チョコレート戦争5



「…、はぁ、はぁ…も、もう大丈夫…」

 息を切らしながら留三郎は木にもたれ掛かる。
 文次郎は返事も出来ずに、その脇にうずくまった。


***


 チョコ売り場を脱出した後も、二人はとにかく走った。
 だだっ広い町から一歩出た所にある神社までの道を、一気に駆け抜ける。
 多分追われてはいなかっただろうが、群がってきたくのたま達を思い出すと、スピードを緩める気にはなれなかった。

「囲まれてる文次郎を見た時、なんかの妖怪に襲われてるのかと思った…」

 息が整ってくると留三郎はそんな事を言った。

「ちょっと怖かった、だろ?」
「まあな…」

 確かにパニックになりかけた。
 女は集団になると怖い。
 しかしその怖い奴らは振り切った。

 文次郎はここでふと、ずっと男同士で手を繋いでいたことに気が付いた。
 しかも“繋がれている”方で、不名誉な事この上ない。
 一応さり気無く外そうとしてみたが、それに気付いた留三郎に強く握り返された。

「とめ…」
「だから言っただろ。…意地っ張りめ」
「……」

 怒った口調なのに目が優しい。
 あの風邪をひかせた時みたいな諦めの混じった愛情に溢れた目つき…途端に最近癖のように文次郎の感情を支配している、留三郎への苛立ちが再生され始めた。

「…離せ」
「は?」
「手を、離せ」

 コイツ…いつからあそこに居たんだろう?
 俺が遅かったから見に来たのか?
 それとも最初から付いてきてたのか?
 俺が心配で、保護者みたいに見守ってたのか?
 そしてどっちにしろコイツの思うとおりに、俺はピンチを招いたわけだ。

「…カッコ良く登場できて、満足か?」

 逃げる時も人の手を引いて、人の前を走りやがって。

「え?なんだよ急に、」
「離せっつってんだろ!!」

 思い切り振り払ってやった。

 留三郎は驚いた顔で振り払われた手に目をやる。
 それから苦笑いを浮かべて文次郎を見た。

 その目つきがまた“いかにも”という感じで、歯軋りしたくなる。

「俺をそんな目で見るな!」
「え…そんな目ってどんな目だよ?」

 心底不思議そうな様子を見て、留三郎が無意識でそんな目をしていたという事が分かる。
 それが、文次郎の苛立ちを更に募らせた。

「その目だ!」
「は?」

 そんな、
 一端の男ぶった目。

 色々不満はあるけど全部愛情で包み込みます、みたいな目。
 守らなきゃならない生き物を見るみたいな愛おしさに溢れた目。

 いったい何様だ、お前は!?
 俺はそんなんじゃ無いだろう!?
 ムカつく、ムカつくんだよ!!

「何でも良いから、とにかくソレをやめろっ!」

 文次郎は堪らなくなって、持っていたケーキの箱で留三郎をどついた。
 留三郎はようやくムッとしたように口を尖らせた。

「説明も無しに、やめろだの何だの言われても、」
「いいからっ」
「…じゃあどんな目で見ればいいんだ?」

 どんな目って、決まってる。
 そんな甘い目つきじゃなくて、慈しむ色もいらなくて、何でも良いからもっと、

「もっと…」

 文次郎は言葉を捜して頭を掻き毟った。

「もっと?」
「もっと…そう、おっさんを見るみたいな目で見ろ!」
「…………はい?」
「足が臭いお父さんを見る娘の目で!」
「お…」

 留三郎は何らかのダメージを受けたみたいに軽くよろめいた。

「意味わかんねぇよ…」

 あ、馬鹿にした目になった。

「何で自分の好きな奴を、そんな目で見なきゃならないんだよ」
「好きでもなんでも、」
「しかも足臭くないし。この前舐めた時も平気だったし」
「……っ!」

 しらっと言われて顔が熱くなった。

 だから、お前のそんなところが嫌いなんだ!

 そう叫びたい衝動に駆られる。

 でもそんなヒステリー女みたいなことはしたくない。
 文次郎は溢れそうな怒りをじっと体に押さえ込んだ。
 しばらく気まずい沈黙が続く。
 何人か家族連れが通り過ぎたが、誰も此方には注意を払わなかった。

「とにかく…学園に帰るか」

 留三郎は気を取り直したように言った。

「……」
「その買って来てくれた奴、見てみたいし?」

 さり気無い口ぶりを装いながらも、留三郎はこのチョコケーキが欲しくてたまらないのだろう。

 馬鹿だろ、コイツ。
 男からのバレンタインチョコを心待ちにしてやがる…。

 そこで文次郎は、当初の密かな企みを思い出した。


 “買ってきて欲しいなら買ってきてやる。そこから先は、俺のお楽しみの時間”


「…いま確かめろ」
「ん?」
「俺がちゃんと買ってきたか、この場で確かめろ」

 返事を待たずに、文次郎はケーキの包装を破き出した。
 綺麗に包装された赤いそれを、躊躇なく引き裂く。

「ほら」

 箱を傾けて中身を見せてやる。
 チョコケーキは走った所為で多少形は崩れていたが、てっぺんの『ジュ・テーム』は残念ながら綺麗に残っていた。

「うわぁ…」

 笑い出すかと思ったのに、留三郎は心から嬉しそうに微笑んだ。
 ちくっと胸が痛んだが、文次郎はその“お楽しみ”をやめようとは思わない。

「見たな?」
「え?うん、俺嬉しい、」
「よし、じゃあ約束は果たした」

 文次郎は、おもむろにケーキの箱の上方へ、もう片方の手を遣る。

「え、」

そして留三郎の慌てた表情を確認してから、

「こうしてやる!!」

ケーキに思いっきり鉄粉をふり掛けてやった。

「ああああああああああああっ!?」

 一瞬にして、茶色いケーキに銀色の飾りがなされた。
 文次郎は、更にそのケーキに鉄粉をふり掛ける。
 にっくきジュテームが、粉にまみれて見えなくなった。
 留三郎の顔が驚愕に歪む。
 底意地の悪い喜びに、文次郎は笑い出しそうになった。

「お前の言うとおり買ってきてやったんだから、後はどうしようと俺の自由だ!どうだ、立派な武器だろ?」
「…っ、」
「食えなくて残念だったな!」

 ざまあみろ、すっとした、どうだ、腹立ったか、怒ってみろ、




「う……うわぁあああぁあ!」

 おこっ……

「ひでぇえええええっ、こんな、こんなあああああああ!」
「……………」

 文次郎は、目の前で激しく叫び、涙目になる男に唖然とし、ついつい鉄粉まみれのケーキをその場に落としてしまった。

 予想外だった。
 何を言うべきか迷ってるうちに、留三郎はその場にしゃがみ込むと、躊躇無く落ちたケーキを手づかみした。

「と…」
「何てことすんだよ!せっかくせっかく……っ」

 留三郎がそれを口に持っていくに到って、ようやく文次郎は留三郎の意図を悟る。

「ばっ、やめろ!」
「うるせぇ、食うんだよ!全部食うんだっ!」
「や、やめろって!」
「文次郎のくれたチョコは、全部俺のだ!!」
「……………」

 何だこれ。
 何この生き物。

 文次郎はどうして良いか分からずに、留三郎を見下ろした。
 口元をチョコと鉄粉まみれにしながら、落ちた鉄粉付きケーキを拾い食いする忍者のたまご(世間にはイケメンと評される十五歳)。

 か…かっこわる…。

「文次郎の馬鹿野郎ぉ!もう一生貰えないかもしれないのに…!」

 地面に這いつくばって号泣する留三郎の姿に、文次郎は眩暈を覚えた。

 これがさっき俺を助けに来た男か?
 俺を愛玩動物みたいに見詰めていた男か?
 あのうっとりしていた店員やくのたまはこの姿を見るべきだ…なんてかっこ悪くて駄目でへたれで…。

 ふと、丁度通り過ぎた男女が、好奇の目で此方を見ていることに気が付いた。

 まずい。

 文次郎は、留三郎を隠すようにして横にしゃがみ込む。

「留三郎、」
「うるさい!」
「もう止めろ、俺が悪かったから」
「嫌だっ、文次郎のチョコは俺が全部食べるんだっ!」

 情け無い…情け無いが、これも愛情の一種だと思うと胸がぎゅっとなった。
 そして自分のチョコにそんな価値を見出してる奴に対して、こんな仕打ちをしてしまったことを、今更ながら恥ずかしく感じる。

「悪かったよ…」

 文次郎はその場にしゃがみ込み、イヤイヤする留三郎の頭を引き寄せて口付けた。
 チョコまみれの唇は、当たり前だが妙に甘い。
 鉄粉のせいで少し口内を切ったのか、微かに血の味も混ざっていた。
 また誰か通るかもしれないが、仕方が無い。

 留三郎の息遣いが落ち着いてくるまで、文次郎は口付けを止めなかった。

「………それはもう諦めろ」

 呼吸の乱れが少なくなって来た頃を見計らい、文次郎は唇を離して、留三郎の頭を肩に抱く。

「な?」
「……でも、」
「代わりに新しいの買ってや…」

 言いかけて口を噤んだ。
 さっきみたいな恥ずかしい思いはもう御免だった。

「……作ってやるから」
「え?」
「作ってやるから、そのチョコは諦めろ」

 多分買うよりはマシだろう。
 もちろんチョコなんて作ったことはなかったが、他にどうしようもなかった。

「……本当か?」

 留三郎は震える声で訊いた。

「本当」
「作ったあとに鉄粉ふり掛けない?」
「ふり掛けない」
「食べる前に落とさない?」
「落とさない」
「……」

 少し間があってから、肩の上の頭が頷く感触が伝わった。
 文次郎は、ホッとして体を離す。
 しかしそれが悲しかったのか、留三郎の顔がまた歪んだ。
 再度泣き出される前に手を引いて立たせ、後ろを振り返った。

 誰もいない。

 文次郎はそのまま、留三郎を抱き締めた。
 向こうも抱き返してきたので、傍目には文次郎が抱かれているように見えるのかもしれない。

 唇が繰り返し降って来た。

 文次郎は、留三郎が満足するまでされるままになってやった。
 泣いてる癖に、やらしい口付けをする事にも我慢した。

 やがて笑顔が戻ったので、涙と鼻水とチョコで汚れた顔を袖で拭ってやった。

「汚れる…」
「いいから」

 留三郎は幸せそうに目を細める。
 それにつられて、文次郎も思わず微笑んだ。

「これくらいで喜ぶなよ」
「そうじゃなくて…文次郎の機嫌が直ったみたいだから、さ」
「え?」
「ずっと機嫌悪かっただろ…」

 そうなのか?自分じゃ気付かなかったけど。

「いつも俺を苛々した目で見てた」
「……」

 そう言われるとそうなのかも知れない…としか言い様が無い。
 自分では全く自覚が無かったから。

 ただ、気分がすっきりしていることは確かだった。
 今なら、風邪の時の“愛情不足発言”も許してやって良い気がした。

「…もう悪くない」
「うん?」
「機嫌、もう悪くないから」
「ん…」

 調子に乗った留三郎が唇を突き出してきたので、それをわざと避けて頬に唇を押し付けてやる。
 お互い同時にため息をついて、少し笑った。


***


「帰ろう…」

 気付けば随分長いことここに居た気がする。
 くのたま達はもう来ないだろうが、疲れをどっと感じた。

「うん…あ、これ、このままにしておけないよな」

 留三郎はそう言いながら、また地面にしゃがみ込んだ。

「おい、」
「もう食べないから安心しろって。…でもちゃんと持って帰る。それに、表面を削ぎ落とせば、もしかして食べられるかもしれないだろ?」
「……」

 潰れたケーキを袋に詰め込む留三郎を、文次郎は黙って見ていた。
 汚したまま帰るのが嫌だったのか、文次郎から貰ったケーキを捨てていくのが嫌だったのか。

 …どっちにしても、コイツのそんな所も好きだなと思って、文次郎は一人で恥ずかしくなった。

「チョコ作り、俺も手伝うから」

 不意にそう言われて、文次郎は改めて気付いた。
 どさくさに紛れて、そんな約束をしてしまったことに。

「帰る途中で材料買おうな」
「……」
 俺は…コイツと何を約束してしまったんだろう?

 さっきの俺は世間から見て、いそいそと男の為にチョコを買う奴だった。
 そして今の俺は、男に手作りチョコをプレゼントしようとしている。
 これはある意味人としてランクダウンなんじゃ…。

「これでよし」

 ケーキの残骸の詰まった袋を持って留三郎は立ち上がった。
 ニコニコと嬉しそうな顔に、文次郎の心に、結局はコイツの思い通りに全てが進んだのかもしれないという疑いが湧いた。

「さ、帰るか」
「あ、ああ…」

 文次郎は、上の空で返事した。
 自分がどんどん取り返しのつかない方向へ向かっている気がしてならない。

 恥ずかしさに身悶えしながらチョコを買った俺…チョコを手作りしようとしている俺…そして結局はコイツの全てを許してしまっている俺…なんだこの敗北感は…?

 繋いだ手を引きながら一歩前を歩く留三郎の後頭部を、文次郎がボーッと見ながら歩いていると、後ろから誰かが話しながら近付いて来た。

「それでさ、バレンタインにね…あ、さっき揉めてた二人だ」
「ホントだ。仲直りしたのかな?」

 さっき通りかかった男女だと言うことは、振り向かなくても分かる。
 顔が一気に火照った。

 嗚呼…。
 恥ずかしい。
 死んでしまいたい。
 しかも否定できない…。
 そうです、揉めてましたよ、そして仲直りしましたよ…。

 その男女の楽しそうな話し声が遠ざかるのを聞きながら、文次郎はよろよろと留三郎の横に並んだ。

 今日一連の恥ずかしさで寿命が確実に数年縮まった。
 気力の消耗も著しい。
 しかもこれは、この忌々しい行事が終わるまで続くんだ…。

 ふと横を見ると、留三郎が幸せそうな顔で笑みを返してきた。
 今すぐそこら辺の池にでも蹴り落としたい衝動に駆られたが、結局は留三郎の希望通り二人でチョコ作りをすることも分かっている。

「……」

 文次郎はため息をつく。
 この忌々しい行事を考え付いた奴のことを、心底呪いたくなった。
 チョコ売り場なんて、もう一生見たくないとすら思った。
 しかし一番駄目なのは、こんなヤツに惚れている自分だ。
 だから諦めるしかないんだ…。

 文次郎がもう一度横を見ると、留三郎が唇に穏やかな笑みを浮かべて、どうした?と尋ねてきた。

 文次郎は自嘲の笑みを返し。

 なんでもねぇよ、と言いながらほんの少しだけ足を早め、留三郎の手を引いたのであった。




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