マイ・ガールと呼べなかったきみへ




「ぐっも―に―ん!世界のれいちゃん華麗に推参!おっじゃまっしま―っす!」
「おう、邪魔だ。帰れ」
「ひっど!わざわざ訪ねてきたお客さんに対してその言い草はひどいんじゃないのー!?」
「何の連絡も無しにいきなり押しかけてくる奴を客とは言わね―よ!」

 玄関から賑やかな声がする。耳を澄ませば、上がる上がらせない上がらせて帰れと、まるで漫才のようなやり取りが成されている。リビングのソファでその声を聞いた春歌は、思わずくすりと微笑んだ。
 よいしょ、と小さく口に出し、立ち上がる。だいぶ重くなった腹に手をやりながら、春歌は客人を迎えるべくドアへ向かった。突然の訪問だったが、嬉しいことに代わりはない。
 廊下とリビングを繋ぐドアへ向かう間にも夫と客人、つまり蘭丸と嶺二の舌戦は続いている。二人分の足音に混じって聞こえるそれはとても楽しそうだ。そんなことを口にすれば、夫は顔を歪めてしまうのだけれども。なんだかんだ言いつつ、仲がいいなぁと春歌は思う。そうして笑みを深くした。
 春歌の手がドアノブに掛かろうかというその瞬間、ドアが開かれた。春歌のいる側から外へと勢い良く跳ね、思わず手を引っ込める。同時に漏れた短い悲鳴に、ドアを開けた人間も驚きの声を上げた。

「おわぁっ、後輩ちゃん!びっくりした―!」

 ドアを開けたのは家主である蘭丸ではなく、客人である嶺二だった。甘いチョコレート色の髪が至近距離に現れ、春歌は再び悲鳴を上げそうになる。それをどうにか耐え、驚きに目を丸くしている嶺二に慌ててお辞儀をした。

「こ、こんにちは」
「はろーん!いや―、元気そうで何より何よりぃ!」
「嶺二てめぇ!先行くなっつっただろ―が!あと人の嫁さん驚かせてんじゃねぇよ!」

 ぱあっと表情を明るくさせた嶺二の後ろには怒りに顔を歪めた蘭丸が立っていた。何故か春歌に握手を求めてきた嶺二の頭をその大きな手で掴みあげ、リビングへ入ってきた。蘭丸よりも若干身長の低い嶺二は成すすべもなく引きずられている。

「痛い痛いって!れいちゃんのピンク色の脳細胞が!絶滅のピンチ!んぎゃ――!」

 それほど力が入っているようには見えないのだが、痛いと主張する嶺二の声はマジだった。こうなると仲が良いなぁなどと悠長に構えていられない。ドアを閉め、二人の後を追った春歌はわたわたと蘭丸に声をかける。

「ら、蘭丸さん……寿先輩、本当に痛そうです……!」
「痛くしてんだから当たり前だ。いっそこのまま追い出すか。うるさくてかなわねぇ」
「ひどいランラン!後輩ちゃんとのスーパーラブラブバカップルタイムを邪魔されたからって!れいちゃん泣いちゃう!あっちょっいやもうマジで涙出る痛すぎて!あっ三途リバーとお花畑が見える気がするあははうふふ」
「寿先輩!?寿先輩―!!……だめです、蘭丸さん!」





 という一悶着の後、三途の川を渡らされかけた嶺二を救い出した春歌は再びソファに座っていた。ガラスのローテーブルを挟んで向かいに嶺二が、春歌の隣には蘭丸がいる。
 ひとしきり互いの近況について報告しあった。嶺二は新曲や新ドラマ、最近会えていない先輩や春歌の同期の話を身振り手振りを交えつつ話す。三十を迎えたというのに変わらぬ明るさと調子につられるように春歌も己の状態を話した。

「そっかそっか、順調みたいで何よりだよ!実はちょっと心配してたんだよね〜どっかの誰かさんが後輩ちゃんのこと全っ然話してくれないからさ―。後輩ちゃんを独占したいからってほんとケチなんだから!ぶ―ぶ―!」
「えっ、そうなんですか?」
「あれはてめぇの聞き方が悪ぃんだよ!あんな質問に答えてやる義理はねぇ!」
「じゃあ後輩ちゃんに直接」
「聞いたらぶっ飛ばす」

 再び剣呑さを帯びはじめた蘭丸の言葉に、嶺二は降参のポーズを取った。先程の痛みを思い出したのか、その笑いはとても苦い。嶺二が聞きたがったとかいう質問の内容は気になるが、夫の表情を見ると突っ込まない方がいいのだろうと悟った。
 それにしても蘭丸さんがここまで不機嫌になる質問とは一体何なんだろう。口には出さずにそんなことを考えていると、嶺二がいきなりその身を起こした。膝の辺りに両肘をつき、手の平で顔を支え、にっこりと微笑む。

「しばらく見ない間に大きくなったね、お腹」
「はい。最近ではよく蹴っ飛ばされます。とっても元気がいいんです、この子」
「そっか、じゃあきっと男の子だね」
「ふふ、それかおてんばな女の子かもしれません」
「ううん、ぼくは男の子だと思うな。きっとそうだよ」
「……ずいぶん自信があるみてぇだな」
「勘、だけどね。……ああ、でもやっぱりすごいな。そのお腹の中にひとがいるんだよね」

 そう言って嶺二は笑みを深くした。テレビや舞台で見せるものとは違う、淡い笑顔。慈愛に満ちた、優しい優しいそれに、きゅうと胸を締め付けられる。何故か、涙が溢れそうになった。どうしてそう感じるのかは、全く分からなかったけれど。

「ね、ちょっとだけ触らせてもらっていいかな?」
「はい、いいですよ」

 春歌が頷くと、嶺二はありがとうと礼を述べ、ソファから立ち上がった。春歌の傍に寄り、膝立ちになる。触れやすいように春歌が嶺二の方へ体を向けると、嶺二はそっとその手を伸ばしてきた。
 嶺二の触れ方は、壊してしまわないかとどこか不安そうで、けれどとても優しい。蘭丸の触れ方とはまた違った優しさに春歌は知らずのうちに目を閉じていた。心地好い。
 このままの時間が続いたらまどろんでしまいそうだと思った瞬間、不意に空気が動いた気がした。ぱちりと目を開けると、先程よりも嶺二の顔が近くにある。嶺二と目が合う。彼は、とてもいい顔で笑い、そして――

「春歌ちゃんのお腹の中のベイビーちゃん、聞こえるかな?」

 こう宣った。



「ぼくが本当のパパだよ―!」



「…………えっ」
「嶺二ぃいいいいい!!てめぇえええええ!!」
「んぎゃあ!っちょ、暴力反対!ただのお茶目な冗談なのに!」
「ふざけんな!冗談でもそれは許せねぇ!三途の川の向こうに送ってやるから覚悟しやがれ!」

 春歌が驚きにぱちぱちと瞬いた間に、春歌の前から嶺二の姿は消えていた。蘭丸がどつき倒したのである。春歌に衝撃が行かぬよう、嶺二だけをピンポイントでどついたのは器用というかなんというか。なんだかもう春歌は笑うしかなかった。
 結局そのまま嶺二は蘭丸によって家を追い出されたのは言うまでもない。



_____



「二度と来るな!」
「また来るね!」

 ランランとそんなやり取りをしてふたりの家を後にした。乗ってきた車は少し離れた位置にある駐車場に止めている。徒歩10分くらいの道をできるだけゆっくり歩いた。
 道すがら思い出すのは、ついさっきの出来事だ。幸せそうだったなと素直に思う。口には出さないけれど、ランランの視線やさりげない手の動きは彼女を気遣っていた。彼女に向けられる笑みも、なんというか、愛に溢れていて。ああ、本当にランランは彼女のことを愛しているんだなと思った。
 彼女も本当に幸せそうだった。いや、実際幸せなんだろう。こっちまで笑顔になるあの笑顔は、日常的に幸せを感じていなければできないものだ。愛して、愛されている女の子の笑顔だった。ずっとぼくが見たかった、その笑顔だった。

 ぼくは、彼女のことが好きだった。可愛い後輩に向けるのとは、少しだけ違った色味のそれに気付いたのは彼女と出会ってだいぶ時間が過ぎた頃のこと。何よりも鮮やかに咲いたその感情は、けれど実を結ぶ前に摘み取られた。
 彼女の心は、ぼくが自分の想いを自覚したその時にはランランのものになっていて。ぼくが付け入る隙なんて1センチメートルも残されていなかった。もっと早く出会えていたら、彼女が選んだパートナーがぼくだったら、ぼくにもう少しだけ彼女と向き合う勇気があったら。そんな「もしも」を連ねた日もあった。それももう、ずいぶんと昔のことだけれど。

 彼女は誰よりも大切にしたかった女の子。何よりも傍にいたかった女の子。彼女をマイ・ガールと呼べる日はこれからも永遠に来ない。それでも、ぼくにとって彼女は大切な女の子だ。今はただ、幸せであってほしいと思う。そうでなくちゃ困る。
 いや、ぼくがそんな願いをしなくても、きっと彼女はこれからも幸せであり続けるんだろう。彼を愛し、彼に愛されて。奇跡の結晶を生んで。そうして幸せを繋いでいくんだろう。

 駐車場に着き、愛車に近付く。車内に乗り込んで鍵を回した。バックミラーとシートベルトの確認も終える。すん、とひとつだけ鼻を鳴らして、ぼくは車を発進させた。



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