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象徴-T



昔から、良くも悪くも私の感はよく当たる。牢に入れられた日も、その予感に怯える私の手を美々子は決して離さなかった。そしてあの暗い牢から手を引かれた日も、その予感に希望を見出せずにはいられなかった。だからそう、これはきっと。








いつものリビングで美々子とお留守番。昼間は外出していることが多い夏油様は、それでも辺りが暗くなる頃にはいつも帰ってきてくれたし、もし事情がある時は時雨というおじさんがめんどくさそうにしながら夕飯を買ってきてくれるのがお決まりだった。けれど時計を見るともう九時を過ぎた頃で、こんなことは初めてだ。それがまるでこの予感を裏付けているようで、美々子と見ている映画の内容も上手く頭に入ってこなかった。



あの晩。夏油様が私達を連れ出してくれた夜から。居場所として与えてくれたこの小さなマンションの一室は、私と美々子と夏油様。三人で全てが完結する完璧な楽園となった。
朝はカーテンから差し込む朝日の眩しさにまだ慣れず、驚いて目覚めると夏油様は優しい顔でおはようと言ってくれる。夏油様のお料理はいつも少しだけ焦げていて、すまないと口にする姿が可愛くて好きだというのは美々子との秘密だ。夜にふと思い出す牢の冷たさに心細くなれば、夏油様はいつだって眠るまで手を握ってくれる。すてきなすてきな、私達の楽園。絶対に誰にも渡さない。完璧な世界。それなのに。




「奈々子、美々子。ただいま」



玄関の扉が開いたのにはっとして、私は意識を視界に戻す。
見ていた筈の映画は既に終わっていて、何時の間にか地上波のバラエティ番組が付けられていた。扉の音と同時に聞こえた「ただいま」が、いつもは堪らなく嬉しい筈のその声が、今日はこの予感のせいで随分と重いものに感じてしまう。俯く私を不思議そうな顔で覗き込む美々子に、何でもないと言って手を繋ぎ、私は重い腰を上げ玄関の方へと足を向けた。どうしたって払うことの出来ないこの不安も、きっと夏油様の顔を見たら全部吹き飛んで、何時ものように大好きだけで心は埋まる筈。それなのに。


「は、初めまして!」



やっぱり私の予感は外れない。喉がからからに渇いていく。じんわりと指先から冷えてゆく。美々子が私の腕をぎゅっと抱いた。私も、その腕に縋るように身を寄せる。

夏油様の隣には、見ず知らずの女が立っていた。







あれから一ヶ月。

見ず知らずの女は"名前"というらしく、夏油様の古い友人なんだそうだ。私はとにかくその女のことが気に食わなくてしょうがなかった。
朝起きて一番に顔を見るのが夏油様じゃないなんて考えられなかったし、お料理に失敗する夏油様の困った顔が見れなくなったことも最悪だった。そしてなによりも気に食わないのは、夏油様がその女に対して私達の知らない顔をすることだ。


「名前」


私達に向ける、優しい顔。それは世界で一番素敵で大切な、私達だけの魔法だと思っていたのに。名前という女の名前を呼ぶとき、夏油様は一等美しく、それから、少しだけ切なそうな顔をする。私はその時何故だかとても負けた気分になって、わざと後ろから夏油様に抱き着いたり視界に入ったりして、それでも決して怒ったりしない夏油様に安心して、横目で勝ち誇ったような気持ちを"名前"に向けるのだ。けれどそれを嬉しそうに眺める"名前"に、また私は腹を立てて、結局べーっと舌を出す。それを黙って見ている美々子は半ば呆れ顔で溜息をつく。これがこの一ヶ月の決まり事のように、じわじわと"名前"の居ることに慣れていってしまっている自分が、美々子が、夏油様が居る。嫌だ嫌だ嫌だ。三人ではないことが、この楽園の"日常"になってしまうなんて。






「あんた、邪魔なのよ!」
「うーんやっぱりそうだよねぇ…」


夏油様の出掛けた昼下がり。リビングのソファに座っていたその女の前に、私は仁王立ちで立ちふさがった。"名前"は私の渾身の嫌味にあっけらかんと同意を示すと、私はそこからどうしたらいいのか少し戸惑って、無理やりに「だから」と続ける。

「分かってるならさっさと出て行きなさいよ!」
「突然大事にしていた居場所に知らない奴が入ってきたら、それが普通だよね」
「そうよここは私と美々子と夏油様が居ればそれでいいのだから、」

そう言いかけて、けれど言葉は最後まで続かなかった。よし!と明るい声で"名前"が私の言葉を塞いだせいだ。

「だから、取引しようか」
「…は?取引?」
「そう取引」

ニヤリ、という言葉がぴったりと当てはまるような、ずる賢そうな笑みを浮かべた"名前"は、美々子もおいで、と手招きしてから私と美々子をソファに座らせ、床に腰を下ろして言葉を続ける。


「奈々子も美々子も、傑のことが大好きでしょう?」
「傑って呼ぶな」
「ごめん!」
「奈々子、話が逸れる」
「こほん。で、えーっと私も夏油様のことが、す、好きなので」
「照れるのキモイんだけど」
「…ごめん」
「奈々子!」

えーっとだからつまり、

「私は過去の夏油様を知っているし、今の夏油様は貴方達の方が知ってるでしょう。だからお互い沢山話をして、沢山夏油様のことを共有しましょ?…駄目かな」

段々と気弱な声になっていく”名前”が発したそれは、私には大層な衝撃だった。私の知らない夏油様。その甘く魅力的な響きも、今の夏油様を私達は"名前"よりも知っているという誇らかな響きにも、眩暈がするような気持ちになって、私は思わず息を呑んだ。

「私その取引のってもいいよ」
「ちょっと美々子!」
「名前の作るご飯美味しいしね」
「ほんと?嬉しいなぁお姉さん今日も張り切っちゃう!」
「奈々子はどうするの?」
「えっ!そ、その…」
「奈々子、急いで決めなくてもいいよ」
「あーっもう良いわよ!のってやるわよ!ただし、私達の方が、今の夏油様のことは良く知ってるんだからね!」
「うんうん、沢山教えて欲しいなぁ」
「っふん!あんたの態度次第よ!」

目一杯の悪口にも、やっぱり"名前"は見知った顔で優しく笑うだけだった。
どうやら、私達の楽園はもう戻ってこないらしい。けれど少しだけ。少しだけ今日からは昨日よりも楽しい日々になるような気がするから。


「ただいま、…何やら楽しい話でもしてたのかな?」
「「「女同士の秘密!」」」
「随分と仲良くなったようで嬉しいよ」

そう言って笑う夏油様の優しい顔は、やはり今日も世界で一番素敵だった。


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