皐月の包容を君に




 長屋の廊下に落ちていた『それ』は、留三郎の度肝を抜いた。

「も、文次郎…?」

 廊下に、『潮江文次郎』が落ちていたのである。




 どうやらこの男、連日の徹夜続きが祟り、自分の部屋に行く前に力尽きたらしい。静かな寝息を立てた顔を覗きこむと、閉じられた目の下の隈が、己の知るものよりも、数段濃い事に気が付いた。

 下級生達は既に床についている時間帯であり、留三郎自身も正に今風呂から上がったばかりで、さあ今から眠ろうかと思っていた矢先であった。


「しかし、こんなところで寝るとは…」

 むしろ『行き倒れ』と表現した方が正しいであろうその姿に、留三郎は苦笑せざるを得なかった。





 さて。

 文次郎の眉間に寄った皺を見ながら、留三郎は考え込んでいた。
 お世辞でも安らか、とは言いがたい寝顔だが、規則正しいその寝息から、この男がどれだけ睡眠を欲していたのか、容易に想像が付く。
 この場で叩き起こすのは簡単だ。しかし、折角眠っているのに起すのは気が引ける。しかも、万が一起したところで、例によって喧嘩に発展だろうから、こいつの安眠は更に数時間のお預けとなるだろう。

 どちらにしろ、今ここで文次郎を目覚めさせた場合、不可抗力ながら自分が彼の安眠を邪魔する事になる。

 しばらく思考に耽っていた留三郎は、ある妙案を思いついた。

 ふと横を見れば、そこは自分の寝床。
 文次郎の部屋は此処から若干遠い。
 その距離を、自分と同い年の男、しかも学園一忍者している男を抱え、しかも起さないように運ぶ自信はない。

 ならば。

 仕方ない、これしか方法はない、と自分自身に言い訳をし、留三郎は文次郎の身体を抱き上げた。


***


「な、な、な、な、な、」

 己の胸元付近から、声が聞こえる。
 留三郎が目蓋を薄く開けると、柔らかい新緑の光と共に、至近距離で目を見開く文次郎の顔が現れた。

「な、な、な、な、な、な、な、な、」

 文次郎は顔を赤くし、怒っているような、困っているような、何とも微妙な表情を浮かべ、

「なんだこの状態はッ!?」

と叫んだ。

「この状態って…お前が俺の部屋にいることか?それとも、俺の布団に一緒に寝ていることか?いや、もしかして、お前の背中に回っている、俺の両手のことか?」
「ぜ、全部だ、バカタレ!」

 文次郎は留三郎の肩を両手で掴み隙間を作ると、目にもとまらぬ速さで後退りをした。

「じゃあ、全部答えてやるよ。お前が俺の部屋にいるのは、お前が廊下で力尽きていたのを運んでやったから。俺の布団に一緒に寝ていたのは、お前が物凄い勢いで俺を布団に引きずり込んだから」
「ひ、引きずり込んだ!?」
「昨日は少し肌寒かったからな。湯上りだった俺は、哀れな事にお前の湯たんぽ代わりだ」


***


 昨晩、自室に文次郎を運び込んだ留三郎は、ひとまず自分の布団に文次郎を下ろした。
 しかし、自分用に別の布団を準備するため立ち上がろうとした留三郎を、文次郎は許してくれなかったのである。
 しっかりと留三郎の首に腕を絡め、心地よい体温を放すまいとする文次郎。
 最初は困惑し、引き離そうとした留三郎だったが、よくよく考えれば、これは役得ではないかと思い直し、自らも布団の中へと潜り込んだのである。






 しかし、その決断は間違っていた。
 時間が経つにつれ、留三郎は、自分達がまるで恋仲のような体制で抱き合っていることに気付いてしまったのである。

 手触りが良いとは言えないが芯のある美しい黒髪とか、鍛錬に明け暮れている癖に赤子のように弾力のある頬とか、意外に長い睫毛とか、寝息を立てる半開きの唇とか、装束の上からでも分かる身体の筋肉の硬いところとか、逆に柔らかいところとか、忍者たる者無臭と言い張る癖に全身から発される微かな甘い匂いとか、とにかく文次郎の持つ全ての要素が、留三郎を惑わし続けた。

 夜半過ぎになると、己の中の天使(文次郎顔)と悪魔(同じく文次郎顔)が交互に囁き始め、その度に身体の一部分が反応しそうになるのを、必死になって塞き止めた。






 そして、夜が明けるに至り、留三郎はとうとう悟りの境地に達したのである。


***


「なあ、文次郎。俺は、お前のおかげで一睡もできてねぇよ…」

 疲れきった表情の留三郎を見て、文次郎は理由を把握しきれていないとはいえ、流石に申し訳ないと思ったようだ。

「そ、それはすまなかった…。だが、留三郎。一睡も出来なかったということは……お前、厠でも我慢してたのか?」


 そう言って、ちょこんと首を傾げる文次郎の仕草に、留三郎の身体の一部が反応してしまったのは仕方のない事だった。



――この程度の言い訳は、どうか許してやって頂きたい。


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