小話
2013/01/16 19:41

「286っ」
「おー。お疲れ、留三郎」

会社帰りの留三郎が、謎の言葉と共に来店した。

「…286?」

本当はすでに閉店済みの時間だけれど、恋人の顔が見たくて、今日もついつい残業をしてしまった。
俺はポインセチアの鉢をショウケースの中に片付け、そのまま、コートを脱いだばかりの留三郎の背中に抱きつく。

「なんだ、その数字?教えろー」
「ん?あのな、」

留三郎は俺の手を取り、向かい合った後、握ったままの指先に軽くキスを落とした。

「駅の南口」
「うん」
「あそこからこの店まで、286」
「…286、歩?」
「どう?思った以上に近いだろ?」

けらけらと笑う、この男の真意が掴めない。

「あの…それだけ?」
「それだけ」

優しい微笑みで見つめられ、視線が接がせなくなる。

「遠く感じてたモノが、実は凄く近かった…そんな嬉しい気持ちを思い出しまして」
「…あぁ。そういう事」
「ドゥーユーアンダスタン?」
「イエス、アイドゥ」

今度は一緒になって、馬鹿みたいに笑う。

「…ま、文次郎の心が近いと知った時の喜びは、こんなモンじゃなかったけど」

俺は急に熱を持った頬を隠すため、今度は正面から留三郎に抱きつき。

小さな声で、同感、と呟いた。