諦める
・監禁(軟禁)ネタ
・性行為をほのめかす表現あり
・苦手な方はご注意ください
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高く、白い天井を見上げる。染みひとつ汚れひとつないそれは、その部屋と建物が新築であることを伝えていた。
ぼんやり、と。わざと焦点をぼかしてみても目の前に広がるのは白ばかりで、春歌の目をちかちかと刺激するだけだった。ゆっくり目を閉じ、上へ傾いでいた頭を正面へ戻す。微かな祈りを込めてそっと目を開くが、やはりそこに広がっていたのは真白な部屋だった。
真白なソファー、ガラスのテーブル、白いキッチンテーブルに白のテーブルクロス。春歌が身につけているワンピースも、冷蔵庫も食器棚も戸棚もシンクの蛇口も、すべて白に染まっていた。透明な光が差し込んでくる天窓も、周りは白い壁で覆われている。ちかちかと、眩暈がするくらい白い部屋だった。直視していられなくなって、春歌は微かに目を伏せた。
春歌は身を預けていたソファーから離れ、窓際へ近付いた。白いレースのカーテン、その向こうに目を遣る。
そこにあるのは青い空と緑の庭だった。何の変哲もない、ありふれた風景だったが、春歌はそっと微笑んだ。白に焼かれた目を、外の風景が癒してくれる気がした。
春歌がこの部屋にやって来てから一週間ほどの時が経とうとしていた。本当はもっと長い時間が経っているのかもしれないし、あるいは短いのかもしれない。カレンダーもテレビも時計すらないこの部屋は徐々に春歌から時間の感覚を奪っていった。
窓の外の光景から昼なのか夜なのか、大まかな時間は分かるが、眠りに支配される時間が多かったので、細かな時間まではもう分からなかった。
今日も目が覚めたのは昼だったけれど、寝入ったのも昼に近い時間だった。一日寝てしまったのか、それとも寝入ったのはほんの僅かな時間なのか分からない。全身に広がる怠さは寝不足の日のそれのようであり、健康的な睡眠時間を大幅に越えた日のそれであるようにも思われた。
そのどちらでも大した変わりはない。春歌が感じる肉体的な疲労は確かに存在するものだったし、時間の感覚が蝕まれていくのも大した問題ではないように思われた。
今いちばん大切なのは、きっと彼をこれ以上傷付けないことだから。
春歌は窓についていた手を離すと、窓辺にある「それ」に目を遣った。家具の少ない部屋に鎮座するそれは、真っ白なグランドピアノだった。
滑らかな光沢に艶光る蓋をひとつそっと撫で、鍵盤に向かう。現れたのは、白い鍵盤と、黒鍵代わりに収められた透明な鍵盤だった。
ぽーん、何気なく叩いたFの音が白い部屋へ吸い込まれていく。音とその余韻を喰らい尽くして、部屋には再び静寂が訪れた。春歌は鍵盤に乗せた指を躊躇わせ、結局それ以上何の音も紡がずに膝の上へと戻した。
「……弾かないの?」
静かな部屋に、声が響いた。
春歌はぴくりとその声に反応し、ゆるゆると顔を彼に向けた。玄関と部屋を繋ぐドアを開けた状態で、彼はそこに立っている。そこで初めて白い部屋がいつの間にか夕闇の赤に染まっていたことに気付く。
彼はにこりと微笑みながら、後ろ手でドアを閉じた。かちり、と響いた音は、ドアがロックされた音だと、春歌は知っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま、春歌」
微笑みの形に口の端を持ち上げ、春歌は彼を迎えた。ぱたぱたぱた、軽快な音を立てて近付いてきた彼は、春歌を後ろから抱きしめ、もう一度帰宅の意を表した。
「はぁ、今日も疲れたー」
「お疲れさまです。何か食べますか?」
「うん。でも、お風呂が先かな。…一緒に入る?」
悪戯っ子のような笑みが浮かべられる。春歌が返答する前に、彼は冗談だよと笑い声を上げた。確かな笑みを湛える赤い瞳の奥に、虚ろな白が見えた。
白いベッドが悲鳴を上げる。シングルサイズのそれは二人の行為を支えるには足りず、春歌の嬌声に呼応するように鳴いた。
息苦しいほどの重い空気をはくはくと取り入れる春歌の肺は、彼の手に押し潰される。やわりと優しく、丁寧に。少し伸びた彼の人差し指の爪が先端を掠めると、春歌の口から甘い声が上がった。
彼は甘く切迫した声で春歌を呼ぶと、再び、春歌の肺を押し潰した。呼吸が苦しくて、甘かった。
意識が覚醒する。白い部屋は夕闇の赤に染まり始めていた。
彼の姿はない。気配もなかった。春歌が寝入っている間に行ってしまったのだろう。肩から滑り落ちたシーツを手繰りよせ、春歌は赤子のように丸まった。
ぼんやりと今朝のことを思い出す。闇に沈んでいた部屋に薄く光が射し始めた頃、彼はやっと春歌を解放した。指一本動かすのも億劫な疲労、荒い呼吸と白み始める意識の中、春歌は彼の声を聞いた。
「愛してる、愛してるんだ…春歌…」
ぱたぱたとシーツに降り注いだのは、透明な涙だった。彼の囁く愛の言葉が、どうしてだろう、赦しを欲しているように聞こえた。
彼を慰めたくて手を伸ばそうとするけれど、力の入らない微かにシーツを引っ掻くだけ。せめてと細めた瞳に、彼は何を見たのだろう。赤い目を後悔に歪めて、彼は春歌をかき抱いた。縋る体温の心地良さに、春歌はそっと意識を手放した。
白に染まる部屋の隅、春歌はそっと目を閉じた。次に見るのは幸福な夢がいい。あの学園で過ごした記憶のような、騒がしくも愛しかったカラフルな夢を。
そして彼女はことりと夢路に落ちた。
(屈託なく笑う貴方に恋をした)
(伸びやかに歌う貴方に恋をした)
(淡く細められた目に、君と生きたいと願ってくれた唇に愛を感じた)
(けれどもし、あの愛しい日々のどこかに間違いがあったなら、正すのがわたしたちのためだったのかもしれない)
(ああ、でもそれは、叶わぬ夢)
(永遠に叶わぬ、カラフルな夢)
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恋する動詞111
3.諦める(音春)
thanks/確かに恋だった
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