小話
2012/08/04 06:41

『新しい家が欲しい。買ってきてくれないか?』


いつもより早く仕事を終え、会社から一歩外に出た瞬間に受信したメールには、こんな一文のみが書かれていた。

俺はとりあえず公園のベンチに座り、汗を拭いながら愛しの恋人に早速メールを返信する。

『いいよ、どんな色が良い?』
『薄めの青色。背は少し低めで、細いタイプが良い』
『了解、探してみる。文次郎は、今日何時まで店に残ってる?』
『お前が来るまで』

……ふふふ、嬉しい事を言ってくれるではないか。

ぶっきらぼうなくせに可愛らしいメールの文面を見て、自然に笑みが浮かぶ。

「よーし、待ってろよ文次郎!俺がお前のために、とっておきの『家』を見つけてきてやるからな!」

俺はビジネスバッグを握りしめて、勢いよく立ち上がった。


***


「……というわけで、新しい『家』を買ってきました。どう?」
「おー、良いなこれ。ガザニアの黄色が映えそうなデザインだ」


その数時間後、俺の買ってきた『家』を大事そうに抱えながら、文次郎は感心したようにこう言った。

「いま店にある『家』だと、ガザニアの横に添えるカスミソウが妙に目立ち過ぎてしまうんだ。この『家』なら、丁度良いバランスで花を活けられるな」

そう。
文次郎の言う『家』とは、『花瓶』のこと。

“人間と一緒で、花にも落ち着ける場所を作ってあげなきゃだろ”

とは文次郎の持論だが、『花瓶=花の家』という表現は、花を愛する文次郎らしい例えだと思う。

「ありがとう、留三郎」
「どういたしまして」
「えーっと、あと、さっきから気になって仕方ないんだが…」
「うん?」
「………なんだ、その不動産の雑誌は?」
「いやー、俺もいい加減家を借りようかと思って。…といっても安いアパートだけど」
「お前いま実家住みだっけ?引っ越すのか?何で?会社そんなに遠くないだろ?」

なぜか急に不機嫌になる文次郎に俺は首を傾げるが、文次郎は更にこう続けた。


「お前、引っ越したらこの店の前通らなくなっちゃうだろ。嫌だぞ、そんなの」


…おお、久々に来ました、文次郎の天然タラシ台詞…。

俺は胸キュンしつつ、理由を告げるべきかどうか迷っていた。

本当のことを言ったら、文次郎は怒るだろうか。


“文次郎と、一緒に住みたいなと思って”


それとも。
真っ赤な顔をして、慌てふためくのだろうか。


***


結局、本当の理由は言えないままだったヘタレの俺には、想像することしかできないけれど。

きっと文次郎なら。
驚いた顔をした後、はにかむように笑って。
それから俺の目を見て頷いてくれるんじゃないか、なんて。

そんな事を思いながら、俺は今日も新しい花瓶と不動産の雑誌を買って、文次郎の待つ店へと足を運ぶのだった。