月のナイフ




 先程まで見えていた冷たそうな月が、黒い影に覆われて見えなくなった。

 あっ、と思った時にはすでに遅く、団蔵の身体は地面に押し倒される。

 団蔵は喉元にあたる苦無の冷たい感触に息を呑み、それから、ギュッと唇を噛み締めた。



***



「…勝負あり、だ」

 団蔵の腰に馬乗りになった文次郎は、そう言って苦無を握りなおした。
 ちょうど月明かりが逆光となり、団蔵から文次郎の表情を伺うことはできない。
 ただ、その声色は冷たいそれではなく、むしろ温かさの篭ったものであった。

「重ね重ね言っていると思うが、お前はあと一歩、詰めが甘い。一瞬油断しただろ?その油断が命取りだ。これが鍛錬ではなく実戦だったら…と、考えてみろ」

 苦無を団蔵の喉元から離し、馬乗りのまま上体だけを起こす。
 すると、月に照らされた文次郎の顔が、嬉しそうに綻んでいることがはっきり見て取れた。

「だが、動きも勘も、そして技術も、以前より格段に上がっている。真面目に鍛錬した証拠だ」

 後輩の成長が嬉しいのだろう、滅多に見せないような柔らかい笑顔だった。

 しかし、それに反して団蔵は、苦虫を噛み潰したような顔をして、それからポツリとこう言った。




「やっぱり、僕じゃ駄目なのでしょうか?」




 酷く悲しそうなその声に、文次郎は眉をしかめる。

「駄目?何を言ってるんだ、団蔵。自分で言うのもなんだが、この俺が珍しく褒めているんだぞ?お前は、俺の自慢の後輩だ」

 普段なら歓喜するような、そんな言葉だった。

「『自慢の後輩』、ですか」
「……団蔵?」




 だが、今欲しいのはそんな優しい言葉では無い。









「僕は…僕は、そんなものになりたいと思ったことなんて一度も無かった…!」







 瞬時、文次郎の真下にあったはずの身体が反転し、次の瞬間には体制がそっくりそのまま入れ替わった。
 団蔵は文次郎の両手首を強く握り、地面に縫い付け、それからお互いの息が掛かる距離まで顔を近付ける。

「…おい、団蔵。何だ、何の冗談だ」

 驚きつつも、焦りの色を見せない文次郎の様子を見て、団蔵は苛立ったように手首を握る手に力を入れた。

「先輩にとって、僕はただの後輩ですか!?」

 団蔵の中で、押さえ込んでいたはずの何かが外れる。

「僕は…ッ、」

 一度言葉を飲み込み、それから、意を決した。

「僕は先輩の事が好きです…!」

 一度溢れてしまえば、もう止めることは出来ない。

「先輩とか後輩とか、憧れとか尊敬とか、そんなものではなくて!一人の男として、貴方のことが好きです!」

 自分でも段々と訳が分からなくなって、言葉は徐々に慟哭に似たものになっていく。

「先輩の、馬鹿みたいに真面目で、一途なところが好きです!誰よりも厳しくて、そのくせ誰よりも優しいところも好きです!笑った顔も、怒った顔も好きです!少し困ったような表情も、照れを誤魔化す仕草も好きです!好きです、好きです、好きなんです!…たとえ貴方の気持ちが、僕には向いていないと分かっていても、」

 言葉を紡ぐうちに、なぜだが涙が出てきた。

「僕は貴方の背中を守れるような、そんな男になりたくて…ずっとずっと…僕は貴方のことが、それこそ頭おかしくなるくらい…大好き、なんです…」






 最後の方はしゃくり上げながら、それでも団蔵は今の気持ちを全てぶつけた。

 間近にある文次郎の顔を見詰める。

 最初こそ驚きに見開かれていた文次郎の目だったが、今はもう、静かな色を宿していた。

「好きです、先輩、大好きです、僕はまだ、貴方に勝つことも出来ないひよっ子ですけど、貴方のためなら命だって掛けます。だから、」
「団蔵」
「だから、どうか僕を、」
「団蔵、聞け」
「僕の事を選んで、」

 文次郎の目がすっと閉じられた。



 次の瞬間、文次郎の手首を拘束していた団蔵の両手を、文次郎の手が器用に跳ね除ける。

「わっ」

 バランスを崩した団蔵が慌てて地面に手をつけると同時に、背中に温かい体温を感じた。










「せ、せんぱい」

 抱き締められている、と認識できたのは、文次郎の片手が団蔵の後頭部に移動し、撫でる仕草をしてからであった。

「団蔵。お前の気持ちは、良く分かった」

 それは、今までに聞いたことが無いくらい、優しい声色だった。

「ありがとう。だが…」








 その飛び切り優しく、そして悲しげな声は、




「………すまない」




 冷たい月の明かりと共に、団蔵の心へ深く鋭く突き刺さった。



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