3(藍と春歌の場合)




 都内に本社を構える某大企業である騒ぎが起こったのは、一ヶ月ほど前のことだった。
 世を賑わせ和ませるアイドルの七海春歌が、とある番組の企画でその会社を訪れたのである。ドラマや映画のロケで使われることも多い会社であるため、テレビカメラが入ること自体はそれほど珍しいことではなかった。だが、出演者が七海春歌となれば話は別だ。熱心な男性ファンは勿論、社の女性たちも生で見る七海春歌に声援を送った。
 声援に礼儀正しく腰を折り、嬉しそうにはにかんだ春歌が、またファンの数を増やしたのは言うまでもない。

 春歌が社で何をしたのか、番組の企画とは何であったのか。真実を知る人間はひどく少なかった。番組名のみは広く知らされていたため、彼女が行ったのが仕事体験だったということだけは確かである。しかし、肝心の就業場所はすぐには明かされず、社員たちの中に正確なそれが広まったのは、番組の予告が流れはじめた頃のことだった。

「なぁ、知ってるか?この前のななみんのロケ、秘書課だったらしいぜ。七海春歌の一日秘書体験!ってテレビでやってた」
「マジかよ!」
「よりによって秘書課……」

 ランチタイム、社員食堂の片隅で。企画課に所属する彼らはそんな噂話に花を咲かせていた。声はすこぶる暗い。彼らが元から暗いというわけではなく、もたらされた事実に暗くならざるを得なかったという部分が大きい。
 彼らは企画課に籍を置く社員だ。秘書課とはほとんど関係はない。ついでに秘書課メンバーとの面識もない。だが彼らは知っていた。この社の秘書課には「ブリザード製造機」と呼ばれる鬼のような男性秘書がいることを。
 ちなみに彼らは三人とも熱心な春歌ファンで、ファンクラブにも所属している。

「あ、でも、別に美風さんと関わったかどうかは分からねぇよな?他の人が担当したかもしれねぇし」
「あ―、美風さん以外なら……まぁ……うちの秘書課、アレな人はいないって噂だし」
「残念ながら、ななみんの担当、美風さんだったらしい。予告でバッチリ映ってた」

 地獄の底から響いてくるようなその台詞に、他の二名はテーブルに突っ伏した。最悪だ絶望だと端から聞いていれば失礼極まりないことをそれぞれに呻くが、それもまぁ、仕方のないことであった。
 秘書課の美風 藍といえば社内でも恐れられている名前だ。女性にも見紛うほど端正で綺麗な顔からは想像もできないくらい、彼は仕事に厳しい。あまりに厳しすぎるため、秘書課の大量退職が起こったとか、一割いや一分でいいから態度を和らげなさいと社長がたしなめたとか、無能な上司を追い出したとか、一日ひとりは泣かせているとか、そんな噂が後を絶たない。
 有能であることに違いはないので、上の人間は重宝しているらしいが、下っ端にとっては恐ろしい人物だった。関わることは殆どないが、できるならこれからもそうでありたい。

 そんな人間が、愛する七海春歌と関わりを持った。彼は相手がアイドルだからといって態度を軟化させる人間ではないということは容易に想像がつく。きっと春歌は一日秘書体験で藍に厳しく指導を受けただろう。

「うわ―…大丈夫だったのか―…?ななみん泣かされたりしたんじゃね―の…?」
「ぜってぇトラウマになっただろ…」
「ななみんうちの会社嫌いになってたりして…」
「……」
「……」
「……絶望だ」

 窓際のよく日の当たるテーブルがお通夜の会場のごとく、暗く重い雰囲気に包まれる。もはや誰も食事に手を伸ばす者はない。端から見ても異様な空気だった。

「美風くん、聞いたよ。七海春歌とテレビに映るそうじゃないか」
「ええ、まぁ」

 絶望に沈む彼らの耳にそんな会話が聞こえてきたのは、数分後のことだった。七海春歌の名前に顔を上げると、彼らの座るテーブルにほど近い席に、重役とおぼしき男性と件の美風 藍が座っている。しかも、どうやら話題は彼らをへこませた例の話のようだ。三人は自然と聞き耳を立てた。

「どうだい、可愛かったか?」
「そうですね……とりあえず、テレビで見るよりは痩せていました。腕も脚も腰も細くて」
「テレビで見るのでも十分細いが…それより細いとはなぁ…」

 脚に腰ってお前はどこを見ているんだていうか間近でななみん見られてうらやましいこのやろうと叫びたかったが、重役がそばにいるのでそれは叶わなかった。拳を握りしめ三人は耐える。

「彼女は秘書の仕事を体験したんだろう?そっちはどうだった?」
「……」

 藍が一瞬言葉を失った。藍をよく知らない三人に気付くはずのないことだったが、それは彼にしては非常に珍しいことだった。即断即決即答が彼の信条だったからだ。
 一瞬黙り込んだ藍に、三人はこう思う。言葉を失うくらい春歌に呆れているのだろうと。彼女はどんな仕事も手を抜かずにやる子だからきっと頑張ったに違いないけれど、完璧を絵に描いたような藍からすれば足りなかったのかもしれない。
 いやお前分かってねぇよちょっと抜けてるとこがななみんの可愛いとこなんだってつかお前のレベルを人に求めるのがそもそもの間違いで――。

「まぁ……手際は悪くなかったです。覚えも悪くない、アイドルにしては気も利きました。見込みはあるなと」
「ほぉ!きみがそこまで手放しで褒めるとは珍しい」

 重役が驚きに声を上げる。話を聞いていた三人も度肝を抜かれた。それはどうやら周りにいた他の人間も同じらしい。明らかに藍の発言で食堂がざわついている。あの美風が他人を褒めるなんて天変地異の前触れだ、という失礼なものから、美風がデレた七海春歌おそるべしといったものまで、様々である。
 ファンである三人も、あの美風 藍に気に入られるなんてさすがは俺たちの七海春歌だ、と感動にうち震えた。そしてこれからもファンであり続けることを誓い合い、来月行われるライブに思いを馳せる。
 だから誰も気付かなかった。彼女を語る藍の表情が、とても柔らかかったことに、誰ひとりとして。

 それは、すべてランチタイムに起こったできごとである。世を賑わせ和ませるアイドルの七海春歌が、とある番組の企画でその会社を訪れた一ヶ月後、そして彼女がとある秘書と電撃結婚し芸能界を引退する三年前の話であった。




Top



「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -