境界線



 いつでも中途半端な距離にあったその存在を、心地良いと思っていて。
 それを当たり前のように思っていて、だけどその事に疑問なんて抱いていなくて。

 当たり前すぎる事につまずいて、見えなくなった。

 いつからか、まっすぐだった線がずれて、方向を見失った。

 頼りない道の上を、ふらふらと歩く。


 俺、と、お前は。
 一体、何なんでしょう。


 普通なら考えない、気にしない。
 気にしてなかったことを気にして、前が見えない。
 もやがかかったみたいに、先が見えない。
 だけど、それを言葉にする事は未熟なこの身では叶わなくて。

 言葉が境界線を作っているのなら、

 どうやってそれを、越えようか。


***


「……何だよ、文次郎。元気ないな」


 喧嘩の途中、文次郎の振るったコブシを掌で受け止めた留三郎が、そのままの体勢でこう言った。


「…そう見えるか?」

「ああ」

「そんな事、ない」

「何かあったか?」

「いいや」

「………」

「何でもねぇっての」

「……………そ」


 そう答えた留三郎は、不満そうだった。
 あからさまに顔に出るのは、忍者としてどうかと思う。


「なあ、文次郎。お前、何かおかしくねぇ?」

「……何が?」

「なんか、最近、ツンツンしてんなって思って」

「………」

「ん…?いや、違うな。何ていうか、ギスギスしてるっていうか…」

「……そんな事」

「無いって言い切れるのか?」

「………」

「俺達らしくない、って思うのは俺だけか?」


 俺達らしい、って、何だ?

 目が合えば喧嘩をして、でもそれは一種のじゃれ合いみたいなもので。
 二人でいるのは、なんでもない事だったはずなんだ。
 まるで空気みたいに、気にしないで、きちんと距離を保って歩いていたんだ。


「そんな事、ない」


 文次郎が留三郎の掌を振り払うと、留三郎は不服そうに、口を尖らせた。

 じゃあなんだ、そうですねといえばお前は満足だったのか。
 二人の関係がギクシャクしていると、肯定すれば良かったのか。
 そういうお前だって、何か違うだろ、昔と。
 それは俺の中だけなんだろうか。


***


 犬猿だの何だのと言われつつも、それは自分達らしい関係で、程よい距離で上手くいっていた。
 何だかんだ言って、気が合ってたんだ。

 知ってるか、留三郎。
 俺、最近、お前を見ると胸がもやもやするんだよ。

 いつ、どこで、どうなって、こうなったのだろう。

 目には見えない、境界線みたいなものに遮られ、核心に触れられそうで触れられない、この気持ちはどうしたら良いんだ。

 だけど、一つだけ確かな事があるとすれば。

 線を越え、触れてしまったら、きっともう戻れないという事。


***


「………帰るか、」

 文次郎は空を見上げ、独り言を投げ捨てた。
 鼻の先が、キンと冷たい。

 月夜の鍛錬には寒すぎた。
 白い息が目の前を上がってく。
 静まり返った裏山。
 こんな深夜に外にいるのは、浮かれた山賊か忍者ぐらいだろう。

「あ」

 ジャリ、地面をこすれる音がして、振り返ると忍装束姿の留三郎が居た。

 会いたくない男に会ってしまった。

 気付かなかったふりをして帰れば良かったと、文次郎は心の中で舌打ちをした。


「……山賊め」

「はあ?」

「こんな時間に出歩くのは、そういう奴だ」

「ひでぇ」


 足元の切り株に腰掛けた留三郎の顔が、暗闇の中でも笑ってるのが分かった。


「飲むか?」


 差し出された竹筒は人肌で微かに温まっていたが、黙って受け取った。


「…何か最近、お前と居るとイライラするんだ」


 留三郎がポツリと吐いた、独り言のような言葉が鼓膜を震わせる。


「……お前にじゃなくて、俺自身に」


 喉に流し込んだ水は、温かくて、なぜか甘い。
 冷え切った体中に、染み渡る気がした。


「…何だかんだで、俺、お前に助けられてるし」
「俺ばっかり、お前に寄りかかってるのかもしれない、って」
「そりゃ、お前の方が頼りになるのかも知れないけど、」
「でも」
「何かあっても、……言ってくれないのは癪に障るし、少し、寂しい」
「本当はもっと、沢山喋って、教えて欲しい」


 口に含んだ水が、

 留三郎の、一言一言が、

 甘くて、甘くて、

 胸に痛い。





「俺、もっと、文次郎に近付きたい」





 なに言ってんだ、お前。

 どういう意味かなんて、

 聞けるかバカタレ。




 無言のまま無表情でじーっとその顔を見てると、留三郎はハッと手を口に当てた。


「…やっ、変な意味じゃ、なく!…なく、ともなくはない、けど…」
「どっちでもいいんだけど、や、よくないけど」
「ああ、もう何言ってんだ!俺!」
「………わかんねぇけど」
「一緒に居たいと、思ったんだ」
「……なぁ、」
「なんか、反応しろよ」
「…聞いてんのか?文次郎?」
「…………もんじ、」


 そう言って覗き込まれた目は、きっと兎のように真っ赤だったと思う。


「いだっ!」


 べちっと叩かれた額を押さえて、留三郎が情けない声を出した。


「なっ、何すんだ!」

「うっせぇ!」

「う、うっせぇって…」


 見るな。
 情けない、こんな俺を見るな。
 最後の一滴まで飲み干した生ぬるい水が、やたら胸を切なくさせる。


「……文次郎、」


 さっきより優しい声で、名前を呼ばれた。

 どうしよう。

 何か、言わなければ。

 そう思っても、胸の辺りがじん、として、 言葉が出てきてくれなかった。

 何も言えないくらいに、胸が苦しいんだ。

 この気持ちは、なんて言うんだ。


「……文次郎、どうしよう」
「何か、いま俺、お前を抱きしめたくなってるんだけど、」
「…いい?」


 いいとか、悪いとか、そんな事、聞くな。
 そんなの何が正しいかなんて、誰が知っているんだ。

 そんなの、お前が思うようにすれば良いじゃないか。


「……失礼いたします」


 少しだけ、泣きそうな顔で笑った留三郎の手が、そっと触れた。
 ふわりと、暖かな手が頬に触れる。

 静かに浮かぶ半月の、頼りない光で出来る二つ分の影が、一つになった。

 最初は、遠慮しがちにおずおずと腕が回ってきた。
 まどろっこしくて、自分から身体をぺったりとくっつける。
 すると急に、ぎゅっと力を込めて、思いきり抱きしめられた。


 苦しいだろうが、おい。

 苦しくて、苦しくて。

 すげぇ気持ちいいんだ、バカ。


 気がついたら、背中に手を回して、しがみつくみたいに体を寄せていた。

 ギュって、
 まるで、
 これじゃまるで、
 俺が留三郎を好きで好きで、仕方が無いみたいだ。

 そばに居たいと言ったのは、留三郎の方なのに。

 こんなに温かい部分が俺の中にあったなんて、そんな事知らなかった。

 いや、

 本当は、知らないフリをしていた。




「……何だ、これ」

 …なんだろうな。

「分かんねぇ」

 俺だって分かんねぇよ。

「でも、凄く気持ちがいい」

 同感だ。

「……凄く、安心する」

 ……それも、同感だ。




 目を閉じて、思わず泣いてしまいそうだった事に気がついて、少しだけ下唇を噛んだ。


「お前、何でこんなに気持ちいいんだよ」


 留三郎の言葉尻が泣きそうに震えていた。


「……お前こそ、」


 答えた此方の声も、震えていた。




 慰めあいだとか傷の舐めあいだとか、思春期だとか、情緒不安定だとか、人恋しいとか、とってつけたような題名なら、いくらでもつけられる。
 そうやって不安定なこの感情をいくらでも整理して、綺麗に本棚の奥かどこかに閉まっておける。
 誰かそうしてくれれば良いのに。
 不器用者同士の、自分達では出来ないのだから。

 分かっているんだ。

 微妙なこの境界線を、越える事を望んでいて、でも、それと同時に怖がっていて。
 宙ぶらりんな状態で、何にも出来ないままでいて。




「…………ごめん」

 謝るな、

 謝らなくて、いいから

 今日だけ、今だけ、こうやって、
 お前の腕の中に居たい、そう思ってもいいだろうか。


 お前だけじゃないんだ。
 むしろ俺だ。
 お前に依存してるのは俺の方だ。
 何だかんだで優しいお前に寄りかかって、ぬるま湯みたいな状態に浸かって、指先から腑抜けになっているくせに、境界線を越えようとしないのは俺の方だ。


「なぁ、文次郎」

「…何だ」

「……お前に逢いたくて、探してたなんて言ったら、どうする?」

「……どうもしない」


 どうもしないし、何も望ましい。

 だから。

 あと少し。

 もう少しだけ、このままで居させてくれないか。




 何も言わずに腕の力を強めると、負けじと留三郎の腕の力も強まった。





 言葉が境界線を作っているのなら、




 まずは両腕から、そちら側へ。




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