それは夢か悪夢か幸運か
この国に存在する可憐という概念をすべて詰め込んだような女の子、と表現したのは誰だったか。
目の前で花が咲くように微笑んだ春歌を見て、彼はその言葉を思い出していた。
その時の彼が受けた驚きという衝撃は、四半世紀生きてきた中でも最大級のものだった。当然である。何の前触れもなく女の子が目の前に転がり落ちてきたら誰だって心臓が飛び出るくらい驚くだろう。いや、まぁ、程度の違いはあるかもしれないが。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
耳にうるさく響く鼓動を飲み込むようにひとつ、深呼吸をする。そして、どう見ても階段を転げ落ちてきたとしか見えない彼女に声をかけた。返事はない。淡い色のワンピースと、苺を煮詰めたような色の甘そうな髪が静かに地面に広がっているばかりだった。彼女はうつぶせで倒れているため、顔は見えない。
しばらくしても動く気配がないので、彼は地面に膝をついた。ぴくりとも動かない彼女の肩をおそるおそる叩いてみる。二度、三度。それでもやはり反応はなくて、青年は一気にパニックに陥った。
気絶しているだけならいい。けれど、打ち所が悪くて死んでしまったのではないかと考えた瞬間、全身から血の気が引くのが分かった。他人とはいえ、死がそこにあると思うと、身体は意思に関係なく震え始めた。
いやまだ死んだと決まったわけではない。彼はひとつ頭を振った。自分がしっかりしなければ、助かるものも助からない。そうだ救急車、救急車を呼ばなければ、と懐から携帯を取り出した。
「あれ、救急車って何番だっけ?110は警察、117は時報……あれ!?え、ちょ、あれ!?」
「救急車、は119です……」
「そうだ119!119……って、大丈夫ですか!?」
地面から届いた声に慌ててそちらに目をやると、彼女は身を起こしているところだった。ゆっくりと腕の力を使って上半身を起こす彼女に慌てて手を貸す。すみません、ありがとうございますと彼女が顔を上げた瞬間、彼は再び、とてつもない驚愕に襲われた。
さらりとしたストロベリーチョコレート色の髪、抜けるように白くまばゆい肌色、少し汚れてしまっているがそれでも輝きを失わない桜色の頬、柔らかな稜線を描く輪郭。そして、上等な宝石のようにきらめく、瞳。そのすべてに彼は見覚えがあった。直接彼女を目の当たりにするのは初めてだったから、彼の記憶の中にあるテレビや雑誌での姿とはまた少し違っていたけれど、彼女はまさしく、彼の憧れのひとだった。
「な……なな、七海、春歌……!?」
絞り出すように彼が彼女の名を唱えると、春歌はなんだか困ったような、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
そのあと何事もなかったかのように立ち上がり、大丈夫だと主張する春歌をなんとなく放っておけず、彼は近くにあったベンチへ座るよう彼女に勧めた。はじめは約束に遅れてしまうからと先を急ごうとした春歌だったが、右足を踏み出した瞬間、小さく眉をしかめた。本当に一瞬だったけれど、彼はそれを見逃さなかった。半ば強引に彼女を座らせる。
きょとんと目を丸くした彼女に見上げられ、そこでようやく自分がとんでもないことをしでかしたことに気づいた。国民的アイドルの春歌を引き止めるような真似をして、何かを疑われてしまうのではないか。違うんです信じてもらえないかもしれないけど心配だったから、と慌てて口を開こうとすると、彼女はぺこりと頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます」
「えっ……あ、いや、あの……」
「心配、してくださったんですよね?」
右足に軽く触れながら微笑んで、春歌は礼を繰り返す。彼はそれに安堵した。変なことを疑われてはいないようだ。
安堵から脱力しかけた彼は、右足に視線を落とした春歌を見て背筋を伸ばした。そうだ、本来の目的を忘れてはならない。彼は春歌の足元に膝をついた。
「動かせそうですか?」
「はい。骨に異常はないと思います。歩けそうではあったので……」
「でも痛いんですよね……?」
「えと、……はい。ちょっとだけ」
「確かこの辺り、病院なかったと思うんですけど……救急車とか呼んだ方がいいのかな」
「あ、いえ、大丈夫です!えっと……」
わたわたと手を振り、春歌はバッグの中から携帯を取り出した。そして、慣れた手つきでメールを打つと、これで大丈夫ですと携帯を閉じる。安堵したようなその笑みに、助けを呼んだのだろうと察しがついた。
「マネージャーさん、ですか?」
「ああっ!」
「えっ?」
「あ……ええと……はい、マネージャーさん、です」
助けを呼んだことにほっとして背もたれに背を預けた春歌は、すぐにその背を伸ばした。心なしか表情は青ざめており、声も途切れがちだ。
それを彼はこう取った。足が痛むのだろうと。なんでもないといった風を装ってはいるが、やはり痛みは無視しきれるものでないようだ。
「あの……やっぱり救急車呼んだ方が……救急車がアレなら、俺、病院まで連れて行きますよ?」
「い、いえ、大丈夫です!ご心配には及びません!マネージャーさんに連絡もしましたし!」
「でもやっぱり、顔色が」
「春歌!」
春歌の様子を見て、彼が眉を寄せたのとほぼ同時だった。先程春歌が転がり落ちてきた階段の上に、その人は現れた。
この人が春歌のマネージャーかと彼が考える間に、その人は階段を駆け降りる。近づいてくる彼は、男前と呼ぶに相応しい、整った顔立ちの青年だった。背も高い。
女性にモテそうな感じの人だなと思っているうちに、彼と春歌がいるところへ来ると、その人は大きく息を吐いた。
「階段から落ちたっつぅから何事かと思えば……」
「す、すみません……」
「おまえは、本当に!いつも足元には気をつけろっつってるだろ!」
「すみません!蘭丸さん!」
青年の怒鳴り声に春歌がしゃきりと背を伸ばす。思わず、関係のない人間までもが姿勢を正してしまうような、そんな声だった。モテそうだけど同じくらい怖がられそうな人、という印象が加わる。左右で異なる色の目は、蘭丸と呼ばれた青年を更に鋭くみせていた。
「とりあえず病院だな……救急車は」
「その、救急車は……あの……」
「ああ、そうか、そうだな。じゃあおれのチャリ、は振動がやべぇか……嶺二辺りに車出させるか」
「そ、それは申し訳ないです……!」
「おまえがケガしたって言えば血相変えてかっ飛んでくるだろ、気にすんな」
「気にします!わたしは大丈夫ですから!」
「大丈夫じゃねぇから言ってんだろうが!……ところで、さっきからそこに突っ立ってるてめぇは誰だ」
いきなり話を振られた彼は、飛び上がらんばかりに驚いた。それも仕方ない。鋭く冷たい目に射すくめられ、更に低い声で呼びかけを受ければ誰でもそうなるだろう。
じろりと睨まれながら、彼はしどろもどろに説明をした。たまたま通り掛かったところ、春歌を発見したこと。怪我をしているのを放っておけず、どうしようかと二人で考えていたこと。
春歌に説明の補足を受け、なんとか今の状況に至るまでを説明しきる。説明の間、口を開かず、強い目でひたすら睨みつけてきた蘭丸は、やがて重い口を開いた。
「……春歌が言うなら信じる」
あ―、やっぱり何か疑われていたんだな―と彼は思った。大人気アイドルの七海春歌のマネージャーなのだから、見ず知らずの人間に対して疑いをかけるのも仕方のないことなのだろう。自分が春歌を突き落としたんじゃないかとか、怪我をした春歌をどうこうしようと画策していたんじゃないかとか。そんなことを思われていたに違いない。
しかし、どうやら蘭丸はわかってくれたようだ。正直、蘭丸の目に睨まれて生きた心地のしなかった彼はほっと息を吐いた。人間誰でも話せばわかるもんなんだなと安心した彼の耳に、蘭丸の低い声が届いたのはその直後のことだった。
「一応、言っとく」
「え」
「これを期に春歌と親しくなろうとか、付き合いたいだとか、そういうことは絶対に考えんな。……わかってんだろ」
そうして彼は再び、背を正すこととなったのである。
そのあとのことは、正直よく覚えていない。凍りついた彼は思考までもフリーズしため、気づいたときには春歌は蘭丸に連れられていずこへか去ったあとだった。
「……もしかして、夢だった……とか?」
誰もいなくなったその場でひとり、彼はつぶやいた。頬をつねり、痛みを感じてもなお、さっきのは夢だったのかもしれないという思いが消えることはない。
それは、七海春歌というこの国に存在する可憐という概念をすべて詰め込んだような女の子との邂逅が未だに信じられないという証拠であり。
数分足らずであったにも関わらず、あんなに恐ろしい経験をしたことに対する現実逃避でもあるのであった。
「……七海春歌は可愛かったけど……」
ちょっとしたお近づきになれればいいと、考えなかったわけではないけれど、さっくりと釘を刺していった蘭丸。思い出してしまい、ぶるりと背中が震えた。
芸能人のマネージャーって怖いんだなぁと感じた彼はまだ知らない。蘭丸は春歌のマネージャーではないということを。蘭丸は彼女の恋人で、婚約者であり、近々結婚する予定でもあるということを。だからこそ、彼に対してああいうことを言ったということを。
そうした事情と真実を、彼は一週間後、とあるニュース番組で知ることとなるのであった。
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