6(龍也と春歌の場合)




「お前、日向の嫁さん見たことあるか?」

 突然上司が発した言葉に彼がまず思ったのは、日向先輩は結婚していたのかというものだった。
 彼はこの駅前にある交番に今年配属されたばかりの新人警官である。互いに遠慮や探り探りの部分も多かったためか、今目の前にいる不惑を幾つか過ぎた上司や、名前が上がった先輩とプライベートな話をしたことがなかった。
 だから上司の言葉に、彼は正直驚いた。地元の不良たちが畏れ敬い、その姿を見せた瞬間道を空けると専らの噂がある日向龍也と結婚が上手く結び付かなかったからだ。勿論、この三ヶ月一緒に働いて、先程の噂が単なる噂でしかないことを理解していたし、見た目ほど恐ろしい人でもないと分かってはいるが、驚いたことは確かなので仕方ない。

「いや、お会いしたことはまだないです」
「ああ……まぁ、それもそうか」
「志賀さんはお会いしたことがあるんですか?」

 彼がここに配属になってたらまだ三ヶ月しか経っていないことを思い出したのか、ばつが悪そうにしている上司に、彼は慌てて質問を返した。ここで会話が途切れたら、上司がいたたまれない思いをする。きっとこの人は、自分に気を遣って話題を提供してくれたのだ。その思いを無駄にしたくない。
 そんな思いで投げた言葉を、上司はどこかほっとした様子で受けとった。

「ああ。あいつの結婚式に呼ばれた時と、あと何回か、な」

 日向からは想像できないくらい可愛い子だぞと続けた上司に、モデルばりの高身長の女性を思い描いていた彼は慌ててその像を振り払った。
 そして上司の話から組み立てたのはこんな女性だった。体躯は小柄で華奢、赤に近い茶色の髪を肩に触れない位置でふわりと切り揃え、菜の花のような瞳をしていて、礼儀正しく、笑顔の可愛い、つい応援したくなるようなそんなひと。女性と呼ぶより女の子と言った方が近いという彼女は、なんと龍也の幼なじみだという。しかも、十以上も歳が離れているらしい。
 どんな子なんだと、あれこれ脳内で考えてみるが、ぼんやりした像が浮かぶばかりだ。見た目の特徴だけ考えると、なんとなく、似た女の子を想像できるような気もするのだが。
 上司の話は続く。

「そういえば、日向の嫁さん……この交番に来たことあったな」
「え、そうなんですか?」
「去年の今頃だったかなぁ。日向が弁当忘れた日があってな、そんで……」

 その時、表に自転車のブレーキ音が響いた。スタンドを立てる音が続き、ややあって自転車の主が入り口に顔を見せた。
 日本人にしては背の高い彼は、少し低くなっている鴨居に頭をぶつけないよう屈みながら交番の中へ入ってくる。

「見回り、行ってきました。異常無し」
「おう、ごくろうさん」
「お疲れさまです」
「……で、俺の弁当が何か?」

 自分のデスクに腰掛けるなり、龍也は若干硬い声を投げてきた。どうやら、先程までのやり取りが一部聞こえていたらしい。怒っているのだろうかと身を固くした彼とは異なり、上司は楽しそうな声で説明を始めた。

「今、春歌ちゃんの話をしてたんだ。前にお前が弁当忘れたときに届けてくれてたってな。あん時はなかなか大変な騒ぎだった。春歌ちゃんの人気は本当にすごかったんだと再確認した」
「え?」
「おい、志賀さん……」
「おっと、悪い悪い」

 龍也に睨まれた上司は肩を竦め、口を閉じた。手元にあった業務日誌をぱらりとめくり、もうそれ以上は語らないと雰囲気が語っている。
 だが、新人警官である彼はその先が聞きたくてたまらなかった。有り得ないと否定する心が占める脳内にひとかけら、もしかしてと生まれた仮説が情報を求めている。

 肩に触れない位置でふわりと切り揃えられた赤に近い茶色の髪。
 菜の花のような色の瞳。
 体躯は小柄で華奢。
 女性と呼ぶより女の子と言った方が近い。
 礼儀正しく、笑顔の可愛い、つい応援したくなるようなそんなひと。
 龍也は今年で34になると言っていたから、彼女は23歳前後で間違いない。
 しかも、名前が「春歌」。

「まさか……日向先輩の奥さんて……」
「! しまった……」

 彼が小さく零した言葉は、龍也の突然の叫びに掻き消された。見れば、彼は頭を抱えている。

「ん?どうした、日向」
「……忘れた」
「え?」
「弁当……持ってくんのを……」

 さっきの話からこれか!と彼は思わず心の中でつっこんだ。話題に出たばかりの状況が現実で繰り返されるという摩訶不思議な出来事がこの世には存在するらしい。
 生きてるとこういうこともあるのかと少々大袈裟なことを考えていると、頭を抱えていた龍也が鋭い目を彼に向けてきた。はっきり言おう。怖い。思わず姿勢を正す。

「島崎!お前これから何を見ても絶対に騒ぐんじゃね―ぞ!人にも言うな!」
「え、あ……はい!」
「おいおい、まだ来るかどうか決まったわけじゃないだろう。……いや、来るか。春歌ちゃんなら絶対来るな……春歌ちゃんだからな……」
「前のあれであいつも反省してたから滅多なことは起こらないと思うが……不安だ……第一あいつは自分の人気を分かってなさすぎなんだよ……」
「……引退して三年しか経ってないのになぁ」
「……まったくです」

 突如厳戒体制もかくやと言わんばかりの空気が交番内を支配する。緊張感漂う上司と先輩のやり取りに自らも緊張しながら、彼は思った。
 ああ、多分これは確定だ。日向先輩の奥さんは、元トップアイドルの七海春歌に違いない。それまでぼんやりしていた龍也の伴侶の想像図がはっきりとその輪郭を描ききった時、交番の入り口に彼女が姿を現した。
 そして、新人警官である彼が本物の七海春歌に感動する間もなく、駅前交番は騒ぎに巻き込まれることになるのである。




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