富松作兵衛の災難(前編)



「…なんだ作兵衛か…」

 突然そんな風に言われて、僕は少しむっとした。
 委員会のメンバーに分けようと、せっかく美味しいものを沢山買ってきたのに、門から学園内に入った途端、委員会の委員長にがっかりされるなんてあんまりだ。
 文句のひとつも言ってやろうと顔を上げて、やめた。
 門の前に仁王立ちしているその人の顔は、不機嫌に顰められていた。

「食満先輩、何やってるんですか?」
「お前こそ何してた?」
「俺は買い出しです」

 食料でいっぱいの紙袋を掲げて見せたものの、食満先輩は僕になんて構っちゃいなかった。
 僕を素通りして門を食い入るように見詰めている。
 誰かが続けて入ってくるのを待っているみたいだ。
 質問したくせに失礼だな。
 まあ、僕のことなんて何とも思って無いんだろうけれど。

「おい…、文次郎どこ行ったか知らないか?」

 予想された問いに僕は素知らぬ顔で返した。

「いや、知らないですけど…探してるんですか?」
「うんそう、探してるんだ」

 唇が少し尖っている。
 つまりさっきから探しているのに見つからないってことだ。
 見つかるはずも無い。
 潮江先輩は僕が帰ってくる途中、学園外の道端にしゃがんで、ボーっと空を眺めていた。
 こんな所でなにやってるんですか、声を掛けるとひとことだけ返された。

“留三郎に言ったら命は無いと思え”

 言いませんとも。
 僕だって命は惜しい。

「えっと…何処に行ったんでしょうね?」
「会計委員の奴らも知らないって言うんだ…」

 悲しげな顔に頷いた。
 そりゃそうでしょう、さっき田村先輩も口止めされてましたからね。

「誰に聞いても知らないって言うし」

 全員に口止めしていましたよ。

「一体、どこ行ってるんだ…?」

 あなたの居ない場所です。

「悪いけど探すの手伝ってくれないか?」
「すみません、僕、今から会計室前の壁の修理を…」
「あ、おい待て」

 そそくさと通り過ぎようとしたのに襟首を掴まれてしまった。
 覗き込まれて思わず視線を逸らす。

「何か…怪しいな…」

 ギク。

「お前何か隠してないか?」

 ヤバイ…。
 僕のとぼけ方が下手なのか、この人の勘が鋭いのか、判断に迷うところではあるけれど、兎にも角にも潮江先輩絡みのこの人の勘は侮れない。
 一度、単独鍛錬中の潮江先輩に巻き込まれ、夜通し連れまわされた事があった。
 翌日僕と顔を合わせるなり、“文次郎の匂いがする…”と食満先輩が言ったとき、正直この人は一種のストーカーなんじゃないかと思った。
 何をされたわけでも無いけど、一日中威嚇するような目で見られて、二度と潮江先輩と二人きりでは会うまい、と心に決めたのだった。
 今だって道端でちょっと会っただけの潮江先輩の痕跡をしっかりと見つけているらしい。
 なんて恐ろしいんだ……。
 僕はとにかくこの場をやり過ごそうと、気弱な、むしろ諂うような笑みを浮かべた。

「えっと、会計委員会の皆さんを待たせるわけにもいかないので、その、」
「お前、正直に言わないと…」
「ぐえっ」

 襟を引っ張られて潰れたカエルみたいな声が出た。
 グイグイ締め上げてくるその力に躊躇は全く感じられない。
 食満先輩にとっては僕なんて道端で配られるティッシュ程度の重要度なんだろう。
 どうせ言っても言わなくても酷い目に遭うなら、あっさり白状してしまおうか…そう思った瞬間。

「ほう、委員会の後輩を大々的に虐待か?」

 廊下の向こうに立っていたのは、立花先輩。
 美しい髪を後ろに捌き、にやりと笑った。

 助かった!
 ……のか?

 僕は恐る恐る食満先輩の表情を伺った。
 何だか目つきがやばい…麻薬を発見した麻薬犬みたいな目だ。

「あの、食満先ぱ…」

 言い終わる前に僕はポイッと投げ捨てられ、四つん這いで廊下に転がった。
 助かるどころか更なる災厄の予感。
 逃げ出そうにも、両先輩に挟まれた僕は、身動きひとつ出来なかった。

(動いたら、殺られる)

 固まってる僕の頭上をしばし沈黙が流れた。

「…盗み聞きとは、随分と変態だな」

 先制攻撃、小ばかにした口調で食満先輩が言う。

「お前ほどじゃない」

 ニコニコしながら立花先輩が答える。

「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ」
「俺はあらゆる意味でノーマルだが?」
「狂人が自分を狂人だとは気付かないように、変態も自分を変態だとは思わないんだな…」

 立花先輩は感心したように頷いた。

「文次郎もかわいそうに、こんな変態にいつも性行為を強要されて」

 あ、あわわわわわ、

「強要?はっ、羨ましいからって言いがかりをつけるなよ。俺達のは合意だ、ご・う・い」
「合意にしてはいつも“やめて”とか“そんなに動くな”とか言ってるじゃないか」

 なんでそんなこと知ってますか!?

「なんでそんなこと知ってる!?」
「知ってるも何も…」
「?」
「お前は、神聖な六い長屋で、分かっているだけで六度、無理矢理文次郎を…」

 あわわわ、わわわわわわわわわ、わー、

「あれは合意の上だ!!」

 食満先輩は耳を劈くような大音量で叫んだ。
 そして、“あんなによがってるのに無理矢理なわけあるか!”と付け加えた。
 ああもう嫌だ、そこでしたのは否定しないんだ、否定してやれよ、二人の秘密にしておいてよ、かわいそうな潮江先輩、あなたは今、自分の知らないところでこんなにも辱められています…。

「…やれやれ」

 立花先輩はため息とともに数度首を振った。

「…何だ?」
「そりゃ、文次郎の自衛手段だな」
「は?」
「よがってる振りして、早く終ってもらおうとしてるんだ。…憐れだ…そう思わないか、富松?」

 こっちに振らないでぇぇぇぇ!!!

 叫びだしたい気持ちを堪え、僕は出来るだけさり気無く立ち上がろうとした。
 でも裾を踏んで転びそうになる。
 壁につかまった。
 それから手に持った袋を見て、

「あっ、忘れてた!氷買ってきてたんだ!溶けちゃう!」

と言ってみた。

「……」
「……」

 しらっとした空気が流れる。
 全身に二人の視線を感じた。僕は今すぐ燃えるゴミになって、燃やされて煙になって消えてしまいたいと思った。

「作兵衛…」

 食満先輩にドスの効いた声で呼ばれて、ちびりそうになる。

「な、なん、俺何も、」
「お前……どこの委員会の所属だ?」
「よ、よ、よ」
「ちゃんと答えろ」
「用具委員会、ですっ、委員長は、食満先輩、ですっ」
「だったら…」

 多分“だったら俺に味方しろ”って言おうとしたんだと思う。
 でもその前に食満先輩の背後から声がした。

「おい、門の前で何やって…」

 俯いて入ってきた人物はここに僕達がいるのに気付いて、一瞬ぎくりとした。

「な、何?なにやってんだ、お前等…」
「文次郎!」
「おかえり文次郎」
「潮江先輩!」

 一斉に呼ばれた潮江先輩は、なかなか人に慣れない小動物みたいに身構えた。
 それから、閉めかけた門から後戻りしようとする。
 その腕をすかさず掴んだのはもちろん食満先輩だ。
 そして掴んだ腕を引き寄せ、壁に押し付け、逃げ道を塞いだ。

 僕は感心した。
 こんな時だけ電光石火の早業だ。

「おかえり…で、どこ行くんだ?」
「え…どこって…何か変な雰囲気だったから…」
「それにどこ行ってたんだ?」
「いや…別に…」
「俺のこと避けてない?」

「そりゃ避けるだろ、お前みたいな変態」

「黙ってろ、外野!」
「おい留三郎、いきなり仙蔵に怒鳴らなくても…って、おい!?」

 潮江先輩が驚いて自分の腰の辺りを見る。
 僕も見る。
 …食満先輩の手が着物の合わせの中に滑り込もうとしていた。

「どうして避けてるのか言わないなら、身体に訊く」

 わーーーーー、あ、あわわわわわわわっ、わっ、わっ、

 僕居ます!立花先輩も居ます!居ますから!!!

「ふ…ふざけんなっ!!!」

 瞬時に赤らんだ顔は怒りの所為なのか恥ずかしさの所為なのか。
 ただうろたえながらも、僕の方を“あっち行け”って感じで睨み付けたから、慌てて立花先輩の腕を引っ張った。

「い、行きましょうっ」
「行くのか?今行ったら文次郎、犯されちゃうぞ?」
「お、おかっ!?」
「私は嫌だぞ。文次郎が卑劣な犯罪の被害者になるなんて」
「黙れこの鬼畜エセサラスト!」

 わ、わ、あわわわわわ、わ、

 僕はもうどうして良いか分からなかった。
 この事態を収拾出来る手段をまったく思いつかない。
 叫んでる人と赤面してる人とニヤニヤしてる人の間でオロオロすることしか出来なかった。
 ただ心の中で一生懸命祈った。

 神様、僕の家が何宗なのかもさっぱり分かりませんが、ああ神様、今すぐ助けてください、僕のやわな心臓はこのままじゃ破裂してしまいます…。

 そんな僕の祈りが通じたんだろうか。
 混沌が支配するこの空間へ割り込むように、長屋の向こうからなにやら声が聞こえてくる。

 こ、今度は誰?!








「「立花せんぱーい!」」

 立花先輩が顔を引きつらせ、一瞬のうちに屋根の上へと飛び乗った。

「あ、立花せんぱい、待ってくださーい!」
「はにゃ〜…しんべヱ、あっちに行ったみたいだよ〜」
「しんべヱ!喜三太!なぜ私に付きまとう!?」

 用具委員会の後輩二人組みの登場に脱力した僕の肩を誰かが叩いた。
 食満先輩だった。
 その目は“上級生っていうのは下級生の面倒を見なきゃいけないから大変なんだ、お前にも迷惑かけるな”と言っている。

 僕は頷いた。

 でも食満先輩。
 僕が大変なのは主にあなたの所為です。
 それに良いんですか?
 混乱に乗じて潮江先輩に逃げられそうですよ?

 潮江先輩は壁を伝って、そろそろと室内に逃げ込もうとしている。
 食満先輩は気付かずに僕の肩をポンポンと叩いた。

 僕はもう一度頷いた。

 この人と目と目で通じ合うのは一生無理かもしれないと思った。




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