三歩前の彼




「知ってるか」

 前を行く翔が呟く。
 春歌の少し前を歩く彼は、顔は前を向いたまま春歌に問い掛けた。振り返るつもりはないらしく、発せられた声はいつもより少し大きいものだった。
 恋人である春歌を顧みないその態度は傍から見れば冷たい男に見えるかもしれないが、春歌はそうは感じなかった。翔の歩みは春歌の歩みに合わせられている。春歌が無理せずついて来られるように、ちょうど三歩ほど前を翔は歩いていた。

「日本の男が女を三歩後ろを歩かせる理由を、さ」

 翔の歩みに合わせてゆっくり上下する帽子の動きを見つめながら、春歌はその問いに「いいえ」と答えた。どこかで聞いたことがあるような記憶もあるが曖昧な知識を口にするのは少し気が引ける。
 しかしなぜ突然そんなことを言い出すのだろう、と思っていると、一定だった翔の歩みが一瞬だけ乱れた。

「…何かあったとき、すぐ庇えるように…前を歩くんだ」

 かつん、と殊更大きく響いた靴音のあと、春歌の耳に届いたのはそんな言葉だった。声音は彼が真摯な思いを口にするときの、少し低い大人っぽいそれで、意図せず心臓がどきりと鳴った。

「守るから。必ず、お前を」

 だから、ついて来いよ、と。三歩前の彼は言った。

 「…はい、どこまでもついて行きます」

 春歌はそう答えた。あなたが壁となってわたしを守ってくれるなら、わたしはあなたを支える存在でありたい。倒れそうになったときは遠慮なく、寄り掛かってほしい。支え合いたい。
 そんな思いを乗せた春歌の答えに、翔は小さく、サンキュ、と呟いた。


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