愛の言葉はお静かに 風呂上りの文次郎が六年は組の長屋前を通った際、部屋の中から何やら話し声が聞こえる事に気が付いた。 本日は俗に言う『秋休み』の初日で帰省している者が多く、長屋の廊下は常ならば考えられない程の静けさを保っていた。そんな中、文次郎は、数日しか無い休みにわざわざ帰省するのも効率が悪いと、自主鍛錬に費やすため学園に残ることにしたのである。 部屋の前で、文次郎は考える。 はて、ここは確か、伊作と留三郎の部屋だったはず。 折角の秋休みに同室が二人して残っているとは、物好きな奴等め(まぁ、仙蔵も学園に残っているがな)。 自分の事を棚に上げつつ、部屋の前を通過しようとすると、 「……から…、好きだ…」 襖の向こうから、何やら意味深な言葉が聞こえてきたのである。 *** 最初に断っておくが、文次郎はこの部屋に住む男達の恋路が気になったわけではない。むしろ、忍者でありながら不埒な色恋に溺れていようならば、喝を入れてやらねば、と考えていたのである。 早速、文次郎が気配を殺し耳を欹てると、 「お前が、好きなんだ!」 部屋の中から聞こえるのは、食満留三郎の愛の言葉であった。 *** 「大好きだ!」 「愛してるぞ!」 「今日も可愛いな!」 「お前が世界で一番だ!」 「俺の物になっちゃえよ!」 留三郎が、は組長屋の中で非常に幼稚かつ、気の毒なほど一杯一杯な告白を繰り返していた時、は組長屋の前の文次郎はというと、押し寄せる笑いの波と必死に戦っていた。 事情は分からないが、留三郎は愛の告白の『練習』をしているらしい。 時折、伊作の声で、「もっと積極的に落としに掛からなきゃ!」だの、「それは正直引くわー」だの、「今の少し良かった!」だの合いの手が入る。 いつも己と喧嘩ばかりしている留三郎には、どうやら意中の相手がいるらしい。 相手はどこぞの茶屋の娘だろうか、それとも地元の昔馴染みか、もしかしたら、この学園のくの一なのかもしれない。 まぁ、何とも淡い話ではないか。 文次郎は、忍者の三禁に抵触する留三郎の行動について、見て見ぬふりをすることにした。 そして、長居は無用とその場を離れようとした瞬間、 「駄目駄目ストップ!そんな告白じゃ、文次郎は落とせないよ!」 という伊作の声が聞こえて来たのである。 ちょっと待て、誰が誰を『落とす』って? 「…………………ッ!?」 「「!?」」 事の意味を理解し、驚きのあまりに発された文次郎の声を聞いて、室内の二人が弾かれたように立ち上がった。 拙い、見つかる…! 瞬時、文次郎は強く床を蹴り、木の枝へと手を伸ばし、塀を伝い、屋根の上に飛び移り、留三郎が襖を開けると同時に、闇へと消えたのである。 *** 一刻後、六年い組の長屋に帰ってきた文次郎を見た仙蔵は、その切れ長の目を見開いた。 「どうしたんだ?そんなに顔を赤くして…」 「な、なんでも無いッ!!鍛錬だ、鍛錬に行っていただけだ!!!」 耳まで顔を赤くした文次郎は、そう叫びながら頭まで布団に潜り込んだ。 その様子を見ながら仙蔵は、 「寝間着で鍛錬か。物好きだな、文次郎」 と、軽やかに笑った。 ←main |