2(蘭丸と春歌の場合)




 CDが並んだ棚から、その一枚を選び取る。赤ワインを薄く広げたような単色のライナーノーツの端に小さく書かれた名前に彼は口角を引き上げた。カウンターの一角を占めるレコードプレイヤーを止め、壁に置いたコンポにCDをセットする。絞ったボリュームに乗って流れ始めたのは、しっとりとしたジャズだった。
 先程まで流していたレコードを棚へ戻すと、蘭丸はカウンターに向かった。洗い終えていたグラスとシェイカーを磨くべく、布を手にする。ふたつ目のグラスに手をかけたとき、カウンターの端で声が上がった。

「あれ、この声聞いたことあるなぁ」
「あ、やっぱそうだよな?」

 トラックが変わり、有名なスタンダードナンバーが流れ始める。やがてピアノトリオの穏やかな調べに乗って、落ち着いたソプラノが甘い恋を歌い出した。すべて英語の歌詞だが、すべてを抱きしめるようなと称される柔らかな優しい声は言葉を越えるらしい。
 やっぱり気付くもんなんだなと口角を上げると、先程の二人に声をかけられる。

「マスター、このさ、これ歌ってるのって誰?」
「なんか知ってる気がするんだよなぁ。よく聞いてる声っていうか」
「これか。……七海春歌のCDだ」
「えっ!?マジで!?あの子ジャズも歌ってたのか!知らなかったな」
「だろうよ。あいつがジャズを歌ってたのはインディーズ時代だけだからな。今は封印してるらしい」
「へぇ……」

 そう言って二人はグラスを傾ける。タイトルと揃いの甘い歌声がしばし店内を満たした。そしてピアノが曲の終わりを告げると、二人は満足げにため息を吐いた。

「ん―…今歌ってるポップスもカワイイけど、こっちもイイなぁ」
「うんうん、可愛いだけじゃなくて色っぽいっつ―か。つかインディーズ時代って何歳位の頃?マスター知ってる?」
「あ―、15とか16の頃だ。5年前だな。帰国してすぐの頃で」
「帰国?七海春歌って海外にいたのか?」
「ばっか、それ有名な話だぞ?だから英語も上手いんだよなぁ」
「道理でなぁ」

 盛り上がってきたのか二人の声が高くなり始める。二人の他に客はひとりしかいないのでさして気にすることもない。仕切られた奥の席へちらりと視線を遣る。
 食事は終わっただろうか。もう少ししたら皿を下げてドルチェを出してやるかと食器棚へ手を伸ばす。カウンターの客の話は続いていた。

「でも英語だけじゃなくて、もう、なんつ―か、歌が上手い!」
「上手いのもあるし、人の心をがっつり掴むよな」
「確かに。あいつのライブを初めて聞いたときは面食らったな。緊張してめちゃくちゃおどおどしてた奴からこんな歌が生まれるなんて信じられなかった」
「馬鹿だなマスター、あの守ってあげたくなるとこが最高にカワイイんじゃん!」
「…………てめぇに言われなくてもそんなん分かってんだよ」
「ん?何か言った?」
「いや、別に」
「あ、そんなことよりマスターさ、春歌ちゃんのライブいったことあるんだ。うらやましいな―」
「え、え。なになに、生春歌ちゃん?可愛かった?可愛かった?」

 思わず口を挟んでしまったことに軽く後悔した。完全にこの二人は出来上がってしまっている。酔っ払いの相手ほど面倒なものはないと十分理解していたはずなのに。心の中で盛大に舌打ちをしながら、仕方なく蘭丸は話してやることにした。
 デビュー前に近所のジャズ喫茶で春歌がライブをしていたこと、ライブだけでなくセッションも見たことがあるということ、そしてそこでピアノも弾いていたこと。
 記憶を辿りながら話していくと、酔っ払い二人がにやにやと笑っていることに気付いた。

「んだよ、気持ちわりぃな」
「いや、マスターめっちゃ春歌ちゃんに詳しいなと思ってさ―」
「インディーズ時代のそんな話まで知ってるとかさ、筋金入りだねマスター!」
「でもコワモテのマスターが春歌ちゃんファンとはね―。人は見かけによらないね―」
「しょ―がない。春歌ちゃんはカワイイから。しょ―がない」
「そりゃ詳しくもなるよな―」

 こいつら面倒くせぇ。はっきり言ってやろうかと思った。馬鹿にされたのも気に食わない。だが相手は一応客であり酔っ払いだ。まともに取り合って馬鹿を見るのはこっちなのだ。
 だが黙ったままでもいられない。春歌のことに詳しくて何が悪い。あいつはおれの女なんだ、当然だろ。そんなことを考えながら、蘭丸は奥の席に目を遣る。そして。

「まぁ、おれは春歌を愛してるからな」

 はっきりと告げれば、カウンター席の二人がひゅう、と口を鳴らした。ファン心理がどうたらと再び盛り上がり始めた二人の声の向こうで、蘭丸の言葉を正しく理解した誰かが小さくむせて顔を赤く染めていたことを、蘭丸だけが知っていた。




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