終幕の唄、はじまりの歌 2




 夜の街を駆ける。道を行く人々の隙間を抜い、あの店へ。通い慣れた店までの道がひどく遠く感じた。道を塞ぐ飲み屋帰りとおぼしきサラリーマンたちを一喝で退かせ、走る。
 次の角を曲がれば、shinyが見える。数分前に受信したあのメールの真実が、そこでわかるはず。握りしめた携帯電話がぎしりと悲鳴を上げた。


「……ッ!」
「ランラン……」
「遅かったね」
 「closed」の札が掲げられた扉を乱暴に開く。セピア色の照明に沈む店内に飛び込むと、そこには全員が揃っていた。嶺二に藍、カミュ。そしてステージの前に龍也、カウンター席では林檎がうなだれている。戸惑い、悲哀に怒り、彼らの表情は様々であったが、起こってしまった事件が事実であると語っていた。
 春歌がさらわれた。蘭丸を、嶺二たちを走らせた一通のメール。時折、林檎が自分たちを店に来させるために打つ冗談めいたものとは完全に違うと気づいた時からざわついていた胸が、怒りに染まる。林檎の冗談であればいいと願っていた余裕は彼らの表情をみた瞬間に四散した。
「どういう、ことなんだ…!」
 低く唸るように絞り出した声に反応したのは、林檎だった。柔らかな色の髪をびくりと揺らして、顔を上げる。血の気の失せた白い顔で中空を見つめ、彼は掠れた声で話し始めた。春歌が連れさらわれたのは、自分のせいだと。
「閉店した、すぐ後のことだった。あの子もいつものように片付けを手伝ってくれてて……外の看板の電気を、落としてきてって、俺が頼んだんだ……店の前だし、ほんのちょっとの時間だから、大丈夫だろうって……」
「――七海は、その時にさらわれた。悲鳴も物音もしなかったところを見ると、おそらくは薬か何かで気絶させられたんだろう」
「余りにも戻ってくるのが遅いって気づいたリンゴが見に行ったら、これがあったんだって」
 テーブル席でノートパソコンを睨みつけていた藍が、カードを投げて寄越した。飾り気のない白いカードには、こうある。七海春歌は預かった。返してほしいなら――
「……『場所はわかってるんだろう?なぁ、黒崎蘭丸』だと……」
「どうやら、春歌をさらったのは貴様の『お友達』のようだな、黒崎」
 腕を組み、壁に身を預けていたカミュがそう言った。アイスブルーの目が蘭丸を射る。月宮は自分のせいだと言っているが、実際は貴様のせいだとその目は突き付けてきた。嶺二と龍也も、戸惑いに支配された視線を投げ掛けていた。
 おそらく、どういうことか当事者である蘭丸に説明してほしいと思っているのだろう。だが、誰よりも説明を求めているのは蘭丸本人だ。どうして、こんなことに。あいつらがなぜ、春歌を知っているんだ。渦巻いていたものが脳に到達して、蘭丸の思考を白濁させる。
 光を失った店内に沈黙が、落ちた。



(――後悔はいつもアナタの隣で大きな口を開けて待っている)



 不意に、あの青年の言葉が思い出された。数ヶ月前、蘭丸の前に現れた不思議な青年。深い緑の目ですべてを見透かしてしまいそうな、そんな青年だった。
 彼は言った。なぜ求めることを諦めるのかと。蘭丸は思った。春歌を守るためだと。彼はこうも問うた。なぜ求められることを恐れるのかと。蘭丸はこう考えた。己の周りに存在するものが、彼女を傷つける可能性を恐れるからだと。だから彼女から離れたのだと。
 だが、蘭丸の考えは甘かった。春歌との繋がりを敵に悟らせまいと行動していたつもりだった。自分が春歌を想う心など存在しないと、思わせていたはずだった。春歌から距離を取ることで、春歌を守ることができると、思っていた。
 離れるのが遅かったのだ。徹底できてもいなかった。春歌を想うが故の行動は、すべて裏目に出ていた。春歌との繋がりは悟られ、結局、春歌を巻き込んでしまった。
 こんなことになるとわかっていれば。最初から近くで守ってやればよかった。遠ざけて守ったつもりにならずに、側にいてやればよかった。
 激しい後悔が蘭丸を襲う。もう会えないと伝えたあの日、悲しげに笑った春歌の顔が、過ぎった。
「おれの……せい、で。春歌は……!」
 ぐしゃりとカードを握り潰す。敵への怒りと己への怒りが、そうさせた。

「――ランラン、あのさ」
 静寂の中で嶺二がつぶやいた。感情を感じさせない静かな声だった。
「これからどうする気?まさか、まさか一人で乗り込もうなんて考えちゃいないよね?」
「……だったら、なんだ」
「本気で一人で行くって考えてるなら、ぼくはきみを大馬鹿だと罵る。ランラン確かに強いけど、一人で行ったらさすがに死んじゃうんじゃない?」
 嶺二は藍の操作するパソコンに目をやりながら、淡々と言った。ずいぶん大きな組織と「お友達」なんだねと皮肉混じりに言う。藍が同意するようにため息を吐いた。
「……自分のやったことは、自分で落し前をつける」
「もー、察してよ!そんなことされたら、春歌ちゃんが哀しむって言ってるんだって!」
「貴様が死のうが死ぬまいが、我々には関係ないがな」
「そうそう。春歌が泣くってわかってて、はいそうですか一人でどうぞ、なんて言えると思ってるの?」
 向けられた目はどれも痛いくらいに真剣だった。店の奥で沈黙を貫く龍也も、似た目で蘭丸を射抜く。
「あー!もしかしてランラン、ぼくたちが足手まといになるとか思ってる!?」
「レイジはそうだとしても、ボクは足手まといにならないけど」
「美風の言う通りだ。寿はまだしも、俺が貴様に遅れを取ることはない」
「ちょ、なんか二人ともひどい!」
「レイジ、うるさい。さっさと作戦立てるよ。大事なのは春歌なんだから」
「この程度の規模ならば、我が組織を動かすまでもないな」
「あ!はいはーい!ぼく『本日の救出係』ね!春歌ちゃんを華麗に助けちゃうよ〜?」
「おい、てめぇら…!」
「異論も反論も受け付けないよ」
 春歌の救出計画を立てていく三つの目が、再び蘭丸に向けられた。その目は言う。春歌をこんな目に合わせた奴らを許せない。自分の手で殴ってやらなければ気が済まない。普段と変わらぬ雰囲気の中で、瞳にぎらぎらと怒りを宿し、彼らは怒り狂っていた。
 以前、たった一人で敵対する組織から春歌を奪い返そうとした嶺二には言われたくないと、蘭丸は言うつもりだった。秘密裏に春歌を狙う悪しきものを葬ってしまうカミュにも、藍にも。だが、蘭丸が口を開くよりも早く、嶺二は明るくこう言った。
「ランランだけにカッコイイところは持ってかせないよ?ただでさえ、ぼくたちランランの後手後手に回ってるんだから!春歌ちゃんのナイトはランランだけじゃないって、春歌ちゃんに証明しておかないとね!」




 街から少し離れた、工場跡地。そこに春歌がいる。残されたメッセージから導き出した彼らはすぐさま行動を開始した。
 龍也が手配したワゴンに飛び乗り、車内で工場の見取り図を広げる。
「ここは何年も前に廃工場になってる建物だ。入口はひとつ。こっちと、このドアは中から塞がれてて入れねぇ」
 見取り図を指し示す蘭丸に、嶺二がなるほどと頷いた。
「三ヶ所同時突破は無理か……鍵が掛かってるだけならぼくの華麗なテクを披露できたんだけどなー。となると……」
「……守るに易く、攻めるに難い。そんな造りの工場だね」
「だからここを根城にしているということだろう。春歌が囚われていると考えられるのはどこだ?」
「おそらく、この事務所だ。一番奥の、ここ」
 作業場の奥、隅の小さな部屋、それがこの工場が稼動していたとき事務所として使われていた部屋だった。位置を確認した三人は三様の反応を見せる。藍は微かに眉を顰め、カミュは冷静さを失わない。そして嶺二は、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「お姫様を助けるには野郎共を蹴散らさなきゃいけないってこと?わー野蛮ー」
「よく言う。そんな目をして、貴様が一番暴れる気満々ではないか」
「うっかりやっちゃうとか、やめてよ?レイジはそれをやりそうで怖い」
「信用ないなー!しないよそんなこと!……前に春歌ちゃんと約束したし」
「……お喋りはここまでだ。着くぞ」
 騒いでいた嶺二も、呆れ顔の藍も、カミュも。蘭丸の言葉にフロントガラスへと目を向けた。闇の中、鎮座するのは灰色の巨大な建物。
(――春歌)
 先月、もう二度と見ることはないだろうと思っていた奴らの根城を睨みつけ、蘭丸は春歌を思った。
 必ず、助け出す。自分が春歌から離れなければこんなことには、という後悔は捨てることにした。後悔に引きずられれば、動きは確実に鈍くなる。そうすれば、待つのは最悪の未来かもしれないのだ。後悔に足を取られるわけにはいかない。
(もう少しだけ……辛抱してくれ…!)
 あの青年が警告してくれたように。後悔を重ねないために。春歌を無事に救い出してみせる。
 そしてワゴンは工場の敷地内へ滑り込んだ。




 熱烈な歓迎ぶり、と表現したのは嶺二だった。
 工場内に繋がる唯一の扉を開けば、そこには目算で百人余りの男たちが待ち構えていた。蘭丸たちの姿を見止めた彼らは、恨みの篭った目で睨みつけてくる。工場の高い位置に渡された作業用の橋から、司令塔とおぼしき男が叫んだ。
「黒崎ィ!よく来たなァ!」
「…………」
「女一人のために死にに来るたァ、テメェもヤキが回ったんじゃねぇかァ?」
「……春歌はどこだ」
「フン、返してやるよォ!テメェが死んだらなァ!」
 その叫びに、建物が揺れた。男たちが口々に蘭丸を罵ったからだ。
「でもまぁ、カワイイ子だったしなァ、ちょーっと楽しませてもらってから、にするかァ」
「――!」
「せっかくお越しいただいたお姫様だしなァ、かわいがってやるぜェ?」
「……ざ、けんな」
「あァ?」
「ふざけんな!!てめぇらみてぇなクズ共に……春歌は汚させねぇ!!」
 蘭丸の怒号に、再び建物に振動が走った。声は上げなかったが、嶺二とカミュが纏う怒りが収束し、爆発した瞬間。
「やれ!黒崎の首を取れェ!」
 戦いは始まった。

「よくもまぁ、これだけ集めたねぇ」
「ふん、雑魚はどれだけ集まっても雑魚でしかない」
「ま、あね!おっと危ない!」
 ひらりと嶺二は拳を交わした。彼の背中に迫っていた男をカミュが捩伏せ、捻り上げる。ばきりと嫌な音を立て、男は悲鳴を上げた。
「ミューちゃんこわーい!」
「先程貴様も似たようなことをしていただろう」
「そうだっけ?……っと!」
「寿、いい加減真面目にやれ!」
「やっ、てる、よっ!」
 身軽な嶺二は、工場内の柱や散在する作業台、垂れ下がる鎖を利用して敵を翻弄していく。
 右手から角材片手に襲い掛かってきた男を軽くかわし、背中に一撃を食らわせる。次いで正面から向かってくる男の攻撃をいなし、脇腹へ遠慮のない拳を叩き込んだ。続けて後方から来た男を屈んで脚を払い転倒させ、先程別の男から奪った角材をその背中へ。
「ぐわぁあああッ!」
「わー、センスない叫び声ー」
「寿、退け!」
 嶺二がその場に屈む。虚をつかれた敵が驚きに目を丸くした瞬間、カミュの正面からの蹴りが炸裂した。その勢いを利用し、片手を軸にくるりと回転すると、自らの背後にいた男が悲鳴を上げ、倒れ伏す。回転と共に振り上げた脚が脳天を直撃したのだ。
「お見事!しっかしなかなか減らないねぇ!」
「ちっ……美風はまだか!」
 嶺二が右から来た男を、カミュが左から来た男をそれぞれ迎えうつべく構えた瞬間、工場の一角で爆発音と悲鳴が上がった。それを聞いた二人はちらりと視線を交わし、にやりと笑い合う。藍の準備が完了し、攻勢に出たのだろう。立て続けに起こる爆発に、嶺二が声を上げる。アイアイの攻撃は相変わらず派手だねぇ!と。
「でもこれで少しは楽できるかな!」
「ふん、春歌のための戦いで楽をしようとはな」
「ぼくは、あくまで華麗に!が信条だからね〜ぼろぼろの汚いカッコじゃ春歌ちゃんの前に立てないっしょ!」
「成程、一理ある」
「でもちょーっと数が多いかなー!ひとりで行っちゃったランランやられてないよね?」
「知らん。他人の心配より自分の心配をしろ。――来るぞ!」




 埒が明かない。
 向かってきた男の頭を掴んで壁に叩き付け、走ってくる敵の方へ押し出す。バランスを崩したところへ蹴りを見舞えば、縺れ合ったまま階段を転がり落ちていった。だが、また新たな敵が得物を手に上がってくる。どれだけ沸いてきやがるんだと舌打ちを放った。

 蘭丸がいたのは事務所へ続く道の途中だった。先程、司令塔らしき男がいた高所の橋の上で、彼は戦っている。
 春歌がいるであろう事務所に近づいては、いる。だが、追ってくる敵を捌くのに時間を取られ、その距離は縮まらない。焦りと苛立ちに蘭丸は唇を噛み締めた。
(あの野郎がいねぇ……)
 攻撃と攻勢の合間に目を走らせる。だが、捉えるのはすべて下っ端とおぼしき男たちのみ。にたりと下卑た目で春歌を辱めると口にした男の姿はなかった。
(まさか……春歌のところか…!?)
 怒りが増幅する。駆け出した足はしかし、男たちによって止められた。囲まれている。
「ちっ……」
 こんなことをしている場合ではないのに。早く、早く春歌の元へ。剥がれ落ちている天井の向こう、差し込む月の光に照らされる。それはひどく眩しく感じられた。
「黒崎……やっと追い詰めたぜ……」
 前方、後方。双方に展開した敵がじりじりと距離を詰めてくる。目算で十ずつくらいはいるだろうか。どう切り抜ける、どうかわす。額を冷たい汗が滑っていく。
「くたばれやぁああ!」
「――!」
 男たちが一斉に駆ける。迎えうたねば、と蘭丸が身構えた時、「それ」は降ってきた。
「なんだ!?」
「上から降ってきやがった!」
 動揺が敵に走る。だが正直、蘭丸も驚愕していた。人が上から降ってきたことも、降ってきたのが、龍也だったことも。そのどちらもが全くの予想外だったからだ。
「日向さん…?」
「よお、遅くなっちまって悪かったな」
「日向龍也だと!?」
 かなり高い位置から降ってきたにも関わらず、龍也はけろりと立ち上がり、笑う余裕さえ見せた。向かってきていた男たちがぴたりと動きを止める。裏世界で伝説と呼ばれる龍也の登場に怯えているようであった。
「あいつの準備が整うのを待ってたらこんな時間になっちまった」
 そう言って龍也が下を指す。そこには、一人の小柄な青年がいた。ナイフを手に駆ける姿は、ひどく優美だ。まるで、舞姫のように、彼は工場を駆ける。だが、それはまごうことなく、アサシンの動きであった。彼が駆けた軌跡に次々と男たちが倒れていく。
「月宮!?」
「なぜあいつがここに!」
 男の一人があいつは三年前に死んだはずじゃ、と叫ぶ。その声に彼はこちらを見上げ、凄絶な笑みを浮かべた。味方であるこちらですら冷たいものを感じるその笑みに、彼の怒りのすべてが込められていた。
「さて、黒崎」
「……はい」
「後ろは俺に任せろ。お前は前だけ見て、進め。春歌を必ず取り戻せ」
「はい!」
「行くぜ!」




 どうして、ちゃんと言えなかったのだろう。わたしが蘭丸さんと関係があると知られれば、危険なのは蘭丸さんなのに。彼の敵に囚われないことがわたしにできる唯一のことだったのに。どうして、はっきり「知らない」と言えなかったのだろう。

 どうして、蘭丸さんの名前を出されたとき、動揺してしまったのだろう。
 それは――


 目が覚める。そこは見慣れた自分の部屋でも、shinyでもなかった。埃のにおいのする真っ暗な部屋だった。ああ、わたしは捕まってしまったんだと、縛られた腕と足の感触から思い出した。
 春歌はソファの上に寝かされていた。なんとか身を起こす。部屋の中には春歌以外の人間はいなかったが、部屋の外はひどく騒がしかった。怒号と悲鳴、爆発音。誰かが戦っている。否、きっと彼らだと思った。
 来てくれたのだと思った瞬間、春歌はどうしようもなく泣きたくなった。これで何度目だろう。彼らと敵対する組織に捕われたのは。その度、彼らは迎えに来てくれた。春歌を見つけて、ほっと表情を緩めて、無事でよかったと笑ってくれた。春歌のためにひどい怪我を負って、それでも笑ってくれたのだ。
 自分は彼らの足枷になるということを、春歌は理解していたつもりだった。彼らはとても強くて賢い人達だから、本人を狙うよりも周りの人間を狙う方が簡単なのだと、誰かが言っていた。その人間が彼らにとって大事であればあるほど良い。絶望に歪んだあいつの顔を笑ってやりたいと、その男は言った。結局、彼がその望みを叶えることはなかったけれど。
 彼らに大切にされている。そのこともよく理解していた。春歌も彼らのことが大切だった。街をさ迷い、事件に巻き込まれた春歌を助けてくれたひとたち。春歌に新しい居場所と夢をくれたひとたち。笑顔を、くれたひとたち。
 大切に思うから、迷惑をかけまいと気をつけているつもりだった。自分にできることは少ないから、せめて、彼らの枷になることだけは避けたいと思っていた。もう二度と会わないと言われたときも、哀しかったけれど、仕方ないと思えた。

 ――こんばんは、七海春歌さん。
 ――あなたは黒崎蘭丸を知っていますね?

 そう問われて、知りませんと応えるべきだとわかっていて。すぐ店内へ駆け込むべきだともわかっていて。それでも、春歌は応えることも、動くこともできなかった。頭が真っ白になった。会いたいのに、会えないひと。もう会わないと言われたとき、特別に大切だと、気づいてしまったひと。
 心の動揺、その一瞬の隙をつかれ、春歌は捕われの身の上となった。

「蘭丸さん……」
 ぽつり、こぼれる。掠れた声が紡いだ名前は闇に消え、聞く者はなかった。
 はずだった。



「――泣かないで、マイプリンセス」



 弾かれたように顔を上げる。誰もいなかったはずの室内に、青年は立っていた。いつからそこにいたのだろう。ドアを開ける音はしなかったはずなのに。このひとは、誰なのだろう。様々な疑問が浮かぶ。
 その疑問に答えるかのように、青年は穏やかに笑った。
「ワタシはアナタだけの魔法使いです」
「えっ……」
「大丈夫、ワタシは敵ではありません」
 そう言って近づいてくる彼に、春歌は身を固くした。だが、その手は予想に反して春歌の拘束を解き、春歌を自由の身にする。
 そしてソファの下に跪くと、呆然とする春歌へ恭しく礼を取った。
「遅くなってしまって申し訳ありません。けれど、もう安心です。アナタの騎士がもうすぐアナタを救いにやってきます」
「え、えと……?」
「黒崎、蘭丸。彼はとても強く優しいひとですね。アナタが心を寄せるのもわかります」
「!」
 なぜそれを知っているの。再び身を固くした春歌に、彼は続ける。
「マイプリンセス。この状況はアナタのせいではありません。まして、彼のせいでもない。すべて悪いのはあいつらです」
「…………」
「だから、遠慮をすることはないのです。会いたい、一緒にいたいと、願っても良いのです」
「で、も……」
「大切なひとと一緒にいることで、ひとは強くなれます。その手で守ることもできます。遠くにいてはできないことです」
 違いますか?彼は微笑みながら春歌に言った。目をそらすことができない。
「求め、求められることで生まれる絆。これほど強いものはありません。信じて、春歌」
 そう言うと、彼は春歌の手を取った。何事かを囁きながら、優雅な仕種で春歌を立たせる。すると、縛られていた腕も足も、痛みが引いた。
「彼は強いひとですが、弱いひとでもあります。仕方がないのでアナタがそばにいてあげてください」
「……いいんでしょうか。わたしは、何もできなくて……」
「大丈夫。アナタがアナタであること、アナタが彼を求めること、アナタが笑うこと、それが何よりも大切なこと。それで良いのです」
「は、い……」
「どうか、幸せになって。マイプリンセス」
 そうして彼は目を細める。その表情を見たとき、春歌は何かを思い出しかけた。どこかで、この表情を見たことがある。あれは、確か――
 不意に。部屋のすぐ外に気配がした。はっとそちらに目をやる。怒号と悲鳴が響き、やがて沈黙した。
「春歌!」
 そして、その人が飛び込んできたとき。そこにはもう、あの青年の姿はなかった。


_ _ _ _ _


 To be continued.



Top



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -