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星冴ゆるエデンにて



 息も凍ってしまいそうな夜に、星を見るなんて酔狂なことを言い出したのが誰かなんてことは、想像に難く無いだろう。嫌というほど木々に囲まれた宿舎の屋上は、確かに星を見るにはうってつけの場所だった。――今が真冬だということを除けば。

 外に出ると言って聞かない同級生に、一月の山の寒さを舐めるなと声を大にして言ってはみたものの、なんの効果も無いまま今に至る。当の本人は天才術式とやらで、寒さなんて関係無いのだそうだ。
 対して一介の高専生である私は、服の隙間を泳ぐ冷気にガタガタと震える他無かった。隣でマフラーをぐるぐる巻きにした前髪が愉快な同級生も、一介というには余りに非凡な能力を持ちながら、自然の前では無力らしい。いつもの涼しい顔はどこへやら、珍しく私と同じような有様だ。
 盗み見た横顔からすっと伸びる鼻先は、潔いほど真っ赤だった。

 強制的に宿舎の屋上へ駆り出されること一時間弱。
 今この場に居るのは、子鹿のように小刻みに震える男女二人。言い出しっぺの同級生は、いつの間にか消えていた。
「五条の奴、絶対に帰ったよね?」
「悟が居なくなってからかれこれ三十分か。飽きて寝たかな」
「はぁ~!?言い出したの五条なのに!?」
「その文句は私じゃなくて悟に言ってやってよ」
「君の相棒どうにかしてよ!これは監督不行き届きです。私みたいなよわよわ術師じゃただの奴隷なんだから!というかもう本人居ないワケだし帰ってよくない?!」
「悟の相棒って?誰の話?あんな世間知らず相棒に選んだ覚えは無いなぁ」
「えっ怖い寒さに記憶飛んだ?大丈夫?」
「そういえば硝子はどうして居ないんだっけ?」
「私の天使なら最初っから馬鹿じゃないのって言ってたじゃん!何なのホント。寒さでイカれたの?帰ろーよ明日も授業あるじゃん」
「さすが硝子。判断が的確だ」
「ねぇもしかして私のこと嫌い?わざと無視してる?」
「まさかそんな。好きに決まってるじゃ無いか」
 先ほどまで何を言ってもさらりとかわされ、絶妙に会話は噛み合わなかったというのに、突然ピントが合ったような返答が返ってくるから、不覚にもどきりとする。
 夏油のニコリと弧を描いた口角は、凍り付いたように動かない。
――そういえばこの人イケメン枠だった。
 夏油の様子をまじまじと見つめながら思い起こすには十分なほど、冬の夜に浮かぶ彼の輪郭は絵画のような清廉ささえ滲み出る程だ。
 零れんばかりの星屑と、美しい横顔の同級生。どんな形容詞も持たない私。あまりにも全てがちぐはぐな夜。
 一体どうして、こんなことに。
 そもそもの始まりは、硝子の部屋でそろそろお風呂入って寝ないとね、なんて学生らしい中身の無い話に花を咲かせていた時のことだった。
 突然勢い良く開かれたドアの前には、なぜか自慢げな顔をした五条と、なぜか機嫌のいい夏油が、仁王立ちで立っていた。
 呆気に取られている私と感心ゼロの硝子を見据え、レディの部屋にノックもしないでずかずかと上がりこんできた頭のおかしい同級生どもは、私達の冷え切った目線もお構いなしにこう告げた。
「早く支度しろ!星見るぞ星!」
「二人とも一緒に行こうよ」
「馬鹿じゃないの?1月の山の冬だよ?最悪死ぬ」
「俺は無下限あるから大丈夫心配すんな」
「私は一般常識的な話しかしてないしなんなら五条の心配は一ミリもしてない」
「まぁまぁ。規制の多かった悟は可哀想に、今まで一度も友達と星を見たことないんだ」
「え?割とのびのび生きてきたけど友達と真冬に星なんか見たこと無いよ?」
「よし。じゃあ行こうか」
「硝子ぉ〜会話の噛み合わない人しかいない怖い!」
「こいつらと会話しようと思うことが馬鹿じゃない?うるさいからさっさと星でも海でも行ってきなよ。あたしは寝るけど」
「硝子あったかくして寝なよ?おやすみ」
「待ってなんで丸く収まろうとしてるの?」
「さぁ、行こうか」
「おい遅せぇよ夜峨センに見つかったらどやされんだから早くしろ」

 思い返せば返す程、ろくでもない理由で今ここに自分が居ることを思い出す。
 一番腹が立つのは勿論、言いだしっぺであろう五条だ。人様を半ば拉致しておいて、幾許も経たないうちに帰るなんて本当に良いご身分である。明日絶対夜蛾センにチクる。自分では返り討ちになるだけなことぐらい、私は知っている。
「あれ見える?ペルセウス座」
「へ?」
「だから、あれがペルセウス座」
「あ、はぁ」
「メデューサの生首を持ってるんだ。手の位置にあるのが変光星アルゴル。悪魔って意味で、」
「…夏油って星座博士だったの?」
「この時期はペルセウス座辺りに流れ星も多いんだよ」
「あくまで無視なのね」
呆けていた私を咎めるように、夏油はぴっと空を指差した。
 矢継ぎ早に爪が弾く先々を、私は必死に目で追いかける。夏油の差した深い闇の中で、星々は爪痕のようにくっきりと瞬いていた。
 夏油に言われるがまま、無数に輝く点と点を目で繋いでいく。小さな儀式のようなそれは、人間のエゴそのもののように思えた。
 どの位の時間が経っただろう。
 星に夢中になっていたせいか、いつの間にか私と夏油の距離は、当初座っていた場所よりも随分と縮まっていたらしい。
 突然微かに触れた肩の感触に驚いて、反射的に「あ、」と小さな声が漏れる。
 その声が妙に恥ずかしくて私は思わず口を両手で塞ぐ。夏油の視線は夜空から離れ、今度は私を真っ直ぐに射貫いていた。
 触れた肩は冷たいままなのに、夏油の瞳はやけに熱っぽく湿り気を帯びている。二つの眼が何を映しているのか、私にはとうとう分からないまま、時間だけが悪戯に過ぎてゆく。
 どうして五条が帰ったと分かっているのに、夏油はこんな寒空の下に居ることを選んだのだろうか。どうしてわざわざ私に星座の話なんかしたのだろうか。
 氷漬けになった微笑みの奥にある底知れぬ熱を、私は垣間見ながらも手を伸ばすことに躊躇して、ずっと一歩離れた場所から見据えている。
「そろそろ帰ろうか」
「……うん」
 そう言うと、夏油は私に手を差し伸べた。
 所作があまりにも自然なものだから、私はそうすることが最初から正しいような気分になって、夏油の手を迷わず取ってしまった。
「手、冷たいね」
「お互い様じゃない?」
「握っても冷たいままだ」
「どっちも死んでるみたい」
「このまま死んでいたら、アルゴルになるのかもしれないな」
「じゃあ私はペルセウスになって、メデューサの首を取るわ」
「勇ましいね」
 ふふ、と、どちらからともなく漏れた笑みは、凍てつく夜が攫っていく。
 交わった指先だけが、お互いの熱を許していた。


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