その母、最強につき(3)




 青年は夜の空港をひた走る。

 人波を縫うように進むその影は外から見ても焦りに溢れていて、駅からずっと走り続けてきたにも係わらず、彼の走りは疲れを感じさせなかった。疲れを感じる余裕がなかった、とも言える。
 多くの人は風のように駆ける彼を見留めることはなかったが、やはりというか、幾人かが傍を行った彼を振り返る。テレビで見ない日はないと称されるアイドルのくせに、大した変装もせずに駆けてゆくのだから当然と言えば当然である。
 ねぇ、今の来栖くんじゃない?などと驚きの声を上げる若い女性もいたが、彼は気に留めることなく走り去った。切迫感溢れる彼の後ろ姿に、彼女たちが言い知れぬ何かを感じ、残念だけど邪魔しちゃ駄目だよねと彼を追うのを諦めてくれたことは、彼にとっての幸いであったと言えるだろう。彼は本当に良いファンを持った。
 本人は、まあ、それどころではなかったわけだが。

 多くの人を出迎え、見送る機能を持つ空港は、夜8時を迎えても人が減ることはない。途切れることなく響く搭乗開始のアナウンスや人々のざわめきの中で、翔は春歌を探していた。
 彼が焦っているのには訳がある。ゴーイングマイウェイを地で行く母に、大切な恋人を連れさらわれかけているという危機的状況に、彼はさらされていた。翔や春歌の仕事を知らぬ母ではないから、冗談だろうとも考えたが、母がやると言ったらどんなことでもやってのける人間だということも嫌と言うほど知っているため、彼はここにこうしている。
 二時間ほど前に交わされた冗談とも本気とも取れる母の言葉を思い出し、翔の眉間に綺麗な皺が寄った。

「何が…っ、男を見せろ、だよ…!くっそ…」

 短い息の間に独り言が漏れた。焦りと共に確認した時計は無情にも8時を越え、彼の母が乗る予定の飛行機が飛び立つ時間は刻一刻と迫っている。母の言葉とここに向かう電車の中で調べた情報が正しければ、搭乗開始時刻はとうに過ぎ、あとは出発を待つばかりだろう。
 だが諦めるわけにはいかない。春歌は自分にとって掛け替えのない存在だ。どんなに苦しいときも、仕事が辛いときも、春歌のことを思えば乗り越えられたし、何度も何度も支えられてきた。春歌からもらったたくさんのものを翔はまだ返していなかったし、何より春歌と離れたくない。あの淡い春の日だまりのような笑顔の、そばにいたい。
 だから、連れて行かせなどはしない。

「気に入ってるからって本人の了解も得ずに連れてこうとすんなよなちくしょうあの暴君め!」

 母に対する盛大な悪態を一息に吐いて、翔はスピードを上げた。ゲートの位置は把握できている。あと三分もしないうちに到達できるはずだ。既に搭乗を完了させてしまっている可能性は決して否定できないが、そこはどうにかする。
 不意に、もし春歌が自分の意志で母に付いて行ってしまうかもしれないという不安がせり上がってくる。絶対に有り得ないと思っても、絶対はないと冷静な自分が言う。左右に首を振り、翔はその考えを振り払った。もし春歌が本当に付いて行ってしまったとしても、どうにかすればいい話だ。
 具体的な考えはないが、どうにかする。そうでなければ男じゃない。



 せっかく、せっかく何ヶ月かぶりに春歌と揃って二日連続の休みを過ごせるはずだったのに、とエスカレーターを駆け上がりながら翔は思った。
 二日間の休みを勝ち取るために恐ろしく詰まったスケジュールと戦ったことなど母は知らないだろう。知っているかもしれないが、どちらにしろ翔の目の前から春歌を連れ去った事実に変わりはない。どちらにしろ許すまじお袋。
 翔の目が険を帯び、下りのエスカレーターを行く会社員風の男が何事かと顔を引き攣らせた。勿論、翔は気付かなかった。

 一方で、今日突然やって来た母が春歌を連れ去った理由に関して、安堵するところがなかったわけでもない。
 春歌が連れさらわれた後、程なくして現れた父親から成された説明は、自分と春歌の仲を母(と父)が認めていると十二分に理解できるものだった。春歌と恋人同士でいるのは自分と春歌の問題だし、家族の了承が得られないから春歌と別れるなどということも考えられないが、やはり嬉しく思わないわけがない。
 まあ、実際認めるも認めないもなかった。会わせろ会わせろと長い間やかましかった母に去年の今頃、引き合わせた春歌を一目見るなり全力で抱きしめた瞬間から、母は春歌を気に入っている。父にしても春歌と交流があり、良い娘さんだねと言われたこともあるから、間違っても反対などされるはずはないのだが。
 しかし、母が春歌に「翔を頼む」と言うためだけに春歌を奪って行ったとは考えづらい。どうせ春歌とデートがしたかったとかそんな理由が八割を占めていたのだろう。
 女子会、などという言葉も脳裏を過ぎったが、アレを女子と呼ぶのは女子に対する冒涜だと母本人が聞いていたらジャイアントスイングを決められそうなことを考えつつ、翔は最後のコーナーを右に折れた。

「春歌…っ!」

 その先に、目的地である5番ゲートがある。








 春歌は誰かに名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。きょろりと視線を巡らせるが、そこにいるのは旅立ちに向かう人ばかりで、春歌の待ち人の姿はない。そうだよね、ありえないよねと自分に言い聞かせながら、春歌は再び柱に寄り掛かった。
 どんなに頑張っても翔の部屋からこの空港まで二時間は掛かる。それも乗換駅で1分ほどの間に駅の端から端までを移動するという離れ業をやってのけるか、何かしらの理由で空港までの電車が遅れるという幸運に出くわさなければ、二時間で辿り着くことはできない。翔の姿が見えるのは、早くともあと20分後だろう。

「早く、会いたいな…」

 口から、そんな言葉が零れ落ちる。翔の母は15分ほど前に搭乗口の向こうへ消えた。彼女は、次に会うのは結婚の挨拶の時だな、などと口にして別れの切なさを吹き飛ばしてくれたけれど、賑やかな人が側からいなくなれば、自然と寂しさが込み上げてくる。
 昼食を取った店で彼女と交わした約束のこともあるからか、春歌は翔に会いたくてたまらなくなった。

 搭乗がほぼ完了したゲートの前は、周りに比べて人通りが少ないように感じられた。規則正しいを刻む腕時計の秒針さえ聞こえてきそうな静寂がはたりと降ってきた瞬間。

「春歌っ!」

 切迫した叫びが聞こえた。ぱっと顔を上げた春歌の目に、待ち望んだ人の姿が飛び込んでくる。
 ブーツの音を高く響かせ、あっという間に春歌の前に立ったかと思うと、彼はそのままの勢いで春歌を抱きすくめた。よろりと傾ぎかけた春歌の身体を上手く引き戻して、腕の中に閉じ込める。

「し、翔くん…!?」
「無事か!?お袋に何もされてねーな!?ナンパとかされなかっただろうな!?」
「だ、大丈夫、翔くんのお母さんにはとってもよくしてもらったし、ナンパなんてされないよ、大丈夫…」

 焦った様子の彼を安心させようと呟いてみるも、更に強く抱き込まれてしまう。あと20分は現れないと思っていた彼が姿を見せただけで十分驚いたというのに、突然抱きしめられ、混乱する。どうやって1分を埋めたのだろう、ナンパなんてされるはずがないのにという思いが、空港内の遠いざわめきと混じりあってぐるぐると頭の中に渦巻いた。
 しかし、全身に感じる翔の力強さに、驚愕に邪魔されていた実感が沸き上がってきた。ふわふわと光が立ち上るように、ゆっくりと。
 翔が姿を見せるまで感じていた寂しさはどこかへ消えてしまっていて、ほっと力が抜ける。翔の背中に手を回すと、強張っていた肩がすとんと落ち着くのを感じた。確かめるように抱きしめていた腕の力が、包み込むようなそれへと変わる。

「大丈夫、大丈夫だよ。私はどこにも行ったりしない。翔くんの隣に、ずっといるから」
「うん…うん、分かってる…分かってたけど、愛想尽かされたらどうしようって…なんか、不安になっちまって…」

 春歌が無事だって思ったらどうにも止まらなくなったと呟く彼に、春歌はぎゅっと抱き着いた。

「言ったでしょう?私が翔くんを嫌いになるなんて、有り得ないよ」

 いつか、彼がくれた言葉を口にすると、彼が笑んだ気配がした。



 部屋までの道を並んで歩く。午前0時に近付いた夜の町に人影はほとんどない。どちらかともなく絡んだ指は、しっかり繋がれている。

「それで、翔くんのお母さん、この棚のここからここまで全部、なんて言うからお店の人がびっくりしてました」
「あー…大人買いってやつか?ったく何やってんだか…」

 今日起こった出来事を翔に話す。春歌が口にする彼女の突拍子もない行動のひとつひとつに、翔は呆れや怒りを露にしていたが、洋食屋での一件を話すと苦笑を零した。

「俺を幸せにしてやってくれ、ねぇ…」
「うん」
「お前といれば俺は幸せだけどな。それに…もしとんでもない不幸に襲われたとしても、お前となら歩いていける。だから無用な心配だっつーの」

 深く指が絡まる。返事の代わりに、とん、と翔に身を寄せた。心地好い静寂が包み込む。

「あっ、そうだ!伝言を頼まれているんでした!」
「…伝言?」
「はい!あのね、早く孫の顔が見たいって」
「はぁあああああっ!?」

 深夜の町に翔の叫びが響く。春歌が目を円くしたのをに気付いた翔は声をひそめたが、動揺までは抑えられないのか頬を引き攣らせている。

「えっと、まだ続きがあってね」
「まだあるのか!?」
「うん。『どうせお前のことだから、まだ一線を越えてないんだろう?鋼の理性もそろそろ限界じゃないのか?そんなお前にお母様が素晴らしいアドバイスをしてやろう』えっと…『とっとと結婚しろ、そうすれば問題解決!思う存分励め!』って」
「〜〜〜〜〜っ!」
「翔くん?」

 ぶるぶると翔が震える。春歌は励むって何をなのかな、と聞きたかったのだが、翔があまりにも凄まじい形相を見せるので口にするのは止めた。

「ああもう!!お袋の奴ー!!余計なお世話だっつーのー!!」

 夜の町に翔の叫びが響いた瞬間、すべての時計が午前0時を告げた。長い長い一日が、こうして終わったのであった。


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