富松作兵衛の災難(後編)



 その後は、何事も無く時間が過ぎた。

 用具委員会の一年生がいないため、食満先輩と二人での委員会活動だ。
 本日の、用具委員会の活動内容は『会計室前の壁の修繕』。
 食満先輩は、会計室で委員会活動をしているであろう潮江先輩のことが気になるようだったが、時折ギラギラした眼で会計室の襖を見詰める以外は、特に問題もなく粛々と作業していた。

「……よし、完成だ。作兵衛、ご苦労様」
「はい、お疲れ様でした」
「ちょっと道具を倉庫に片付けてくるから、お前はゴミをまとめておいてくれ」

 修繕が完了した壁を見て食満先輩は満足そうに頷いた後、道具一式を抱え、用具倉庫の方へと歩き出した。
 その様子を見ながらいそいそと片付けをしていると、誰かが僕の服を引っ張った。
 潮江先輩だった。
 会計室の襖を微かに開け、僕の身長に合うように少し屈みこんでいる。

「あ、潮江先輩、お疲れ様です。もう委員会活動は終わりですか?」
「留三郎は?」
「用具倉庫に道具を片付けにいきました」
「そうか…。…俺は今からもう一度学外に出ようと思うんだが、そこで富松、お前に頼みがある」
「何ですか?」
「倉庫から帰ってきた留三郎が、『文次郎は出て行ってないだろうな』と訊くかもしれない。その時は、俺は会計室から外に出ていないと言ってくれ」
「要するに、潮江先輩はまだ会計室内にいると言えば良いわけですか?」
「そうだ。そしてその後、留三郎が俺を探していても、知らないと言い続けてくれ」
「別に構いませんけど…でも潮江先輩、なぜそんなに食満先輩を避けるんですか?」
「それは…いや、説明している時間も惜しい。留三郎が帰ってきた」

 僕はとりあえず目だけ動かしたが、食満先輩の姿は見えない。

「その角の先で、誰か…あの声は恐らく生物委員会の連中だと思うが…とにかく五、六人の奴と喋っているようだ」

 この人の耳は一体どうなっているのかと思いながら、僕は頷いた。

「俺は、とにかく今すぐ出るから」

 潮江先輩は油断なく視線を走らせながら襖を開け、僕の横にある柱の陰に隠れた。
 なんだか切羽詰っている。

「さっきの件、頼んだぞ」

 もとより僕に断れるはずも無い。
 頷き、再びゴミを集めようと、ゴミ袋を手に取る。
 しかしゴミを拾おうとしゃがみ込んだところで、

「あ、文次郎!!」

 誰かが大音量で叫んだ。

 誰かと言うか、もちろん食満先輩だ。
 やっぱり見逃さないんですね…反射的に振り向こうとした僕を、潮江先輩が後ろから押す。

「止まるな!歩け!」
「あ、は、はい、」
「文次郎ってば!」
「早くしろっ」
「文次郎ッ!!!」
「文次郎、留三郎が呼んでるよ?」

 タイミングの悪さに定評のある善法寺伊作先輩が偶々廊下を通り、おせっかいにも僕達の行く手を塞いだ。
 善法寺先輩は落とし紙を大量に持っているせいで、食満先輩の鬼のような形相は見えないのだろう。
 舌打ちをして、潮江先輩は僕と善法寺先輩を押し退けようとする。
 だが、もう遅かった。
 僕の脇から伸びてきた手が、がっちりと潮江先輩の腕を掴んだ。

「文次郎!」
「は、離せっ」
「あ、落とし紙が!」

 善法寺先輩の持っていた大量の落とし紙が空を舞ったが、それを追いかける善法寺先輩を気にする余裕なんて僕には無い。

 とりあえず、僕の脇から手を出すのは止めて欲しい。
 正直、半端なく怖い。
 嗚呼神様、僕はどうなってしまうんですか。
 武闘派の先輩二人に挟まれて、儚くも短い人生を終えるのだろうか。

「どけっ、作兵衛!」

 取り留めないことを考えていた僕は、食満先輩にあっさり突き飛ばされた。
 今日はよくよく突き飛ばされる日だ…転びそうになった僕を支えてくれたのは…うっ、

「そんなにげんなりした顔をするな」
「すみません…立花先輩」
「それにしても大変だな」

 ねぎらっているのは言葉だけで、口元には押さえきれないニヤニヤ笑いが浮かんでいた。
 揉めている犬猿コンビを楽しそうに眺めている。

「なあ、文次郎、待てって!」
「待たない!」
「なんでっ」

 そんなこんなしているうちに、野次馬が増えていく。
 これだけ派手に言い合いをしているんだから当然だ。
 善法寺先輩は、落とし紙を追いかけて行ってしまったので、二人を止めるのは僕しか居ない。
 取り返しのつかない事になる前に、僕が割って入らなければ…。

「あの、二人とも喧嘩は、」
「文次郎!なんで俺を避けるんだよ!?」
「避けてないって言ってるだろ!」
「避けてる!」
「避けてない!」
「あの、ここで言い争っても、」
「じゃあ何でそんな急いで、こそこそ出かけようとしてるんだよ!?」
「これから用事があるんだ!」
「…用事?」
「富松と町に行く」

 ええええーーっ!?
 初耳だ!

 驚く僕を潮江先輩がギッと睨んだ。
 その目は“余計なことを言ったら刻む”と言っていた。

 続いて食満先輩が僕をギロッと睨んだ。
 その目は“てめこの邪魔しやがって切り刻んで瀬戸内海に捨ててやる”と言っていた。

 どっちにしても僕は刻まれるんだ…特に食満先輩の刻み方は尋常じゃないだろう。
 僕は半ば覚悟したけれど、食満先輩はすぐに僕に興味を失って、悲しそうな目で潮江先輩を見詰めた。

「なんで作兵衛と…だって、今日は…」
「明日!話があるなら明日聞く!」
「あ、明日?」
「てことで、じゃあなっ」

 潮江先輩は不自然な笑顔で手を振り、立ち去ろうとした。
 食満先輩の顔がくしゃっと歪んだ。
 あ、やばい、泣く、いい歳した男が泣く。
 僕は焦った。
 だが、食満先輩はそこで涙をぐっと呑み込んだ。

「なんで…なんでそんな避けるんだよ!?」

 主人に捨てられそうな犬の叫びだ。
 僕はちょっとだけ憐れみを覚えた。
 言われてみれば確かに避ける理由が見当たらない。
 いや、僕の知らない何かがあるのかもしれないけれど、潮江先輩も少しは話を聞いてあげればいいのに………しかし、続く発言でそんな気持ちは一気に吹っ飛んだ。










「折角のホワイトデーなのになんで避けるんだよ!?」



 そそそそ、それだ!

「お返しも用意してるのに!」

 それだってば!!

 僕は潮江先輩を見た。
 全身を凍らせて立ち竦んでる潮江先輩の顔が徐々に、そして見たことも無いくらい真っ赤になってゆく。
 唇がプルプルと震える。
 遠巻きに見ていた野次馬達がざわめき始める。

 ああ……ああ…やっと理由が分かった。
 今日はホワイトデーで、だから潮江先輩は食満先輩を避けていたんだ。

 僕はバレンタインデーの顛末を食満先輩から直接聞いていた(というかただの惚気話だった)。
 バレンタインデーで屈辱を受けた潮江先輩はなんとしてもホワイトデーだけは避けようと思ったのだろう。
 なのに…なのに……。

 僕は今からでも潮江先輩を連れ去ろうと思った。
 しかし、間に入ろうとした僕を止める手があった。

「…立花先輩?」
「ここは私に任せろ」

 立花先輩は、余裕に満ちた表情で僕に頷いて見せる。
 いつもは茶化すだけのこの人も、いざという時には頼りになるかもしれない…僕は祈るような思いで頷き返した。
 お願いします、立花先輩…。

「文次郎、」

 立花先輩は潮江先輩の肩に手を置き、優しく微笑み掛けた。











「お返しってことは……バレンタインにチョコあげたのか?」


 え、ええええーーーーっ!?


「え…いや……あの…」
「あげたのか?」

 ひ、ひどい。
 信じた僕が馬鹿だった。

 でももう取り返しがつかない。
 一番訊かれたく無い事を聞かれてしまった潮江先輩は、困惑した表情で立花先輩を見上げた。

「あ げ た の か ?」

 畳み掛けるような質問に、潮江先輩の目が揺らいだ。
 周りにさっと視線を走らせ、食満先輩を恨みがましく睨んでから、俯いた。

 僕には潮江先輩の迷いが手に取るように分かった。
 本当なら否定してしまいたい、でも否定したって食満先輩の“くれただろ!なんで嘘つくんだよ!?”が始まるだろうし、そうすると事態は益々ややこしくなる。

 潮江先輩は嫌そうに、本当に嫌そうに、

「あ………あげ…た…けど……」

と呟いた。

 場がどよめいた。
 野次馬が息を呑む音が其処彼処で聞こえた。

 嗚呼…なんと痛わしい…。

「で、でもそれは、」
「留三郎、どんなものを貰ったんだ?」

 あなたは鬼ですか!?

 かわいそうな潮江先輩は唇を噛み締めた。
 そして縋るような目で食満先輩を見上げた。

 食満先輩、あなたの恋人は恥ずかしさで絶命寸前です。
 あなたに少しでも気遣いがあるならば、なんとか言葉を濁して……しかし、社交的でオープンハートな食満先輩は普通に答えた。

「え?手作りのやつ…」

 場が震撼した。

 野次馬の皆さんは、最早どんな反応をすればいいのか分からないようだった。
 僕もどうしていいか分からなかった。
 ただ、今にも倒れそうな潮江先輩をせめて支えようと、傍に寄る。
 そして気が付いた。
 潮江先輩の目じりに、うっすらと涙が滲んでいることに。

 ああ、かわいそうな潮江先輩…すみませんすみません、僕が頼り無いばかりに…。

「そうか…手作りか…」

 立花先輩…僕はあなたを恨みます。
 信じたのに、あなただけは潮江先輩の味方だと思っていたのに…。

 目が合ったから、キッと睨み返してやる。
 しかし立花先輩は思いも寄らないことを言った。












「それって、調理実習で作ったやつだろう?」

 え?

 何を言おうとしてるのか一瞬分からなかった。
 立花先輩は僕の表情を見て微かに苦笑する。

「この前、調理実習で南蛮菓子を作ったんだ」
「あ…」
「文次郎が、失敗したチョコを留三郎やっていた。あれは本当に酷い出来だったな、ただの嫌がらせだろう。さすが、仲の悪い事で有名な犬猿コンビと、私も苦笑したものだ」
「あ、ああ……」
「留三郎、お前も人が悪いな。皆ドキッとしたぞ」

 あ、そ、そっか。そうか。そうだよ。

 数日前、六年生が調理実習をしていたのは事実だった。
 そのお陰で食堂が一日使用不可になったので、皆よく覚えているはずだ。
 何を作ったのかは正直分からないが、事実に嘘を混ぜればそんなに不自然ではないかもしれない。
 僕はぶんぶん頷いた。

「え、ええ、ホントに!ぼ、僕まで驚いちゃいましたよ!」
「ホワイトデーにお返しだなんて、留三郎も随分な嫌がらせを考えたな」
「えぇえぇ、ホントに!ホントにその通り!」

 我ながらわざとらしい。
 三文芝居もいいところだ。
 しかし、その場にいた皆は一斉にホッとため息をついた。
 こんな言い訳で皆が心から納得したのか分からないけど、誰もが納得“したがって”いることは確かだった。
 事実誰も突っ込まない。
 食満先輩も、なぜか黙っていた。

「さ、こいつらの喧嘩なんて今更珍しくもないだろう。野次馬は帰った帰った」

 立花先輩により話が締めくくられると、皆どこか安心した顔で散って行った。
 やっぱり内心感ずるものがあったのかもしれない。
 誰もがどことなく、そそくさと去って行った気がする。

 でも何とかうやむやにすることは出来た。
 僕は安堵のあまり崩れ落ちそうになる。
 潮江先輩は相変わらず赤い顔で俯いていて、でも唇の震えは収まっていた。
 食満先輩は…憮然とした表情で立花先輩を見ている。

 やがて周りに人がいなくなったのを見計らって、立花先輩が口を開いた。

「大丈夫か、文次郎?」
「……おう」
「災難だったな」
「………助かった、ありがとう」

 食満先輩がフンッと鼻を鳴らした。

「…余計なことを」

 弾かれたように潮江先輩の顔が上がった。
 その表情を見て、僕は数歩後退る。
 目からは間違いなく殺人光線が出ていて、それは全て食満先輩に向けられていた。

「もんじ…」
「消えろ」
「え?」
「消えろ!消えろ消えろ消えろ!消えてしまえこの変態!」
「えええっ!」
「二度と俺の傍に寄るな!寄ったらてめぇの穴と言う穴にチョコを流し込んで、琵琶湖の底に沈めてやる!!」
「文次郎ッ!」

 バキッ

 あ。
 潮江先輩が振りかざした拳が、食満先輩の横っ面に見事ヒットした。

 うずくまる食満先輩をその場に残し、潮江先輩は走り去った。
 繰り返し“変態!”と叫びながら…。

「…いってぇ……」

 呆気に取られて潮江先輩の背中を見送っていた僕は、食満先輩の呻きを聞いて、はっと我に返った。

「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫…音が派手だっただけだ」
「やり過ぎたな」

 食満先輩は憮然とした表情で立花先輩を見上げる。

「…お前がちょっかい出すからだろ」
「それにしても可哀想に」
「何言ってんだ、自分だって助ける振りして楽しんだくせに」

 え?何?どういう意味?

 食満先輩は頬を擦り擦り立ち上がる。
 そして、訳が分からない僕を残し、潮江先輩の後を追って行った。

「……」
「富松」
「え、は、はいっ?」
「留三郎のアレは、半分わざとだ」
「え?」
「私が少しでも突っつくと、すぐに独占欲丸出しにして…いやはや、何とも幼いな」
「………」

 ニコニコ顔に疑問が湧いた。

「あの、さっき食満先輩が言ってた“楽しんだ”って…」
「ああ…」

 僕はビクっとした。
 笑顔に邪悪なものが混じったような気がしたからだ。

「もう少し別の助け方でも良かったんだがな……一回辱めて助ける方が楽しいだろう?」
「あの……?」
「文次郎はな、辱め甲斐があるんだ」
「……立花先輩?」
「しかし、留三郎は苛め甲斐がある」
「え?」
「辱めて楽しい方と苛めて楽しい方……どちらにするか、迷ってしまうな」

 何が!?何が迷うの!?この人何言ってるの!?

 内心パニックになりかけている僕に、立花先輩は涼しい顔で言った。

「追いかけなくていいのか?あの二人、また別の所で喧嘩しだすかもしれないぞ?」
「あっ!」

 そうだ、忘れてた!追わなければ!

 道端でチョコがどうのと言い争われては堪らない。
 僕は慌てて、細々した荷物やゴミをまとめると、

「し、失礼します!」

 挨拶もそこそこに立花先輩に背を向けた。

「ああ、頑張れ」




…そう言った立花先輩の声には確かな笑いが含まれていて、実は僕もからかわれていた事に気付いたのは……ずっと後になってからのことだった。




←main