その母、最強につき(2)




 機嫌の良い太陽が、天の頂上で明るい光を散りばめる頃、とある洋食屋で春歌は困っていた。
 目の前には優雅な所作で箸を巧みに進める女性がいて、今日のおすすめランチ・Aセットを口に運んでいる。その食べっぷりを見て、本当にお変わりないなぁと思いながら、春歌は手にした携帯をちらりと確認した。
 テーブルの下に隠すように握るそれは、2時間ほど前まで引っ切りなしに震えていたのだが、10時30分を過ぎた辺りで沈黙した。勿論、電話が掛かってくる度に春歌は通話しようとしたのだが、どうにもタイミングよく目の前の彼女、翔の母に話し掛けられたり、店に引っ張り込まれたりして、結局一度も電話に出ることができなかった。
 トイレに行ってこっそりとかけ直そうと思っても、彼女はならば私もなどと言い出して、ついて来た。一人になる暇も隙もない。
 もっと強引に電話に出ると断ってしまっても、彼女なら気にしなさそうだとは思うが、電話の相手が相手なのでどうにも躊躇われる。指揮者である彼女の耳が、翔の声を拾ったら二回目の(一方的ではあるが)喧嘩が始まりそうだとも思ったし、何より春歌は彼女に嫌われるような真似をしたくなかった。
 この人は、愛する翔の母親であり、数年と経たぬ内に春歌の義理の母となる(…予定の)人なのだ。できれば、気に入ってもらいたいと思うのは至極当然のことだろう。

 春歌は豪快な食べっぷりを見せる彼女から、再び携帯に目を落とした。電話が来なくなってから2時間。彼は今何を思っているだろう。呆れられてしまっただろうか。
 そんなことを考えていれば自然と箸は進まないもので。

「どうした、食べないのか?遠慮することはない。ここは私のおごりだ」
「ととととんでもないです!というか先程たくさんお洋服を買っていただいたのにこれ以上お世話になんてなれません…!」

 今、壁を背に座る春歌の横にはアクセサリーショップの小さな紙袋と、マカロンの詰め合わせが収められた有名洋菓子店の紙袋の二つしかない。だが、今までの彼女との「デート」で購入したものはなかなか膨大な量に及んでいる。
 彼女が贔屓にしているブランドの新作ワンピースにフレアスカート、春歌お気に入りのショップのボレロやミニスカート、他にも人気ブランドのチュニックやシャツといった衣類、帽子やイヤリングなどの装飾品、果ては下着類まで…明日、部屋に届く予定のそれらを思い、春歌はくらくらと眩暈を起こしそうになった。値段の計算は怖くなって途中で放棄したが、一万や二万で済む話ではないことは想像に難くない。
 一般庶民の家庭の出の春歌は、最初の店でブラックカードを取り出した彼女に縋り付いて必死で止めようとしたのだが、「可愛い女の子を可憐に着飾るのが私の夢だったんだ」と幸せそうに言われてしまっては引き下がるしかなかった。
 そんな事情があったため、春歌はこの店の会計は自分が行おうと決めていた。サラリーマンやOLたちだけでなく、学生にも人気のあるこの洋食屋は安価だがとても美味しいものを出す。
 だから、自分の財布からでも十分に支払いができるのだが。彼女はさも当然といった様子で、自分が払うと言い放った。申し訳なさすぎてあわあわと手を振る春歌に、彼女は、ふっと涼やかな笑みを向けた。

「そんなことは気にしなくていい。君は私の娘みたいなものだ。娘が親に遠慮することなどない」
「む…むす…!?」
「ああ、そんなに気になるならこうするか?立て替えておいたということにして全部翔に払わせて…」
「だだだだダメです!それこそ申し訳ないです!」
「あいつなら喜んで払いそうだが…というかむしろそこで支払いを渋ったりしたら男ではない!」

 男とは何たるかと熱く語り始めた彼女を前に、残してきてしまった恋人を巻き込まぬよう、春歌が「分かりました、ご好意は有り難く頂戴いたしますので、せめて!せめてわたしの分の食事代だけは支払わせてください!お願いします!」と頭を下げることができたのは、それから15分後のことだった。





「気になるか?」

 すでに食事を終えた彼女が不意に問い掛けてきた。
 お待たせするわけにはいかないと、いつもより速いペースで料理を口に運んでいた春歌は、慌てて返事をしようとしてフライを喉に詰まらせた。水差しを手に春歌のコップに水を注ぎ入れながら、彼女は私のことは気にするなと苦笑する。

「君のペースで食べろ。君の食事風景を見るのもなかなか楽しいからな。気にする必要はない」
「あ…ありがとうございます…?」

 ようやくフライが喉元を滑り落ちていくのを感じ、春歌はぺこりと頭を下げた。食事を再開しつつ、先程の質問の意味を問い直せば、彼女はずばりとその名前を口にした。

「翔のことだ」
「えっ…あの…っ」
「分かっていたさ。ずいぶんと引っ切りなしに電話が掛かっていたことも、君が携帯を気にしていたことも、不安そうな顔をしていたことも」
「すっ、すみません!」
「謝る必要はない。君の色んな表情が見られるのは嬉しかったし、こちらも説明していないことがあったからな」

 長く美しい指がグラスを撫でる。その動きをつい目で追ってしまい、慌てて春歌は彼女に目を戻した。

「今日、ここに来るときに乗った車、覚えているな?」
「はい、その…翔くんのお父様の…」

 翔の母に連れ出された寮の外に停まっていた白い普通車を思い出す。手を引かれるまま乗り込んだその乗用車、運転席でステアリングを握っていたのは、翔の父親だった。
 緩やかに発進した車内で、彼とは再会の挨拶を交わした。そこで、本当は自分も買い物に付き合いたかったのだが、この後やることがあり、申し訳ないけれど彼女に付き合ってやってほしいと頼まれたのだが。

「実はな、やることとは翔のフォローだったのだ」
「え…?」
「私たちをここに降ろしたあと、彼には寮まで戻ってもらって翔に説明をしてもらった。だから翔からの電話が止まったんだよ」
「説、明…ですか?あの、何の…」
「私は今日の夜、日本を発つ」

 軽い調子で述べられた言葉に、春歌は眉を下げた。なんだかんだと言いつつも、彼女といるのは楽しいのだ。ショッピングも食事も、会話も。

「そう、だったんですね…次は…いつ?」
「一年は戻らない。もう少し延びるかもしれない。だから、今日は翔に譲ってもらった。翔への説明というのはその辺りの話だ。…君にどうしても話しておきたいことがあった、ということも伝えてもらった」
「わたしに…ですか?」
「ああ。…七海くん。いや、春歌さん、君にお願いしたいことがある」

 切れ長のブルーの瞳が優しく瞬いた。その顔は、世界にその名を轟かせる指揮者のものでも、闊達に笑う小気味のよい女性のものでもなく。ひとりの母親のものだった。

「あいつを、翔を頼む。至らないところばかりの餓鬼だが、君を想う気持ちだけは本物だ。必ず、君を幸せにするだろう。…というかむしろ君を不幸にするようなことがあったら男ではない!…なんて、な」
「……」
「だから、春歌さん。君は幸せになって、そして、できればあいつのことも幸せにしてやってくれ。あれでも可愛い息子でね。女の子の君に男の幸せを託すのはナンセンスかもしれないが……」

 この通りだ、と頭を下げた彼女に、春歌は声を掛けようとしたが、上手くいかなかった。ああ、呆れられてしまうと思っても、喉につっかえて言葉が出てこない。視界まで霞んでいく。

 霞む景色の中で、彼女はとても綺麗に、笑った。





「さて、そろそろか」

 昼食を取った店を出てからしばらくして、翔の母はショッピングモールの時計を見上げた。時刻はまさしく午後6時になろうというところで、春歌が時計を見上げた瞬間、仕掛け時計が動き出した。
 彼女が呟いた「そろそろ」の意味はこれだったのかと思っていると、春歌の携帯が着信を知らせた。思わず彼女を見上げると、彼女はニヤリと笑い、出てやってくれと春歌を促した。
 すみません、と一言断りを入れ、携帯を開くと、そこに踊るのは予想通りの名前だった。

「も、もしもし」
『春歌!無事か!』

 些か大きすぎる翔の声に思わず携帯から耳を離す。その状態で大丈夫だよと応じようとしたのだが、気付くと携帯は春歌の手の中から消えていた。

「もしもし?愚息か?」
『お袋!?おい、春歌はどうした!』
「七海くんならここにいるぞ。それが何か?」
『それが何か、じゃねーっ!いい加減に春歌返せぇえええ!!』

 約束の時間は過ぎてるだろうがなんだかんだとぎゃあぎゃあと翔が電話の向こうで喚いているが、彼女はやはり涼しい顔をしている。翔の発言を右に左に流す彼女はそれはもう楽しそうな笑顔を浮かべていて、春歌は苦笑するしかない。

「いいか愚息、返せと言われると返したくなくなるのが人情だ」
『じゃあ返さなくていい、とでも言えばいいのか、だがことわ』
「そうか、ならば遠慮なく連れて行けるな」
『おいぃいいい!自分に都合のいいとこで口挟むなっ!』
「というわけで、私はこれから空港に向かう。無論七海くんも共にだ。しばらく私の仕事に同行してもらうか」
「えっ!?」
『おいっ、なんでんな話になってんだ!』

 翔の声が一段と高く跳ね上がった。春歌も予想外の展開に驚きの声を上げる。

「あっ、あの…!」

 この人はやると言ったらやる人だ。声を上げた春歌に、彼女は悪戯っぽい笑みを向けた。携帯を持つ手とは反対の人差し指を唇の前で立てる。そして茶目っ気たっぷりのウインクをいただいてしまえば、あと春歌にできるのは成り行きを見守るくらいのことだ。
 彼女の目が大丈夫だと言っているから、大丈夫だろう。多分。

「フフフ、彼女を返してほしくば私が20時13分発のドイツ行きに乗るまでに空港にたどり着くことだな」
『20時13分!?あと2時間しかないじゃねーか!』
「翔、男を見せろ!健闘を祈る!」
『待てっ、せめて出発が何番ゲートかくらい教え、』

 慌てた翔の台詞は無情にも消えていった。会話を終了させた彼女はご丁寧に携帯の電源をも落とすと、それを春歌の手に握らせた。
 しばらく電源は切ったままでいてくれ、と言った彼女の笑顔は、清々しい程に悪戯っ子のそれであった。




→ 3

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 次回で完結です。翔ちゃん、ファイト☆←


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