音量を戻しても良いかと思ったとき、不意に視界をさらわれた。
(あ……あの子だ)
 そこに立っていたのは、小柄な少女だった。こんな時間に外にいるのだから、少女と呼ぶのは相応しくないかもしれない。だが、俯いて電子ピアノに向かう横顔は少女のものに相違なかった。
 駅舎の壁に半ば溶け込むように彼女はピアノに向かって立っている。東側の彼と違い、ひどく遠慮がちに鍵盤へ指を走らせているように見えた。緊張がそうさせているのか、人前に立つことを苦手としているからなのかはわからないが、目立つことを避けているようなそんな雰囲気だった。
 彼女は白いファーの付いたコードに身を包み、温かそうな帽子と耳当て、マフラーを身に着けていた。目深に被った帽子とマフラー、そして顔を俯かせているせいで表情どころか顔の造りすらわからない。だから唯一見えている髪の色と、何も纏わないふたつの手だけが彼女の身体の特徴のすべてだった。
(この子、今日も来たんだ)
 そんなことを考えながら彼女の前を通り過ぎる。ちらりと横目で見た彼女は、嶺二が初めて彼女の存在に気づいた時と同じ調子でそこにいた。晩秋を迎えた二ヶ月程前の夜と同じように、ただひたすらピアノへ指を滑らせる。
 どうやら歌も歌っているらしいと気づいたのはつい先日のことだ。口許が見えないため、最初はただピアノの演奏をしているだけの女の子だと勘違いしていた。
(毎日毎日、ご苦労様だねぇ)
 爆音にも近いヘッドホンからの音に掻き消される彼女の歌声。もっと早くにその透明な歌声を聴いていれば、と。数週間後に後悔することになるのだが、その時の嶺二は彼女の前を通り過ぎると一刻も早く帰宅することに心を奪われていったのである。プレイヤーが次の曲を用意するその隙間に届いた微かなピアノの音にも彼が気を留めることはなかった。




 それは偶然でもあったし、運命でもあった。嶺二は運命論者ではなかったけれど、彼女という無二の存在に気づかせてくれたことを運命と呼ぶのだとしたら、それに最上級の感謝を述べたいくらいのことは考えている。
 七海春歌という少女と彼女が作り出す歌と出会えたこと、奇跡のような、いや奇跡そのものである歌声に気づけたこと。それは今までの人生の中で最も幸せな出来事だと胸を張って言える。これからもそれを超す出来事はそうそうないだろう。
 
 その日、嶺二はバイト帰りの電車の中でひとつため息を吐いた。一日を思い返して今日は散々だったと不運を嘆いていたためである。
 目覚ましが電池切れでアラームが鳴らず、一限に遅刻してたまたま虫の居所の悪かったらしい教授に大目玉を食い、先日確かに提出したはずのレポートが学生課の手違いで教授に届いておらずあわや留年の危機に遭い、贔屓にしていた食堂のメニューが材料代の高騰で消え、バイト先で皿を割り、マフラーを盗まれ、そして、音楽プレイヤーの充電が、切れた。
「……ほんと、最悪だよ……」
 一定のリズムを刻みながら進んでいく電車の中、いつも以上に疲れた様子でドアにもたれ掛かるその姿は大学生とは思えぬほど疲れたものである。ちらちらと怪訝そうにこちらを見てくるOLさん二人の視線を感じながら、なんだか泣きたくなった。
 悪いことが起こるのは仕方ない。でも、一日に固まらずに散ってほしい。深いため息を吐きながら、沈黙を保つプレイヤーをジャケットのポケットへ突っ込んだ。
 
 悪いことというものは際限なく連なるものなのだろうか。思わず天を仰いで叫びたくなる。彼が精神的に重たい身体をどうにか引きずって立った駅前では、ライブの真っ最中だった。もちろん、名もなきストリートミュージシャンのそれである。
 なかなかに盛況のようだったが、荒んだ嶺二にその歌い手の声は雑音にしか聞こえなかった。普段は勝手にやってたらいい、くらいにしか思わないのに、今日ははっきりうるさいと感じる。彼が歌う愛もひどく薄っぺらく聞こえた。
 これ以上聞いていたら精神衛生上良くない。そう判断し、駐輪場へと足を速めた。こんな日はさっさと風呂に入って寝るに限る。
 いつもと同じように、西側を進む。吐く息は白い。そういえば今日はこの冬一番の冷え込みになるとかならないとか朝のニュースで言っていたことを思い出した。気温を意識した途端、ぶるりと身体が震える。
 
 その瞬間だった。彼女の姿を見つけたのは。
 
 最初は、ああ、またこの子か、そう感じただけだった。電子ピアノに向かって俯き、指を走らせる。顔は見えない。いつもと同じだった。
 だが、いつもと違うこともあった。その日、嶺二の耳にヘッドホンはなかった。外界の音と直接結び付いたその耳にピアノの音が届く。構わずにいつもと同じように彼女の前を通り過ぎようと足を速める。ちょうどすれ違おうという時。小さな呼吸の気配がして、彼女が口を開いた。そして紡がれたのは。



 ――どこまでも透明で、優しい穏やかな、歌だった。



 それは誰の邪魔もせず、世界を騒がせることもない、どこまでも優しい歌声だった。けれど彼女の確かな意志も感じる。ただ優しいだけではない、見守るひとの柔らかな眼差しのような色をしていた。自らの想いを押し付けるのではなく、逆にこちらを抱きとめてくれるかのようだった。
 彼女が紡ぐのは、応援歌だった。がんばってください、と突き放す応援ではない。一緒にがんばりましょう、と隣に立つことを約束する。そういう歌だった。
 気づいた時、嶺二は彼女の前に立っていた。彼女の歌詞に共感したから、彼女の歌声をもっと聴いていたくなったから、何か感じるところがあったから。今思えばそんな理由があったから足を止めたのかもしれない。
 だが、その時は、ただ、惹かれた。頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。彼女の歌を聴くことが全てだった。その日にあった悪いことも全て彼方へ吹き飛んだ。荒んだ心が白く染め上げられる。
 そして、彼女の細くたおやかな指が最後の一音を奏で終わった瞬間、嶺二は拍手を送った。それまでの人生で一番心を込めて、手を打った。
「――ありがとう、ございました」
 言葉を失い、ただただ手を打つばかりの嶺二に彼女はぺこりと頭を下げる。
「少しでも何かを感じていただけたなら、これほど嬉しいことはありません」
「あ……ええと、はい」
 どうしよう、何を言えばいいかわからない。伝えたい言葉が溢れて文にならない。こんなことは初めてだった。
 ぼくってこんな人間だったっけ、もっと上手く喋れる人間じゃなかったっけと焦る嶺二の前で、彼女が顔を上げた。初めて見た彼女の顔は、これまた嶺二の言葉を奪うに十分な働きをした。何の含みも他意もなく、素直にかわいいと思った。
「また、聴いてもらえると嬉しいです」
「! は、はいっ!是非に!」
 思わず姿勢を正した嶺二に、彼女は柔らかく笑った。今年一番の冷え込みの中、その笑顔に何故か嶺二は春を感じた。




「それがぼくと春歌ちゃんの出会いだったんだよねぇ」
「へー、そうなんだ」
「ちょっと!なんか軽いよおとやん!トッキーに至っては完全無視だし!ヒドいよ二人とも!もっと真面目に聴いてっ!」
「では聞きますが、その話を聴かせてあなたは私たちに何を言わせたいんですか?『デビュー前の春歌を知っているなんて羨ましいです』とでも言えば良いんですか?自慢ですか?羨ましがられたいんですか?なんなんですか?」
「え、ちょ、怖いトッキー怖いすごく怖い」
「これだから古参の自称春歌ファン一号気取りは……」
「……とりあえずトッキーがものすごく悔しがってるってことはよーくわかったよ……」
「あーでも、俺もトキヤの気持ちわかるなぁ。春歌は今ももちろんかわいいけど、デビュー前の春歌もかわいかったんだろうね」
「そうなんだよ!!今の春歌ちゃんを満開の桜に喩えるなら、あの頃の春歌ちゃんはつぼみっていうか咲き初めっていうか、この手で咲かせてあげたくなるっていうか」
「わー、れいちゃん、発言が完全にオヤジ」
「世間的にはその範囲内の歳ですからね。仕方ありません」
「そっか、そうだね」
「ちょっと!!ぼくと君たちそこまで歳離れてないよね!?何この扱い!?」
「春歌ファンクラブの副会長がこのていたらくとは情けない、と残念に思っているだけのことです。お気になさらず」
「もうやだこの後輩たち……」





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