Night Flight




 キラキラ煌めくネオンと偽りひしめく夜の街。女たちは艶やかに化粧と衣装を纏い、男たちはその偽りに夢を見、そして忘却する。それは罠であることを疑わず。
 ひらひら舞う蝶は毒を隠し、蝶を愛でる人間たちは囚われ、奥へと誘われ。気付いた時にはもう遅い。ぽかりと口を開けた暗闇に、落ちたと知った瞬間、夜の街は彼の者を飲み込んでしまう。

 だからお嬢さん、気をつけて。この街に深く係わってはいけないよ。きみはこの街唯一の本物の光。どうか、偽りだらけの人間たちに汚されることのないように。
 どうか、どうか。きみだけは決して、この闇に飲み込まれないで。ぼくたちが愛したきみのまま、おれたちが愛したおまえのまま、美しい旋律を作り続けてほしい。それがきみを愛するすべての人間の願いだから。
 そしてきみときみの作る音楽を守るためなら、何でもしよう。たとえ、すべてを失っても、すべてを敵に回したとしても、二度ときみに会えなくなったとしても。

 きみだけは必ず、守ってみせる。



 レコードの演奏が不意に止まる。さざ波のようなざわめきに包まれていた店内は、徐々に絞られる照明と共に静寂に包まれていった。
 やがて、店の奥に靴音が響く。木の床を遠慮がちに叩くその音の主は、小さな舞台の真ん中に立った。瞬間、暖色の明かりが舞台に降り注ぎ、姿を見せた可憐な女性に客たちは拍手を送る。期待の込められた、温かい拍手だった。
 彼女はどこか照れたようにはにかむと、小さく礼を取った。シンプルな薄いブルーのドレスがしゃらりと音を立て、微かに揺れる。胸元で小さな宝石が光を弾いた。
 彼女は何も口にしないまま、ステージの隅にあるピアノへ足を向けた。椅子に座り、目を閉じ、深呼吸をする。その様子を客たちは静かに見守り、その時を待った。そして、細くたおやかな指が白と黒の鍵盤にそっと触れた瞬間から。
 その小さなバーは彼女の世界となった。



「七海、お疲れさん」
「お疲れさま、ハルちゃん!今日も素敵だったわよ」
「あ、ありがとうございます」
「さ、座って座って!乾杯しましょ」

 一時間ほどの演奏を終え、さざめきが戻ってきた店内で春歌は二人にぺこりと頭を下げた。
 カウンターの向こうから春歌の頭を撫でてくる男性は日向龍也、この店のマネージャーである。春歌にカウンターの一席を勧めたのは店の歌姫、月宮林檎だ。二人共、駆け出しのピアニストである春歌を可愛がってくれている人で、恩人でもあった。
 林檎の勧めに従って席に着くと、ぴったりのタイミングでカクテルが置かれる。酒に弱い春歌のため、アルコールを一切纏わないそのカクテルが春歌専用であることを、客たちは知らない。

「ありがとうございます」
「おう。俺からの奢りだ、好きなだけ飲めよ」
「わ―龍也ったら相変わらずいやらしい」
「いやらしいってお前……」

 店の人間である林檎は、そのカクテルが春歌専用であることを知っている。彼は優しい色をしたそのカクテルをつまらなさそうに眺めた。バーテンダーでもある龍也が、春歌のためだけに特別に作るそれが気に入らないらしい。
 先程の演奏を聴いていた客が春歌に話し掛けている隙に、林檎は文句を並べ立てる。

「『お前にだけ特別』とか、いやらしい以外の何だって言うのよ」
「はぁ?」
「自分だけ点数稼ごうったってそうはいかないんだからね!」
「お前なぁ……」

 びしっと長い指を龍也に突き付け、林檎は怖い顔をしてみせた。特別という響きに人間は弱い。抜け駆けかこの野郎とその瞳は言うが、龍也は面倒くさそうにため息を吐いただけだった。
 眉を吊り上げた林檎に、龍也は言う。

「歌う度にいつも春歌のためだなんだかんだ言ってるヤツに言われたくね―よ。しかも今日は歌詞に入れただろ、七海の名前を!」
「あら、気付いてたの?」
「『Seventh sea』と『Song for spring』。分かりやすすぎなんだよ!」

 バチリと視線が交差する。しかし一歩も引く気はないと叫び合っていたその視線は、春歌が話を終えるとすぐさまそちらへ向けられた。一瞬で二人の目から剣呑な色が消える。

「お客さん、なんて?」
「はい、とても素晴らしかった、また聴きに来るよと、言っていただけました。わたしには勿体ないほどのお言葉です……」
「いや、お前のピアノにはそれだけの力がある。胸を張れ」
「あ、ありがとうございます…!あっ、さっきの方、林檎さんの歌についてもおっしゃっていましたよ。とても情熱的な歌だった、って」
「あら、嬉しい」
「まるで、愛しいひとに向けて歌っているようで心が震えたそうです。わたしも、」
「!」

 がたりと林檎が腰を浮かせた。無理もない。ここで「わたしも、とてもときめきました、林檎さん……」なんてうっとりしながら言われた日には、全力でガッツポーズである。春歌のために歌ったのだから。
 だが、バー『shiny』のピアニスト、七海春歌は、こう宣った。

「わたしも、いつかそんな風に曲を奏でられるようになりたいです」

 それはつまり、林檎のように情熱的な想いを向ける相手がまだいないということで。ついでに林檎の想いに春歌は気付いていないということでもあった。
 そしてがっくりと縦線を背負った林檎を憐れみの目で見ていた龍也も、「このカクテル、わたしだけがいただくのはもったいないです!メニューに加えるべきです!」という春歌の真剣な言葉に撃沈することになるのであった。



「そういえば、また届いてたわよ。お花」
「ああ、あれな。ちょっと待ってろ…………ほれ」
「わぁ…!」

 龍也がカウンターの向こうから取り出した花束に、春歌は目を輝かせた。
 それは、薔薇の花束だった。ベルベットのような深紅の花びらを持つ瑞々しくも艶やかな薔薇が11本、纏められたそれを受け取ると、春歌は嬉しそうに笑う。ひそやかに添えられたメッセージカードを取り出し、中身を確認した春歌はくすくすと声を上げた。

「あの子、なんだって?」
「ふふ、いつもと同じです。『夜に輝く真珠星のピアニストへ。女王の剣より』」
「同じ?一昨日は確か『唯一の星へ。見上げ、見守る者より』だっただろ」
「はい。でも同じです。宛名と、差出人…それ以上のことは書かれていないですから」
「なるほどな」
「にしても、オシャレだけど回りくどいわねぇ」
「それは……仕方ありません」

 雪の結晶が箔押しされたメッセージカードを見つめて、春歌は少し悲しげに笑った。この薔薇を贈ってくれたその人を、春歌は知っている。理由があってはっきりと名乗れないことも、姿を見せることができないことも、彼女は理解していた。
 こうして花が贈られてくるということは、少なくとも今は彼は無事だということだけれど、それでも心配なのは変わらない。怪我をしていないといいけれど、と思っていると、不意に肩を叩かれた。顔を上げる。そこにあったのは林檎の笑顔だった。

「大丈夫!あの子は出来た子だから心配いらないわよ」
「そうだな。またそのうちに顔出しに来るんじゃねぇか?」
「そうですね……」
「あ、顔出しに来るといえば……来てたわよ、あの二人」
「ああ、嶺二と蘭丸か」
「本当ですか!?」

 二人の言葉に春歌はきょろりと店内に目を巡らせた。しかし、見知ったその姿を見つけることはできない。顔見知りになった客は何人もいるが、龍也の言う二人の顔はなかった。

「ああ、うん、今はね……もういないのよ。二人ともハルちゃんの演奏が終わった瞬間に帰りやがったから」
「やがったってお前……挨拶くらいはしていけって言ったんだけどな」
「そうですか……残念です。久しぶりにお会いできるかなと思ったんですが」
「あいつらも残念そうだったぜ」

 花束を抱きしめ、春歌はしょんぼりと眉を落とした。

 この薔薇を贈ってくれた青年と、嶺二と蘭丸、そしてもうひとり。その四人は春歌の恩人であり、大切なひとたちだった。
 彼らは数年前、この街に来たばかりの頃、事件に巻き込まれそうになった春歌を助けてくれた。何も知らなかった春歌に街の恐ろしさを説き、この店を紹介してくれたのも彼らだった。春歌がこの街でなんとかやっていられるのは、すべて彼らのおかげだ。
 彼らは今でも何かと春歌に気を遣ってくれていて、演奏を聴きに来てくれたり、贈り物をしてくれたりする。困ったことがあれば龍也と林檎を通して手を貸してくれる。
 けれど、直接会って話すことはほとんどない。彼らの置かれた状況を思えば仕方ないことだが、寂しいことも確かだった。心配でもある。怪我をしていないか、無理をしていないか。困った状況に、追い込まれていないか。そんな思いが春歌の顔を曇らせる。
 春歌は彼らがどのような職に就いているのか、具体的なことは知らなかった。知らなくていいこともこの世にはあるのだと彼らは言っていたから。きみのためなんだと言った真剣な顔を思い出す。
 そして春歌は、自分が彼らの足枷になる可能性があることを知っている。だから何も口出しはできない。自分が弱いことも知っている。彼らのためにできることが何もないのも、分かっていて。でも、それでも。

「ねぇ、ハルちゃん。もしかして、自分が何もできないって思ってる?もどかしくて、辛いって」
「だとしたらそれは間違いだ。そんな風に思う必要はね―よ」
「林檎さん、龍也さん……」
「そう、君はここにいてくれればそれでいい。ここで、音楽を奏で続けていてくれれば、笑顔でいてくれれば、それで」
「!」

 背後から聞こえてきた声に振り返ると、そこには柔らかな眼差しを春歌に向ける少年の姿があった。

「藍くん…!」
「久しぶりだね、春歌」

 元気だった?そう、尋ねられ春歌は顔を綻ばせた。彼は春歌を救ってくれた四人目のひとだ。前に会ったのはもう半年も前のことだろうか。

「はい、元気です!藍くんは……」
「うん、ボクも元気だ。やっと大きな仕事がひとつ片付いてね。演奏には間に合わなかったけど」
「いいえ、来てくださって嬉しいです。本当に、本当に!」
「うん。ボクも嬉しいよ。君に会えて、嬉しい……」

 藍はそう言ってもうひとつ笑うと、するりと春歌の隣の席に腰掛けた。そうして会えなかった時間を埋めるように話し始める。
 やがて、二人の囁きは店のさざめきへと吸い込まれていった。



_______________



「春歌が狙われてる」

 藍の言葉に闇が揺れる。街の片隅、喧騒もネオンの光も届かない完璧な静寂と闇の路地に彼らはいた。今にも消えてしまいそうな街灯の下に立つ藍の傍らに、三つ、影が集う。

「何処の馬鹿だ、春歌を狙ってやがるのは」

 影のひとつが呟いた。その殺気にざわりと闇が鳴る。呼応するようにもうひとつ、冷たい空気が揺れた。

「ふん、関係ないだろう。今回も同じように潰してやるだけだ」
「まぁね」
「わ―、アイアイもランランもミューちゃんも〜!やる気満々だね?」

 その場には相応しからぬ明るい声が響いた。だがその声の主が纏うのも、漆黒。おどけた雰囲気の奥に隠された闇は深い。

「そう言ってるてめぇが一番やべぇ顔してんじゃねぇか」
「え―?そ―お?まぁはらわた煮え繰り返ってるのは事実だけど〜。……今回は誰の関係者?ランラン?ミューちゃん?」
「レイジだよ」
「マジで!?あっちゃ―…」
「寿……また貴様か」
「めんごめんご!多分先週のアレか先々週のソレかその辺だ!」
「謝るなら春歌に謝れ。そして今ここで土下座しろ」
「怖っ!ミューちゃんもランランもその殺気しまってしまって!ターゲット潰す前にぼくが潰れちゃう!」
「そしたらボクがやるから別にいいよ」
「よくな―――い!……っていうか、アイアイ今回はずいぶんご立腹だね?」
「……ボクの目の前で、春歌は倒れたんだ。レイジから送られてきたっていうチョコレートを口にして」
「――」
「すぐに吐き出させたし、適切な処置も施した。命に別状はない。けど……っ」
「うん、分かった。それ以上はいいよ、アイアイ。……」
「おい、嶺二」
「ん―?」
「殺すなよ」
「分かってる分かってる!殺したりなんかしないって!……安易な死で許してやれるわけないでしょ」
「……ならば今回は寿に任せる」
「ヘマしないでよね」
「それも分かってるって。みんなに迷惑かけるようなことはしない。これはぼくの撒いた種だしね。それにあの子を、これ以上苦しめたりもしない」
「あいつを泣かせるようなこともすんじゃねぇぞ」
「春歌を泣かせたらその鬱陶しい前髪引っこ抜くから」
「あと後ろ髪もだな」
「ちょ、ひどい!風当たりが強い!これはサクッとやってくるしかないパターンのやつだ!」
「あぁもうつべこべ言わずにさっさと行きやがれ!アホ嶺二!」
「は―い!寿 嶺二、春歌ちゃんの笑顔を守るため、いっきま―す!」

 そうして一瞬の後にその路地は静寂を取り戻した。残されたのは闇の残滓ばかり。
 やがて、暗い光を投げ掛けていた街灯が、静かにその命を絶った。



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