4(カミュと春歌の場合)




 その洋菓子店にはまことしやかに囁かれていた噂がある。
 オーナーがたったひとりのためだけに作る秘密のスイーツがあるというその噂は、三年ほど前から客の中に広まっていったのだが、三年経っても噂の域を出なかった。週に三回は店に通う常連客も、店員も、誰もその噂の真相を知らなかったのである。単なる噂に過ぎないのではないかと言う者も多かった。オーナー本人がそんなものはないと否定したらしいという新たな噂が広まったとき、幻のスイーツの話が客の口に登ることはなくなった。
 だが、たったひとりだけその噂の真相を知る人間がいる。それは、見習いの青年だった。

 その日、彼は忘れ物を取りに閉店後の店を訪れた。すでに閉店から数時間が経っている。昼間は店内に明るい白光を取り入れる窓にはブラインドが降ろされ、宝石の如く輝くスイーツが並ぶケースも空だった。
 そんな店の様子自体は店員である彼にとって珍しいものではない。何度も閉店作業に携わったことがあるし、仕事でひとり店に残ることもあった。見慣れた閉店後の店。だが、その日は何かが違っていた。

「……あれ?」

 従業員のロッカールームで、ふと彼は音を聞いた気がした。夜のしじまに小さく響いた音に首を傾げる。かしゃん、というその音は、普段よく聞いているもののように思えた。更に首をひねる。
 店に誰も残っていないことは、店に入ったときに確認してあった。厨房も明かりは落とされ、人間の影も形もなかったはずだ。しかも明日…時計でいえばすでに今日ではあるが…は定休日。この日この時間に店に用がある人間は、いない。
 聞き違いだろうかと思っていると、再び音が届く。先程よりはっきりと、明確な意思を感じる音だった。間違いない、誰かが厨房にいる。でも誰が、という思考に行き着いて、彼はなんとなく寒いものを感じた。

「そういえば、先輩が言ってた……ような」

 この店には、出るんだぞ。先輩の言葉を思い出したのと同時に、三度音が響いた。びくりと意図せず身体が震える。そして静まり返った店の片隅で、彼は決意した。一刻も早く帰ろうと。
 慌ててロッカールームを出、従業員出入り口に向かう。そこで気付いた。そうだ、出入り口へ行くには厨房の前を通らなければならない。足が止まる。

(仕方ない、中は見ないように走り抜けよう…!)

 鞄を抱きしめ、呼吸を整える。厨房のドアは小さな丸い窓があるだけだから、そこに目をやらなければどうということはない。だから大丈夫。
 何が大丈夫なのかよく分からないが、とにかく彼は早足で進んだ。厨房が近付いてくる。かしゃ、かしゃんとあの音が聞こえてくる気がするが気のせいだ。ぼんやりと厨房が明るいのも気の迷いだ。

「…………明るい?」

 ぴたりと足が止まった。行き過ぎた厨房のドアを振り返ると、丸い窓から微かな光が零れている。何故かは分からないが、興味を引かれた。幽霊だったらどうしようとか、そんな考えは綺麗さっぱり抜け落ちていて、彼はふらふらとドアに近付き、中を覗いた。

「あれ……オーナー?」

 彼が見つけたもの、それは幽霊でもなんでもなく、氷細工のパティシエとしてその名を轟かせるオーナーその人であった。
 彼は何か作業をしているようだ。手の動きと作業台の形状からそれはケーキであることを予想する。店のショーケースに並べるものに比べ、そのケーキは小さいように見えた。
 一人分と言って差し支えないであろう、小さなホールケーキ。何故オーナーはそんなものを作っているのだろう。新作の試作か何かだろうか。よく見えないけどずいぶん凝ったデザインだな、それになんだかオーナー楽しそうだと思った瞬間、ケーキに向かっていたオーナーの目が、青年を射った。

「貴様、そこで何をしている!」
「ひぃっ!すみません!」
「待て!」

 絶対零度の視線と鋭い声が飛ぶ。いつもより恐ろしげに響いたそれに、青年は駆け出した。幽霊よりもオーナーの方がよっぽど恐ろしかった。

 定休日を挟んだ次の日、青年はオーナーに呼び出された。あのことは忘れろ、さもなければ解雇すると脅され、彼は必死に頷いた。店をやめるのは嫌だったのもあるし、あまりにオーナーの様子が恐ろしすぎて頷く以外の選択肢を選べなかったのである。

 その可能性に青年が気付いたのは、些細なきっかけからだった。ホールの応援に出た彼は、客たちの噂話を耳にした。それは、例のスイーツの噂だった。
 存在するかも怪しいそのスイーツは、宝石箱のようなケーキらしいと、誰かが言う。ただひとりのためだけに作られる、特別なケーキなのだと。
 何故かぴんと来た。あの日、オーナーが作っていたのはそのケーキなのではないかと。だってあの後すぐに発表された新作はケーキではなく焼き菓子だった。そもそもあのサイズのケーキを店では扱っていない。それに、あの表情。

(まるで、恋人に向けたような……)

 柔らかな、優しい顔ではなかったか。
 本人に直接確かめたわけではない。もしかしたら、この考えは間違っているのかもしれない。けれど、彼はきっとそうなのだろうと理解した。そして改めてこの件は秘密にしようと心に誓った。脅されたからではなく、そうするのが良いのだと自然に思えた。

 こうして、まことしやかに囁かれ続けた噂は消えていき、七種類のフルーツとト音記号の飴細工に彩られた春のケーキの秘密は守られたのである。




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