book | ナノ
無垢の檻 4
随分とこの国にも馴染んだものだ、そんなことを考えながら名前はもはや定位置となっているカウンターで色とりどりのクリームがたっぷりとのった可愛らしいサヴァランを一口頬張った。口の中に入れた瞬間、じんわりと染み出すような甘さのスポンジがなんとも幸福を運んでくる。向かいで作業をしていた店主が「あんた本当に上手そうに食べるよな」と呟いたので、その言葉もまた幸福の一端だと名前はにっこりと頬を緩ませた。
さて、そんな順風満帆にも思える名前の専らの関心ごと。一番は勿論自身の仕事についてであったが、次点は言わずもがな店主のことだろう。以前マーケットのスパイス店で"店主"と偶然出くわした際、スパイス店の店主は彼を"ターナー"と呼んでいた。名前はあの場で自ら名乗ったので、もしかしたら店主は名前の名前を覚えたかもしれない。けれど名前は?彼の名前も出身も年齢だって未知である。彼がこの店の店主で、確かな料理の腕前があること、そして空と海の境界線のような鮮やかなブルートパーズの髪色の持ち主だということ。それ以外、ただの一つも知らないのだ。どうして名前が店主についてこんなにも思考を巡らせるようになったのか。それにもまた、きっかけがあった。
すっかり店の常連となった名前は、今では自分以外の常連とも顔なじみで、会えば軽く会話をしたり、それがきっかけで仕事に繋がったり、元来の彼女の性格がこの場所でも生き始めていた。例えばパン屋の初老の男性、裏手の花屋の三人家族に同い年ぐらいの新婚さん。それからいつも静かに食事をしている男性等々エトセトラだ。
そしてそれは先月の週末。名前がランチがてら定位置のカウンターで読書をして過ごそうとしていた時だった。いつもは同じタイミングで店を訪れても軽く会釈をする程度の、如何にも寡黙そうな男性が、何故だか今日は空いている店内で名前の隣の席に座ったのだ。今日は食事が出てくるまで本を読もうと意気込んでいた名前はその気配に全くと言っていいほど気付かず、黙々と目で文字を追うのに忙しかったが「あの…」という聞き慣れない声にはたと顔を上げる。まさか隣に誰かが座っていたとは思わず一瞬たじろいだ名前だったが、話しかけられているのが自分と分かり、営業スマイルが無意識に口角が弧を描く。これはもはや職業病に近いものがある。
「なんでしょうか?確か、こちらのお店で何度かお見掛けしてますよね…?」
「あ、あぁ。貴方はパン屋の店主とよく話してるだろ」
「はい!パン屋さんとお知り合いですか?おじさんとっても良い方ですよね!」
本を膝に置いた名前は、そう言って今度は意識的に微笑んだ。その笑顔は先日一つの商談がまとまったのが『パン屋のおじさん』が取引先の旧知の仲だったことから始まったことに起因していたのだが、そんなことその男性は知る由も無い。けれどこの国特有の人見知り気質の人々にとって、太陽のように晴れた名前の屈託のなさがその男性の目にどのように映ったのかは想像に難く無いだろう。そしてその日がまた一つの厄介ごとの始まりであるなんて、名前もまた想像もしていなかった。
それから何回か同じように名前の隣に座るようになった男性は、ある日名前へこんな質問を投げかけた。
「そういえば、店主さんの名前って知ってる?」
「…っへ?」
「いや、随分親し気だから、旧知なのかと」
「あー…そんなこと無いです。私なんてまだこのお店に通い始めて半年も経ってないですし。そこまで仲良く、なんて」
「へえ。…そうなんですね」
名前は言い終えてから、そこまで否定することは無かったかな?一度はお茶もした仲ですし?と心の中で誰にも聞こえぬ弁明をしていたが、それきり店主の話題が持ち出されることは無かった。正確には「お待ちどうさま」と言って店主が運んできた鹿のソテーのあまりの香ばしい香りに名前が心をあっという間に奪われて、そのまま会話が強制終了されたのだったが。
「店主さん!これってベルナッツ入ってます?すっごく良い香りがします」
「ご名答。さっと火を通すと良いアクセントになるんだ」
既に料理に夢中になっている名前を横目に、隣に座っていた男性は何かを考えるような素振りだった。その間に店主が男性を一瞬だけ、まるで刺すような視線を向けたことは、名前も、その男性も、そして店主本人も気付いてはいないだろう。
そういった訳で、マーケットでの一件もあり名前は少々過剰なまでに店主に対してごちゃごちゃとした感情を抱えていたのだが、何分一度失敗していることもあって、なかなか『名前』という個人情報を聞くことが果たしてこの関係に相応しいのか、ということに頭を悩ませたまま日数だけが過ぎていった。
「あー…もしかしてサヴァラン、イマイチ?」
冒頭に戻る。
口の中で溶けていく色鮮やかな生クリームに名前は自分の心まで解れていくような気分だったが、その気持ちとは裏腹に眉間にはくっきりと皺が寄っていたらしい。それを見た店主は、名前にそれを伝えるか数分悩んだものの、結局先ほどのようなコメントを口にすることとなった。
「え!?なんでですか?いつも通りとっても美味しいですよ!」
「それならいいんだけど…ここ」
「ここ?」
「眉間に皺寄ってる。考え事?」
「っひゃ!は、恥ずかしいですね、そんな大したことでは無いんですけど…」
店主に指摘され思わずおでこの辺りを隠した名前は、まさか本人に『店主さんの名前を聞きたいけど聞けなくてもやもやしていました』なんて恥ずかしいことが言える筈も無く、歯切れが悪くもじもじと小さくなるばかりだ。それをどう勘違いしたのかは定かでは無いが、店主は浮かない顔の名前を見て、ひとつ心当たりがあることを思い出した。
「そういや、最近あの静かなお客さんと仲良いよな」
「え?あぁ、たまにお隣に座ってますね。今までそんなこと無かった気はするんですが、あの人も本当はカウンターお好きだったんですかね?」
「んー、そういうわけじゃないと思うけど…」
「?」
「まぁあんたが困って無いならいいよ」
「人が選ぶ席にとやかく言う権利は無いので!私は自分が美味しくご飯食べられれば大丈夫です!」
「そういう考え方になっちゃうんだなぁ…少しあのお客さんが不憫というか、なんというか…」
「あ、そういえば、店主さんが他の常連さんとしっかりお話ししているの、私あまり見たことないですね」
『そういえば、』というのが何を指すのか。名前は自分から話題を変えておきながら、随分と強引な切り口だなと自身に苦笑するしか無かったが、もう背に腹は変えられなかった。きっと名前のことを聞くのなら今しか無い。それは名前の直感であり、思い切りの良い性格だからだろう。『他の常連の方は店主さんのことなんて呼んでるんですか?』『みんな店主さんですか?』頭の中で出来るだけ自然に、なんてことないように、何度も返答を反芻する。よし、何食わぬ顔。出来ている。大丈夫。おかしくない。そんな考えで頭を一杯にしていたのに、店主から思わぬ切り返しをされて、名前は頭が真っ白になった。
「あー、そこまで会話することも無いかな。今はあんたが一番よく話すお客さんなんじゃないか?」
「へー他の常連さんは店主さんのことなんて、…え?」
「ん?」
「そんなに、話さない?」
「あんたはさ、いわば期間限定のお客さんだろ?半年経てば中央に帰る。だからっていう訳じゃないけど、今はこの店の誰より気軽に話せると思うよ」
「あ、あぁ…そういう」
「そういえば、何か言いかけてなかったか?」
「いえ!いいんです!あー今日も美味しかった!ご馳走様でした。また明日!お金置いていきますね!」
「…へ?あ、あぁ」
名前はいつもなら今日のディナーが終わってしまう、と後ろ髪を引かれる思いで飲み終えるコーヒーをずずっと一気に飲み干すと、いつもの5割は俊敏な動作でお金を置いてそそくさと店を出た。
『期間限定のお客さん』そんな副産物、全く望んでいなかった。こんなことなら、何にも知らないままの方がよっぽど幸せだった。ぎゅっと唇の端を噛んで、手のひらに力を込めて。泣きながら往来を歩くなんて、いつ商談相手に見られているか分からないので名前は宿までどうにかして耐えた。借りている宿に着いて部屋のドアを開けるなり、どっと溢れだした涙は止まるところを知らないようだった。美味しい料理と気さくな振る舞い。優しくて少し意地悪な青年に、この国に来てから名前は随分と助けられた。どうして今、こんなにも些細な言葉に傷ついている自分がいるかだなんて、もう自覚してしまったらそれまでだ。それなりに多く旅をして、色々な土地で色々な人に出会って。それでもこんなのは初めての出来事だった。先ほど思い知ってしまった感情に名前を付けるのはあまりにも忍びないと、名前はただ瞼の裏に映るブルートパーズを眺めることしか出来なかった。
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