睦月の包容を僕に




「……さて、どうするか」

 文次郎は、白く雪の積もった崖の上を見上げて途方に暮れていた。

「高さ…ざっと見て六間二尺か…ちと厳しいな…」
「そうか?いつものお前なら、このくらいの崖、屁でも無いだろ?」
「…俺の足の状態を知った上で、それを言うのか?」

 お前性格悪いぞ、と、文次郎は留三郎を睨みつけた。



***



 学園から遠く離れた実習先にも関わらず、些細なことが原因で取っ組み合いの喧嘩をしていた留三郎と文次郎が崖から転落するという失態を成したのは、幾重の不運に見舞われたせいであった。

「不運は伊作の専売特許なのに」

 しかし、そうぼやいても現状が変わるわけではない。

 崖から転落した際、着地の方法が悪かったのか、文次郎は右足首を挫いてしまった。
 普段ならばこのようなヘマはしないのだが、雪に足が取られてしまったのだから仕方が無い。

「しかし…どうするか…」

 見上げれば、直角にそそり立つ壁の上には、数個の星が輝きだしている。
 文次郎は、完全な夜になる前にどうにかこの崖を登りきれないだろうか、と思考を巡らせていた。

 普段のままのギンギンに忍者している状態ならば、留三郎と力を合わせれば、この崖を登りきれる自信はある。
 しかし、今の自分は軽いとはいえ怪我を負った、言うなれば『お荷物』だ。
 満足に歩くことも難しい状況で、留三郎の足を引っ張るわけにはいかない。

「おい留三郎。お前、一人でこの崖を登って助けを呼んできてくれないか?」
「俺が?お前はどうするんだ?」
「見ての通り、この崖を登れる状態じゃない。ここで待っている」
「一人で待つだって?そりゃ駄目だ」
「何でだ?」

 文次郎は首を傾げた。

 確かに、そそり立つ崖は非常に高く、しかも直角で、足を掛ける凹凸も少ないように見える。
 しかし、留三郎ほどの男ならば、数刻の時間を要すれば登りきることが出来るだろう。
 そしてそのまま走れば、明朝…いや、遅くても昼前には学園に着くだろうし、そうなれば夕方には救出部隊がこの崖に到着出来る。
 結果、文次郎は丸一日この場所で過ごすことになるが、それは別に構わないし、今は実習中なので、運がよければ近くに同級生が野営しているかもしれない。

 そう文次郎が告げると、留三郎は一瞬考える素振りをしたが、やっぱり駄目だ、と言って首を振った。

「ここは山賊の出る場所だ。先生方も仰っていただろ?夜は絶対に一人で行動するなって」
「俺は女子供じゃない。一人でも大丈夫だ」
「駄目だ」
「大丈夫だ!」
「駄目なものは駄目だ!」
「…俺を馬鹿にしているのか留三郎?もう一度言うぞ!俺は一人でも大丈夫だ!」
「大丈夫じゃないっつってんだろ!こんな危ない所にお前一人置いて立ち去れるか!」

 その言葉に、文次郎の大きな目が、さらに見開かれた。

「こんな寒くて危険な所にお前を一人置いて行くだって?冗談じゃない!少しは俺の気持ちも考えろ!」
「……お前の、気持ち?」
「………」
「………留三郎?」
「…………あ、いや、あの…い、今の無し!忘れろ!忘れてくれ!むしろ忘れてくださいお願いします!ああああああああああああ何言ってんだ俺ええええええええええ!俺はこいつの事なんて、何とも思ってないはずだろ!俺達は犬猿!犬猿の仲!頭冷やせ俺えええええええええええ!」
「お、落ち着け留三郎!どうどうどう…」
「俺は馬か!」


 …結局、今夜は二人でこのまま野営し、明日陽が昇ってから留三郎が崖を登り、助けを求めることとなった。



***



 とりあえず掻き集めた枝に火をくべた所までは良かったのだが、雪のちらつく夜の寒さは尋常ではなかった。
 凍死するとまでは行かずとも、この寒さは中々に耐えがたい。
 留三郎は悴む手に息を吹きかけた。

「…留三郎、ちょっとこっちに来い」

 するとふいに、大きな岩に座っていた文次郎が留三郎を手招きする。

「何だ?」
「横に座れ」
「…座ったけど?」
「もっと近くに座れ」
「このくらい?」
「もっとだ」
「じゃあ、このくらい?」
「もっと」
「え、でも…」

 留三郎の位置は、すでに文次郎の真横。
 腕の触れ合う位置まで近づいているのに、これ以上どう近づけば良いのか。

「あー、まどろっこしい!」

 瞬時、そう言いながら文次郎が留三郎の腕を引いた。
 そして、そのまま後ろに倒れこむ。







 留三郎は、混乱していた。



 目の前には、文次郎の喉仏。

 背中には、こちらの身体に巻きつく腕の感触。

 全身に感じる、布越しの体温。

 とくり、とくりと、規則正しい心音が静かに伝わる。



 …抱き締められている。

 留三郎がその事実を理解したのは、文次郎が留三郎の背中を、その手で軽く撫でるようにしてからだった。



「…ど、どうしたんだ、文次郎?」
「何がだ?」


 優しいその声に、鼓動が高鳴る。

 違う、俺はこいつの事なんて何とも思っていない。

 …それならば、なぜこんなに胸が苦しい?


「いや、だって…」
「何をそんなに焦っているんだ?暖を取るには、これが一番だろう?」


 心底不思議そうなその声に、気持ちが一瞬沈む。

 そうだ、俺はこいつの事なんて何とも思っていない。

 …それなのに、なぜお前の何気ない言動に振り回され、一喜一憂する?


「ああ…そういうことか…」
「お前、体温高いからな」


 微かな笑いを含んだその声に、また気持ちが浮上する。

 あ、笑ってくれた。
 
 お前が笑うと、俺は嬉しいんだ。


「何だよ、俺は湯たんぽ代わりか?」
「まあまあ、そんなに怒るな。それに…」





 文次郎は留三郎の背中を撫でながら、小さな声でこう言った。








「お前が側にいると…何だか安心するんだ」








 ―――…嗚呼、俺。



 駄目だ、やっぱり誤魔化せない。

 確信してしまった。



 ―――…こいつの事。



 いや、本当はとっくに自覚していた。

 ただ、それを認める勇気が無かったんだ。



 ―――…堕ちた、完全に。



 留三郎は、静かに目を閉じた。








 ―――…俺、こいつの事が、好きだ。



***



 翌日の早朝、留三郎と文次郎は運良く近場で野営中の同級生に発見され、すぐさま救助された。

「大変だったね、留三郎。僕の不運が移っちゃったのかな?」

 そう言って申し訳なさそうな顔をする伊作に、留三郎は一睡も出来なかったせいで隈の出来た目を向けた。

「ああ、大変だった。だけど…これからがもっと大変だ…一体、どうしたら良いんだ俺…堕ちた…完全に堕ちた…」




 真っ青な顔で頭を抱える留三郎とは対照的に、隈が薄れすっきりとした顔をする文次郎の足に包帯を巻きながら、伊作は執拗に首を傾げる。

「ねえ、文次郎。留三郎が『完全におちた』って言ってるんだけど、君達何かあったの?」
「いや、別に何も無かったと思うが…。もしかしてあいつ、卒業の試験危ないのか?」
「ああ成程。『やっべー、俺全然勉強してねーや!今度ある卒業試験、完全に落ちた!落第だ!』って意味ね」
「…あいつ、そこまで成績悪かったのか…」

 見当違いの方向に結論を出した二人の会話を聞いて、留三郎は更に頭を抱えたのだった。


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