終幕の唄、はじまりの歌 1




 なぜアナタは求めることを諦めるのですか?
 なぜアナタは求められることを恐れるのですか?

 後悔はいつもアナタの隣で大きな口を開けて待っている。アナタが落ちてくることを。
 泣きながらアナタを呼ぶ彼女を見上げなければならないという結果を迎えたとしても、それでも、後悔はないと言えますか?

 彼女を泣かせてしまった自分を、求めていれば避けられたかもしれない結果を、アナタは本当に許せるのですか?




 ざわめきと濃い闇の気配に包まれる夜の淵。ネオンと街灯、女たちが纏うきらびやかな衣裳が人々を誘い寄せ、暗がりへと誘う。闇を恐れる人々が惹かれるソレが囮とも知らず、彼らは恐れていたはずの闇へ自ら飛び込んでしまうのだ。気づいた時には、もう遅い。否、気づくことなどないのだろう。それだけ巧妙に、そして静かに。飲み干した酒が体内に染み渡るように闇は彼らを侵してゆくからだ。
 そうして今日も街は人々を呑んでゆく。空に浮かぶ三日月のような目で、嗤いながら。


 彼は街を歩いていた。
 そこは狭く汚い裏通りだった。車の行き来の激しい大通りをひとつ、ふたつ入っただけだというのに、そこにはもう表の世界の光は届かない。どこまでも連なる低い建物が通りに迫り出すように空間を覆い、ひどく息苦しい印象を与えている。
 奥へ奥へと人を誘う、湾曲した道沿いに並ぶのは、飲食店だ。会社帰りのサラリーマンたちがその日の疲れを癒すために通うものとは趣を異にするそれらは、ほとんどが会員制を取っている。それも、クリーンな仕事の人間向けではない。所謂「そういう連中」ご用達の店だった。
 営業時間内だというのに、どの店もひっそりと沈黙している。漏れてくるはずの光も存在しない。店の名を掲げる看板は闇に沈み、通りを行く人間も彼以外にない。ぽつりと灯った街灯の淡い黄色が、唯一の光だった。



「――黒崎、蘭丸」



 突如世界に発現した声に、蘭丸は足を止めた。彼が目的としていた店は更に闇の深まったところにある。時間もそこまで余裕があるわけではない。足を止める暇などないはずなのに、気づいた時には足が止まっていた。その声にはそうせざるを得ない力があった。
 蘭丸が歩いていたのとは道を挟んで反対側の、店と店の小さな隙間に、彼は立っていた。彼のために誂えたかのようにその空隙は存在していた。等身大の絵画を置いたかの如くぴたりと、逆にいえばこの界隈にはひどく不釣り合いな空気を纏って、彼はそこに「発生」した。
「……なぜ、おれの名を知っている」
 蘭丸はそう問わざるを得なかった。薄く笑みを浮かべてこちらを見てくる彼は、蘭丸の記憶にはない人間だったからだ。
 エメラルドを思わせる瞳、黒と呼ぶには明るい髪の色、日に焼けた肌。そしてすらりと伸びた長い手足は、猫が見せる軽やかさを想起させた。高貴な猫。それが蘭丸の抱いた印象だった。
「アナタはとても、強い人間ですね」
 蘭丸の問いに答えず、青年はそう言った。答える気はないということなのだろう。黙殺して進むべきかと思ったが、縫い留められたかのように足は動かなかった。
「けれど、同時にひどく弱いヒトでもあります」
「……」
「求められていることを、アナタは知っているはずです。けれど、アナタは求めようとはしない。求めることを諦めているから」
 彼の言葉は淀みなかった。予め用意された台詞を読み上げていると言われても否定しなかっただろう。あくまで、穏やかに。叱責するでもなく、言い聞かせるでもなく、ただ、淡々と事実を伝えようと、彼の口は動いていた。
 それなのに、蘭丸はざわりと鳴った心臓を意識した。青年から敵意を感じたわけではない。得体の知れない男に疑念を感じたわけでもない。わかったからだ。

 この男が、何を言わんとしているかを。春歌とのことを言おうと、しているのだと。

「なぜアナタは求めることを諦めるのですか?」
 諦めたわけじゃない。蘭丸はそう言いたかった。
 春歌は街で唯一の光だ。すべてが淀み腐りきったこの街に本来あるべきでない温かな、本物の光。その笑顔が失われることがないように、蘭丸は生きていると言ってもいい。あの日、自分を救い上げてくれた春歌を守りたかった。
 だから、蘭丸は春歌から離れた。自分は街の連中から命を狙われる存在だから。自分に係わっていることを知られれば、春歌は狙われるに違いないのだ。事実、春歌は何度か誘拐されている。命を狙われたこともあった。そいつらと関係していたのは蘭丸ではなく嶺二やカミュだったが、いつ蘭丸が敵対する奴らが春歌に目をつけるか分からない。
 自分のせいで春歌が傷ついたら?危険な目にあったら?自分が愛する人間が、自分のせいで命を落としたら?そんなのは耐えられない。
「なぜアナタは求められることを恐れるのですか?」
 青年の声が、わずかに冷えた。表情は変わらない。
「後悔はいつもアナタの隣で大きな口を開けて待っている。アナタが落ちてくることを。泣きながらアナタを呼ぶ彼女を見上げなければならないという結果を迎えたとしても、それでも、後悔はないと言えますか?」
「――その哀しみは一時のもんだ。きっと、すぐに忘れられる。そのあと、春歌が、幸せになれるなら」
「アナタは本当に、そう思っているのですか?アナタを慕う彼女がアナタを失って本当に幸せになれるとでも」
 思っているのですか?
 闇に青年の声が響いた。じゃり、と蘭丸の靴がアスファルトを引っ掻いた。その音にはっとする。ごくりと息を飲む。蘭丸はもう一歩分、彼から距離を取った。
 青年は蘭丸の行動を気に留めた様子はなく、台詞を吐き続けた。
「彼女を泣かせてしまった自分を、求めたことで避けられたかもしれない結果を、アナタは本当に許せるのですか?」
「……てめぇは一体、何が言いたい」
「ワタシは、彼女に幸せになってもらいたいだけです。誰よりも、何よりも幸せに。ただ、それだけ」
 そう言って、青年はひとつ微笑んだ。その日見せた表情の中で最も優しい笑顔だった。
 油性の空気と陰湿な闇の只中、ああ、こいつもそうなのかと蘭丸は思った。こいつも、春歌を大切に想う人間の一人なのかと、闇に溶けるように消えていく青年を見送った。
 暫くその場に立ち尽くしていた蘭丸へと、一匹の黒猫がその目を注いでいた。綺麗な、緑色の目をした猫だった。


 不思議な青年との邂逅と会話は蘭丸の心に残り続けた。「仕事」の最中でも、眠りの淵にある時でも、春歌の働く店へ足を運ぶその道中でも、青年の台詞が繰り返された。
 春歌が自分を慕っていることは知っている。自分が春歌を女として見ているのも事実だ。あの華奢な身体を抱きしめて、愛してると伝えられたらどんなにいいか。柔らかく笑う彼女にキスをして、想いを確かめ合えたらどれだけ幸せか。そんなことは何度も考えた。考えて考えて、考え抜いて。それでも、この手に抱いた光を己のせいで消してしまうかもしれないという不安があった。春歌を失うことに、きっと自分は耐えられない。ならば、求めることはできない。
 緑色の目をした青年の言葉が繰り返される度、蘭丸は固く唇を噛み締めた。これでいい。これでいいんだと。ピアノを弾く春歌の横顔を見つめ、言い聞かせた。


 思えばそれは、忠告だったのだろう。蘭丸が考えていた以上に奴らは目敏く、蘭丸が春歌から離れたことは、ただ春歌を無防備にするだけの結果となっていた。それを、もしかしたら青年は伝えたかったのかもしれない。
 見つかってしまったのなら、手ずから守ってやる以外に方策はない。


 事件が起きたのは、冬の初めのことだった。
 ひどく冷え込んだ、冬晴れの日。春歌が、店から消えた。


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 To be continued.



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