葉月色に塗り替えろ

※文次郎の郷里捏造注意



 強い潮の香りが鼻をくすぐる。

「潮江先輩、道はこちらで合っていますか?」
「おう、そのまま坂を上るぞ」

 それを聞いた団蔵は文次郎の手を握り、早く行きましょう、と急かした。


***


 蝉の鳴き声が山々に響くのと時を同じくして、忍術学園にも夏休みが訪れ、生徒達は実家への帰省を始める。今回は学園長の急な思いつきもなく、無事に全生徒が夏休みをもぎ取る事が出来たので、門を出て行く生徒達の表情は皆晴れやかだ。

「じゃあねー」
「また新学期になー」
「父上!この夏こそは母上の所に帰りますよ!」
「どうした輪子、久しぶりの里帰りで緊張してるのか?」

 様々な人々が門に殺到する様子を見ながら、文次郎は人の波が途絶えるのを待っていた。六年生にもなって別に急いで帰省する必要はないし、と、のんびり構えて壁に寄り掛かっていた文次郎は、ところで、と頭上を見上げた。

「そんな所で何をやってるんだ、団蔵?」
「あれ、バレてました?」

 文次郎が声を掛けると、屋根の上から現れた影が己の頭上を通り過ぎ、背中を向けた格好で地面に着地する。
 振り向いた影は、馬借の格好をした五年い組の加藤団蔵の造形を成した。

「気配が微かに残っている。まだまだ鍛錬が足りんな。夏休みが明けたら即、算盤持って五十キロマラソンだ」
「うへぇ、勘弁してくださいよ」

 団蔵は瞬時眉を下げたが、次の瞬間にはパッと笑顔を作って、文次郎にこう話しかけた。

「潮江先輩、この夏休みは実家に里帰りするんですよね?」
「ああ、そのつもりだ」
「僕も一緒に付いていきます!」
「…はあ?」
「……駄目ですか?」
「………いや、駄目ではないが…」


 やめろ、そんな捨てられた犬のような目をするな。


***


 結局、強請る団蔵を連れて帰省することになった文次郎は、道中に休憩がてら立ち寄った茶屋で、その理由を尋ねてみた。
 文次郎の実家は勿論、生まれ育った村も典型的な田舎で、特に目ぼしいものは無いはずだ。この後輩が己に付いて来たがる理由が、てんで分からない。
 そう言うと、団蔵は思考顔になり、口に頬張った団子をゆっくりゆっくりと租借し始めた。

「ええーっと………」
「早く言え」
「ううんっと……あ、海!海が見たいなぁと思ったんです!」
「ああ成程、海か。お前は近江の国出身だからな」
「そうです、僕の実家に帰っても海は見えないんです。この前、先輩の実家の近くにある海が綺麗だって話、してたじゃないですか。是非見てみたいなーと思って」

 納得して頷いた文次郎に、団蔵はホッとしたような笑顔を向け、先程の倍の速さで租借した団子を飲み込んだ。


***


 それから数刻歩き続け、ようやく文次郎の郷里の村に辿り着いた。

「ここが…潮江先輩の生まれ育った村」

 団蔵は酷く感動したような表情のまま、三六〇度身体を回転させ、それから再び文次郎に向き合った。そして、言いにくそうに、しかし畏まって口を開く。

「あのぉ先輩。先輩が小さい頃よく遊んだ場所とか、お気に入りの場所とか、そういう所を案内して欲しいんですが…」

 何故、と眉を潜めた文次郎の顔を見て、団蔵はこのように付け加える。

「ええっと…、学園一忍者している潮江先輩が、幼少期にどんな場所で自主鍛錬を積んだのか見てみたいんです!」
「……本当か?何か胡散臭いな」

 そう言いながらも、まぁ別にかまわんがな、と頷いた文次郎は、少し困ったように笑った。







 それから、文次郎と団蔵は、村で一番大きな木のある神社で賽銭を投げ、荒れ屋の裏の竹林でどこかの子供が掘った穴に苦笑し、小川に掛かる古びた橋の上から魚を眺め、人の良い老婆の営む小さな店で文次郎の好物だと言うみたらし団子に舌鼓を打ってから、海に続く道へと赴いたのである。


***


 坂道を、上る、上る、上る。

「おい団蔵、そんなに急がなくても海は逃げないぞ!」

 手を引かれる形で己の一歩後ろを早足で付いてくる文次郎に、振り向かないままの団蔵が、ねぇ先輩、と話しかけてきた。

「今日は、無理を言って付いてきて、すみませんでした」
「ん?いや、別にかまわないぞ。俺も楽しかったし」
「そう言って貰えると、僕も嬉しいです。…実はね、先輩。僕、悔しかったんです」
「悔しかった?」
「先日、先輩はこの村の話を僕にしてくれましたよね」
「ああ、海が綺麗で、田舎だが良い所だと言ったな」
「その時の、いや、思い出を語るときの先輩の顔が、僕にはとても優しく見えて…どうしようも無いと知りながら、僕は先輩の思い出に嫉妬しました」
「………」
「悔しいけど、潮江先輩の思い出の中に僕は登場できません。ましてや、僕は先輩よりも歳下だから。学園に入学してからの思い出は、ほとんど同室の立花先輩や食満先ぱ……いや、その他の同級生の方達とのものだと思います」
「…まぁ、必然的にそうなるな」


「だから、先輩の思い出に、無理矢理上書きをしようと思いました。先輩が今後この村のことを思い出す度、思い出の中に僕が登場できるような、そんな上書きを」


「…………」
「あ、海だ!海が見えてきましたよ!先輩、早くッ!」
「お、おい団蔵!だからそんなに急ぐなって!」

 繋がれた手に引き摺られる形となり、最後は走るような速度で、坂の頂上を目指す。


 息が上がる。

 鼓動が早まる。

 なんだ、この気持ちは。

 切ないような、嬉しいような。

 でも。

 俺はこう思うんだ。

 “別に、古びた思い出に拘らなくても良いのではないか?”

 “少なくとも、今日お前と見た景色は、一生忘れない思い出になるだろうから。”





 文次郎は、坂道の勾配のせいでいつもより高く感じる後輩の背中越しに、真夏の空と海の境界線を見つけ、

その景色を、振り向いた男の太陽のような笑顔と共に、そっと心に仕舞い込んだ。















「え?泊まって行かず、もう帰るのか?」
「はい。ちょっと、色々我慢できる自信がありません」
「我慢?」
「男は狼…あ、いや、何でもありません。…ええっとぉ、新学期の五十キロマラソンに備えて、加藤村まで走って帰ろうかなぁって!」
「おお!それは良い心掛けだぞ、団蔵!さすが会計委員だ!他のへたれ委員会とは違う!よぉし!じゃあ、今度は俺が加藤村まで着いて行こう!鍛錬あるのみ!」
「い、今からですかぁ!?」
「ああ、そうだ。でも、辿り着く頃には夜になってしまうだろうから、俺の事を泊めてくれないか?なぁに、場所は厭わないから安心しろ」
「……潮江先輩」
「なんだ?」
「それは僕の布団の中でも…いや、貴方はもう少し男心を学んだ方が……いやいや、何でもありません」
「???」


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