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磔刑のコンポジション



懐かしい夢を見た気がした。






微睡の中で薄っすらと目を開けると、空は晦冥の中に星だけを抱いていた。簡素な屋上には幾らかの観葉植物と、こじんまりと置かれたアイアンのアームチェア。それらは私の気に入りで、その場所で過ごすことが束の間の休息だった。今夜もシャワーを浴びて、ふと思い立った私は吸い込まれるようにこのアームチェアに腰掛けると、いつの間にやら居眠りをしていたらしい。双子の姉妹にバレたならきっと可愛らしいお小言が飛んでくるだろう。最近そういうところまで、彼女に似てきてしまった。名前のことを"姉さん"と慕う美々子と奈々子、そして少し照れながら返事をする名前の様子は随分と見慣れたものになった。そうやって、一挙手一投足を思い出しただけで自然に笑みが漏れる相手なんて、私の世界には1人しかいないだろう。彼女のことを考えている時、自分でも不思議なぐらい心は穏やかで細波の一つも立たないのだから、随分と現金なものだ。彼女の自由も安寧も、全て奪ったのは自分だというのに。


思考に一人耽っていたその時。扉の奥から物音がしてその気配を探ると、それは今まさに考えていた彼女のそれだった。大方いつまで経っても戻らない私を探しに来たのだろう。そうして彼女の気配に当てられると、今度は少し高めのメゾソプラノで自分の名前が呼ばれるのを無意識に期待している。こういう時、自分がどれだけ意義だ大儀だと喚いていても、結局は人一人に執着を捨てきれなかったちっぽけな男だと思い知らされる。それは酷く幸福で、また滑稽な自己認知だ。
そうして扉を開けたのは案の定名前で、やっぱりと呟くと、彼女は「何が?」と首を傾げた。一歩ずつ何の迷いも無く私に近付くその様子は、何年か前に彼女を迎えに行った時からは想像も付かない程に穏やかだった。

「傑、美々子と菜々子が探してるよ」
「あぁ。もう降りようと思っていたところだよ」
「…もしかして寝てた?風邪引くよ?」
「少しだけ。彼女達には内緒にしてくれ。最近名前に似てきて心配性でね」
「似てきてってどういう意味?」
「…綺麗になったって意味かな」
「そんな雑な話の逸らし方ある?」
「そこは照れるところじゃない?」
「今更そんなお世辞に照れもなにもありません」
「それは残念だな」

軽口を叩き"もう降りようと思っていた"なんて口にしながら、名前の顔を見たら益々この椅子から立ち上がるのが惜しくなってしまう。少し冷える秋の夜風も、それを受けて小さく揺れる植物達も、攫われるようになびく名前の髪も。全てが今私の手の中で燦燦と輝いているように思える、けれどありふれた風景を、私はどうしてか一秒でも長く記憶に留めておきたかった。

「名前。髪を結んでくれないか」
「え?ブラシとか何も無いけど、今なの?」
「うん。今がいい」
「傑はさぁ…ほんと、まぁいいや。はい、やるから前向いて」

彼女はそこまで言うと、甘く小さな溜息をついてからそっと私の髪に触れた。ゆっくりと丁寧に掬いあげられていく感触は、また睡魔が手招きをするように緩やかで優しい。その時思い出したのは、見慣れた木造の古びた校舎の一室。騒がしくよく聞き馴染んだ声と、ほんのりと香る紫煙。それから、労わるような感触。思えばあの頃から、私は彼女を逃す気などさらさらなかった。


「名前に髪を触られるのは二度目だ」
「え」
「二年の夏だったかな」
「傑、あの時起きてたの…?」

驚いた名前は、ぴたりと髪の毛を掬う手が止まる。

あの日は確か取り込んだ呪霊の酷い瘴気に辟易として、一人使われていない空き教室で吐き気が過ぎるのをただじっと堪えていた。そんな私を見て昼寝をしていると勘違いしたのが悟なのか硝子なのかは分からないが、意識がはっきりとしたきた頃には何時の間にやら同学年が全員集合していたというわけだ。そんな姿を見たら名前ならそのまま寝かせておいただろうから、わざわざ残りの二人を呼んだのは十中八九名前以外の二人だろう。そういえばあの頃から、名前はどこか私達と一線を引き、いつも遠慮がちに一歩下がっていた気がする。それが彼女のコンプレックスが要因なのには薄々気付いては居たけれど、それでも決して着いて行くのを名前は辞めようとはしなかった。そして振り向けばいつでも笑顔で「なぁに?」と返事をするものだから、私はその顔が見たくて振り返るのがいつからか癖になっていたんだ。勿論そんなこと、彼女には告げたことなどないけれど。
そうして集まった同級生の視線を浴びて起きるタイミングを失った私は、あくまで寝たふりをきめていた訳だが、ひそひそと幾らか口論が聞こえた後に私の背後に立ったのは名前一人だった。どういう経緯かは知る術もないが、どうせ悟と硝子が焚きつけたのだろう。名前の何かを決意したかのような緊張した空気は視界に入らずともひしひしと伝わる程で、そんな名前がその時どんな顔をしていたのか、容易に想像できることがおかしくて、私は寝たふりをしながらも肩を震わせないことに集中していた。当初は私に悪戯でも仕掛けるつもりだったのだろうが、悟と硝子はもう私が起きているだろうことにとっくに気づいていただろう。仕掛けているつもりが、いつの間にか名前が悪戯を仕掛けられていたというわけだ。結局名前はゆるゆると私の髪を解いてから一度掬ったところで、「無理!!!」と大声を出したかと思うと一目散に教室から飛び出していった。不意に消えた心地良い感触に少し残念な気持ちになった私は、残された二人の笑い声に目覚めたことにして起き上がる。けれど起きて早々「狸って面じゃねぇだろ!」と悟に喧嘩を売られ、そこから何時ものように取っ組み合いに発展した。確か気が付いたら硝子は居なかったし、走っていった名前の一瞬見えた後ろ姿が耳も首も真っ赤だったので、私は何があったのかを問い詰めることも忘れて満足してしまったのだった。あの頃にはそういった"日常"が、確かに存在していた。

「今思い出しても恥ずかしい…」
「結局あれはなんだったんだ?」
「一生教えないです」
「まぁあの時は結局結んで貰えず終わったから、今日はリベンジできて良かったよ」
「もう黙って!」

そう言ってぐっと力を込めて髪を縛る名前の照れ隠しに、何年越しかに肩を震わせて笑うと、髪を結び終えた後には軽く拳が飛んできた。それから緩やかに伸ばされた腕がそっと首に回されて、名前の香りが鼻孔をくすぐる。後ろから抱きしめられる形になった私には名前の表情を推測する以外術は無いのに、それでも名前はその感情を悟られまいとするかのように、私の首元にぐっと顔をうずめた。

「…傑あの頃よりも髪伸びたよね」
「そうだね」
「あの頃は傑を抱きしめる日が来るなんて想像もつかなかったな」
「私はあの頃から、名前を逃す気なんてさらさら無かった」
「ふふ、それならいいの。ねえ、もうすぐ秋も終わるね。それが過ぎたら冬」
「それが過ぎたら春だ。家族で花見でも行こう」
「いいね。賛成」

声を少しだけ上擦らせながらそう口にした名前は、それから私の首筋に一つ、爪痕のようにキスを落とした。

いつかの春。それは学び舎で見た、淡紅に色付く世界の中。その時居たのは親友と、悪友と、そして私の初恋だった。けれどこれからの春は、同じ色の中で笑い合うのは私が選んだ"家族達"だ。そうして隣には、名前が居る。全てを捨てて、憎み、選別を選んだ私が見るには、それらはあまりに都合の良い夢だろう。そしてそんな夢が叶うことは無いのだと、名前も私もどこかで分かっている。けれど今この瞬間だけは、その未来を望むこともまた、滑稽で、不毛で、悪くは無いと思うのだ。


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