どうぞゆっくり召し上がれ

※かんみや様宛て捧物



「おい、文次郎。夕飯が出来たようだぞ」

 自室で帳簿をつけていた文次郎は、廊下から聞こえた仙蔵の言葉に、すっと顔をあげた。
 襖を開けた仙蔵は、何やら楽しげに笑っている。

「ん?笑うところか?」
「いや、えらく反応が早かったからな」
「確かに早かったね」

 仙蔵の後ろから、『本日の夕飯当番その一』こと伊作がひょっこりと顔を出して、これまた楽しそうに笑った。

「今日は鮎の塩焼きだよ」

 食堂につくと、入口から一番遠い机に三人分の夕飯が用意されているのが見えた。
 玄米飯と漬物に白味噌の味噌汁、適度に焦げ目の付いた小振りの鮎が二匹、それから見事な実りの桃が丸ごと一個置いてある。

「小平太と長次は先に食べたから、あとは僕たちだけだよ」

 そうか、と納得して鮎を毟り始めた文次郎の頭に、ふともう一人の同学の男の顔が浮かんだ。

「なぁ、伊作」
「ん?」
「留三郎はどこ行ったんだ?あいつも今日、夕飯当番だろ」

 そう。
 『本日の夕飯当番その二』である留三郎の姿が見えないのだ。
 伊作は一瞬表情を沈めて、それからばつが悪そうにこう答えた。

「留三郎は僕達の部屋の床を修補してくれてるんだ。ちょっとした不運の連鎖で穴が空いちゃって…」
「ちょっとした不運で穴が空くとは…さすが六年は組」
「伊作の不運感染力って、もはや兵器なんじゃないか?」

 それもバイオハザード級の。

「で、その穴から隙間風どころじゃない冷たーい風が部屋の中に吹き荒れてるんだ」
「ああ。そりゃ確かに、早急に修補した方がいいな」
「で、僕が二回分の夕飯作りを一人でする代わりに、留三郎が修補を名乗り出てくれたってわけ」
「だが、留三郎だって腹くらい減るだろ。あいつの分を用意すらしないとは。鬼だな、伊作」

 二匹目の鮎を食べ終わり、茶を啜っている文次郎の横から、仙蔵が口を出す。

「だって、本人が『茶漬け程度でいいや。飯だけ残しといてくれ』って言うんだもん」
「そうか。まぁ、本人がそう言うんなら残しておく必要はないな。…さて、帳簿の続きをするか」

 そう言いながら、文次郎は唯一手付かずのままだった桃を机の隅に置き、それから手を合わせて食事を終えた。



***



 星の数が増え、夜がいよいよ深まる頃。

「…文次郎?」

 探るような細い声が、食堂の机に帳簿を広げている文次郎の耳に届いた。

「留三郎か。結構時間掛かったな。床の修補は終わったのか?」
「え、ああ、終わったんだけど…なんでお前、こんなとこで帳簿付けてるんだ?」
「部屋は『なぜか』仙蔵が突然火薬を調合し始めて入室禁止、会計室も『なぜか』ナメクジが大量発生していて使えない状態だ」
「………あー、なんつーか…うん、分かった」

 留三郎が、…厳禁か、と遠い目をして呟いたが、聞こえなかった事にする。

「おい、留三郎。とりあえず座れ」
「へ?何で?」
「いいから座れ」

 状況を理解しないままの留三郎を椅子に座らせ、文次郎は厨房の中に入り、すぐに小さな皿を持って戻ってきた。
 皿の上には、綺麗な三角形をした握り飯が二つ鎮座している。

「ほれ、伊作からだ」

 文次郎はそれを留三郎の目の前に置いた後、もう一度厨房へ向かった。

 湯飲みに入れた二人分の茶を持って食堂に戻ると、二つ目の握り飯の、最後のひとかけを口に押し込みながら留三郎が手を伸ばしてきた。

「留三郎。握り飯は逃げないから、ゆっくり食べろよ」

 湯飲みを受け取りゴクリと飲む姿に、思わず苦笑しながら横に座る。

「だって、腹減ってて」
「なら、格好付けないで伊作に夕飯を頼んでおけば良かっただろ」
「何となくその場のノリで、な」
「お前、たまには頭使えよ」
「なんだとぉ!?やるか!?」
「おう、望むところだ!…と言いたい所だが、こんな時間にお前と喧嘩するつもりはない。…それより、これ食べないか?」

 文次郎はそう言って、帳簿の山に隠れていた桃を差し出すと、とたんに留三郎の瞳が輝いた。

「桃かぁ。でもどうしたんだ、これ?」
「ん?あーっと………夕飯の残りだ。別にわざわざ残してやった訳じゃない……って、おい。ニヤニヤするな、バカタレ」

 留三郎が笑みを隠しきれないままその桃を受け取り、皮ごとかぶり付くと、透明な果汁が唇を濡らす。

「旨い!」
「…そりゃ良かった」
「あと、握り飯も旨かったぞ」
「いや、だからあれは伊作が…」
「ふふふ、馬鹿め文次郎。……伊作はな、俵型の握り飯しか作れないんだよ」

 言葉とは裏腹な優しい笑みを見せつけられて、つい顔を背けた文次郎の口元に、なにやら甘い香りが近付いた。
 視線を戻すと、留三郎が文次郎の口元に向けて桃を突き出している。

「なんだ?」
「文次郎も食べろよ。甘いものって疲れに良いらしいし」
「…そうか?」
「それに、元々お前のモンだろ?」

 微笑む留三郎につられるようにして、差し出された桃を頬張った、次の瞬間。

「んっ」

 素早く唇を奪われて、逃げる事が出来なかった。
 触れるだけの戯れの後、至近距離で見つめられる。

「甘いな」
「…そりゃ、果物なんだから甘くて当然…」
「ばーか、桃の話じゃない」
「はあ?」
「文次郎の唇。すげー甘くて、柔らかい」

 その言葉で、文次郎の頬は桃のように淡く染まる。
 ほら旨そうだ、と留三郎は囁いた。

「なあ、もっとくれよ」
「……さっきまで、腹ぺこの情けない顔してたくせに」
「腹ぺこだからこその申し出だろ?」
「………」
「駄目?」
「………まぁ、なんというか、その、……俺は逃げないから、」

 留三郎はぺろりと文次郎の唇の表面を舐めた後。

「……ゆっくり食べろよ」

 今度は深く、その甘い唇にかぶり付いた。


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