その母、最強につき(1)




 柔らかい光がよく磨かれたガラスから差し込む春の日に、それは起こった。

 休日の長閑な空気がひらひら届く部屋で、春歌はソファに身を預けていた。朝食後の心地好い満足感に頬を綻ばせ、ローテーブルを挟んだ向こうにあるテレビのスイッチを入れる。小さな音と共に画面に光が入り、映し出されるのは朝の情報番組だった。普段はあまり見ることのない番組に新鮮さを感じていると、快活なアナウンサーが喋る画面の隅でオレンジの数字がちょうど午前8時30分を告げた。
 画面が切り替わり、可愛らしい笑みを浮かべたお天気お姉さんが予報を口にする。背後に響いていた水音が止まるのを耳で確認して、春歌はお天気お姉さんの言葉を彼に伝えた。

「翔くん、今日は絶好の行楽日和ですって」
「降水確率は?」
「ゼロパーセントです!」

 それでは皆さん、素敵な休日を!と晴れやかな笑顔を振り撒くお天気お姉さんから画面はコマーシャルへと流れていく。
 春歌は手元にあったリモコンを操作し、他の番組へチャンネルを変えた。先程の番組で春歌がほしかった答えは十分に得られたけれど、なんとなく、もう一度確認したくなったのだ。
 先程の明るく親しみやすい情報番組とは異なり、三つ揃いのスーツを着こなす真面目そうなキャスターが映し出された。彼がニュースをよどみなく読み終えると、画面には天気図が現れた。今日一日の天気を読み上げるキャスターの声がどこか明るく響く気がしたのは、春歌の気のせいだろうか。
 その番組でも予報は全国的に晴れ、絶好の行楽日和になるでしょうという文句で締めくくられた。

「これなら雨に降られる心配はなさそうだな」
「ふふっ、そうですね」

 洗い物を終えた翔が春歌の隣に腰を下ろした。二人がけのソファが二人の体重を受け止めて軽く音を立てる。その音に吸い寄せられるように春歌は翔の肩に頭を預けた。右手と左手が、自然と絡み合う。

「さて、天気の心配もなくなったことだし。今日どうするか決めるか」
「そうだね…」

 間近に響く優しく甘い声に自然と微笑みが溢れてくる。なに笑ってんだよ、と軽く肩で押されるが、翔も嬉しそうにしているのはすぐに分かった。くすくすと笑みを零しながら、春歌はぽかぽか暖かくてくすぐったいものを感じた。

 春歌と、それから恐らくは翔も、朝から舞い上がっているのにはきちんとした理由がある。
 今日は、久しぶりに重なった共通の休日だった。しかも、今日一日だけのことではない。明日も丸一日、二人はオフだったりする。
 その休みを勝ち取るため、かなりスケジュールがガチガチに詰め込まれた日々を翔が送っていたというのは蛇足だが、とにかく、二人でゆったり二日間を過ごせるというのは学園を卒業してから初めてのことだった。ここ二ヶ月ほど、互いに忙しく満足に二人の時間を過ごせなかったという事情、休みを勝ち取るための必死の努力を加えれば、二人がふわふわ落ち着かなくなるのも至極当然のことだろう。

「最近ゆっくりお買い物もできなかったから…あっ、夏物をそろそろチェックしておきたいです!」
「あー、俺も新しいピアスと帽子見に行きたかったんだ。じゃあ、とりあえずはショッピングモールてとこか?」
「なら、ふたつ隣の市に先月オープンしたショッピングモール、あそこはどうでしょう?シネマも入ってるから映画も見られるんだって」
「映画か、いいな!気になるやつがあってさ」

 積み木を積み上げるように計画が形になっていく。映画を見たら買い物をして、ランチはショッピングモールの近くにある美味しいイタリアンを出す店に行って…
 計画を確認するように指を折っていった春歌は、不意に視線を感じて顔を上げた。そこにあったのは、少年の面差しをどこか残した、「男性」の優しい笑みだった。

「翔くん…?」

 二人で過ごせることに弾んでいた春歌の鼓動が、薄く色づく。何を考えるよりも先に感じた翔を想う心が、春歌の頬をも薄紅色に染めていった。

「うん…やっぱ、いいな。お前といるとすげー幸せだって、実感する」
「う、うん」
「ずっと……会いたかった。こんな風にさ、抱きしめたかったんだ」

 力強い腕に引き寄せられる。ほとんどゼロに近かった二人の距離がなくなって、少し角度を変えれば、触れてしまいそうだ。

「翔くん…?」
「キス、してもいいか…?」
「……うん」

 吐息が、重なる。鮮やかな青い目に見入られて、春歌はそっと目を閉じ―……











 ピンポーン











 ……ようとした瞬間、部屋にチャイムの音が響き渡った。二人の動きがぴたりと止まる。閉じかけていた目を開けた春歌は、チャイムに固まった翔に囁いた。

「…誰か、来たのかな」
「いや、一回なら気のせいかもしれ…」

 ピンポーン!

 翔の言葉を遮るように再びチャイムが鳴り響く。その音が先程より強く、重く聞こえたのは春歌だけではなかったらしい。翔もどこか嫌な予感を感じているようだった。形よい眉が思いきり寄せられる。

「こんな抜群のタイミングで邪魔してくる奴を俺はほぼ一人しか知らない…」
「ほぼ?」
「一人はあの眼鏡、もう一人は…いやでもあの人が来る可能性は低…」

 ピンポーン、ピンポンピンポンピンポンピンポーン!ピーンポーン!

「だーっ!もう、なんだよっ!最後まで言わせやがれ!…春歌、悪い。ちょっとあいつシメてくる」
「ええっ!?し、翔く…!」

 嵐のように(けれどどこかリズミカルに)鳴り響くチャイムの中、怒りに顔を歪めて翔はドスドスと音を立て、玄関へと向かった。
 リビングに残された春歌は、離れていく足音に耳を立てる。やがて足音は消え、ドアを思いっきり開け放つ音と、何の用だこのやろー!という叫びが聞こえ、そして。

「うぎゃあああああああああー!?」
 これ以上なく動揺した翔の叫び声が聞こえたかと思うと、ややあって何者かが廊下を進んでくる気配がした。ひとつは翔のものだろうか、二人分の足音はどんどん近付いてくる。
 だ、誰だろう。おろおろと傍にあったクッションを抱きしめ、慌てる春歌の前で、玄関に続く廊下とリビングを繋ぐドアが、ぱかりと開いた。

「…ああ、やっぱりいたんだな。愚息がえらい剣幕で出て来たからそんなところだろうとは思ったが」

 ドアを開け放ち、腕を組んで仁王立ちしていたのは、なんとも流麗な雰囲気を纏った女性だった。
 意志の強さを思わせる深い青色の瞳、すっと伸びた鼻梁、きめの細かい頬や落ち着いた色のルージュを引いた唇。それらがはっきりと描かれる輪郭の中に収まっていて、年齢を感じさせないが闊達さと独特の雰囲気を放っていた。明るいキャラメル色の髪をすっきりと後ろの低い位置でひとつに纏め、服装は白のカッターシャツにジーンズという簡素なものだったが、彼女にとてもよく似合っていた。
 すらりと背の高い彼女を見て、春歌ははっと目を見開き、そして顔を輝かせる。

「お久しぶりです!翔くんのお母さ…きゃっ!」

 台詞の途中で抱きすくめられる。爽やかなコロンの香りが鼻孔をくすぐった。

「元気だったか、七海くん」
「は、はいっ!えと、……さんも、」

 抱きしめられる胸の中で、くぐもりながらも翔の母である彼女の名を口にし、お元気そうでなによりですと続くはずの春歌の言葉。だがそれはまたしても遮られることとなった。彼女の後ろにいた翔に引き離されたからである。
 肩で息をする翔に、彼女はむっとした表情を見せた。

「何をする」
「それはこっちのセリフだっ!なんなんだ連絡もなしにいきなり現れやがって!」
「母親が息子に会いに来るのに理由がいるのか?つまらんことを気にするな、お前は。小さいぞ」
「理由はいらねーが連絡をしろっつってんだよ!あと小さくて悪かったな!これでも前会った時から5センチ伸びたんだよ!つかちいせぇとか言うな!」
「まあそれはさておき、うむ、……変わらないようで何よりだ」
「今、背ェ見て言ったな!?それに伸びたっつったばっかりだろー!」

 ぎゃあぎゃあとわめき立てる翔を、彼女は華麗にスルーしていく。春歌は何とか声を上げようとしたのだが、口を挟もうにも翔の勢いが凄まじくて言葉を挟む隙がない。
 おろおろと翔の背中と彼女の顔を見るばかりの春歌に気付いたのか、彼女は視線を寄越した。はたり、と目が合うと、彼女はこれ以上なく……そう、それはもうイケメンとしか表現しようのない笑みを浮かべた。相手は女性だというのに、何故か顔が熱くなる。

「七海くんは相変わらず可愛いな」
「え、ええっ!?」
「お袋!そーゆーのは止めてくれ!春歌困ってんだろ!」
「なんだ、七海くんを褒めるのにもお前の許可がいるのか?すでに旦那気取りとは…うむ、我が息子ながらあっぱれ」
「だっ…!?」
「だが詰めが甘いぞ、愚息」

 そう言ってひとつ笑うと、翔の母はひらりと体重を感じさせない動きで春歌の元に寄ってきた。あっとも言えぬ間に春歌は手を取られ、気付けば走り出していた。

「えっ?ええっ?」
「ま、待てっ!春歌をどうするつもりだ!」
「フフフ、七海くんは今日一日私が預かる。貴様は七海くんと過ごせぬ寂しい一日を送るがいい!」
「えっ!?えええええーっ!?」
「おいコラ!ふざけんなぁあああああー!」

 日曜の朝定番の番組のようなやり取りを交わす母と息子。理解の追いつかない真っ白な頭を抱えて、春歌は翔の母と共に部屋を飛び出すこととなった。近年稀に見る怒りを見せる、翔を残して。



 これが、後に来栖 翔をして「空は快晴なのに心は雷轟く土砂降り状態で過ごすはめになった」と言わしめた一日の、始まりである。







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 翔ちゃん、がんばれ。
 来栖母は私のイメージで書いてます。なんかイメージと違う!な方には申し訳ない…/(^0^)\


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