魔法の二分間の話




 7月6日、23時59分きっかり。

 たまたま見上げた時計の針が示す時間に、友千香は思わず苦笑をこぼした。
 あと1分で日付が変わり、迎えるのは7月7日、七夕である。天にまします男女の星が年に一度の逢瀬に心躍らせるこの日は、友千香にとってもうひとつ意味のある日だった。あと一分足らずで彼女はひとつ歳を重ねる。そう、誕生日、だ。

 時計に向けていた目を窓の外へと投げる。出来の悪い鏡のように室内の様子をぼんやりと映し出すガラスの向こうは雨だった。
 この様子だと七夕の夜も降り続けるだろう。年に一度しか会えないのに、と暗い色をした空を窺う。窓ガラスを滑っていく雫は織り姫の涙なのかもしれない。

(泣きたいのはあたしも一緒なんだけどね)

 小さなため息が落ちた。室内の喧騒に吸い込まれていったそれを気にする者はなかったが、友千香は慌てて口を引き結んだ。
 今、部屋の中ではドラマの打ち合わせが行われている。本来ならば二時間前には終了しているはずの打ち合わせであった。
 他の収録が押したため演出とディレクターが一時間遅れてやってきたのと、何故か脚本と主人公を勤める女優との間に激論が勃発したのとが原因で、予定の時間を大幅に越えてしまっている。
 今は休憩の時間だった。だと言うのに言い合いを止めない脚本家と女優、打ち合わせがちっとも進まないことに苛立つ製作陣、マイペースな役者たち、見るからに胃痛を起こしていそうなAD連中…はっきり言って居心地が悪い。新人アイドルの友千香が意見を差し挟めるような空気など存在せず、ただ早く終わってくれるのを待つしかなかった。

 主演女優の金切り声が響いた瞬間、見上げた時計が0時を打った。7月7日の到来と同時にポケットの携帯が震えた。取り出して確認すると、メール受信を知らせる画面に踊るのは『七海春歌』の四文字だった。

『お仕事中にごめんなさい。
 トモちゃん、誕生日おめでとうございます。誰よりも先にお祝いしたかったのでメールしました。
 トモちゃん、生まれてきてくれてありがとう。トモちゃんと出会えて、わたしは本当に幸せです。元気いっぱい踊るトモちゃんも、自由に歌うトモちゃんも、頼りになるトモちゃんも、優しいトモちゃんも、みんなみんな大好きです。そんな大好きなトモちゃんがこれからも元気で、楽しく、幸せでいられることを祈っています。
 きちんとしたお祝いはまた改めてさせてね。では、お仕事がんばってね。
 春歌』

 それは、ふわっ、と体が軽くなるような感覚だった。絵文字も顔文字もない、シンプルなメール。文面だって凝った表現がされているわけでもないし、ありきたりな言葉ばかりと言ってしまえばそこまでだ。
 けれど、そこにこめられたのは紛れも無い親愛の情。春歌が友千香を想って打ってくれたことが感じられた。理路整然とした理由なんて説明できないけれど、春歌の想いは確かに届いた。無機質な電子の文字が何よりも温かいものに思える。自然と、笑みがこぼれた。



「はい、じゃあ再開するよー。てっぺん越えたし、ちゃっちゃと進めるからそのつもりで」

 打ち合わせ再開を告げる声に、友千香は慌てて携帯をポケットへ戻した。席に戻り、資料に目を落しながら緩んでいた頬を引き締める。あのメールに力をもらえた。まだ頑張れる。
 相変わらず室内の空気は悪いし、雨も止みそうにない。けれど、さっきまで胸の内にわだかまっていた鉛色をした苛立ちは、0時1分を指した秒針と共にどこかへ去っていた。

 そんな、二分間の話。


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