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ヴァルールに捧ぐ



「傑は、私にどうして欲しい?」

彼女を抱いた一度切りの夜。
問われた意味の最適解を、私は未だ探せぬままでいる。









 傑は居なくなった。世の中に対する憎しみの残穢を、たっぷりと含ませて。
ではそれからの高専はどうなったのか。最初の数ヶ月は傑を探そうと躍起になった上層部に尋問を受けたり謹慎になったりと日常とは言い難い慌ただしさに辟易とする日々だった。けれどこの万年人手不足の業界で、三人もの呪術師を軟禁状態に出来る時間などたかが知れている。それに加えて二名はただの呪術師では無い、最強と希少な術式保有者だ。程々のところでそれまで通り任務に出され、何もなかったかのように『祓う』、『生き残る』。そういう無機質に続く日常だけが手元に残り、延々と目前に広がるだけだった。それは呪術師として生きている以上、永遠に終わることのない地獄。そうして去っていった後輩の背中を横目に、結局私はそれでも呪術師を続け、否が応でもそのループを繰り返し続けた。けれどそれも、昨日までの話だ。


「無職のアルコールって最高!」

高専を卒業し都内のワンルームへと拠点を移した私は、小さなソファの上で缶ビールを開けていた。何の目的も見出せないまま呪術師として働き数年。きっかけなんて無くて、ただもう気が付いたら前に進めなくなっていた。ある任務に赴いた帰り道、私は辞表なんていう安っぽい紙切れ一枚を夜蛾学長に手渡して、そうして先ほどまで隣り合わせだった生死と決別したのだった。あの人は私の選択に何も口を出さなかった。ただ一言、「生きろよ」とだけ。私の肩を叩いて、目も合わせぬまま部屋から出ていった。

硝子や悟に何も言わなかったことを、彼らがどう思っているかは少しだけ心残りだ。けれどもう終わった、終わらせてしまったことだ。呪術師を辞めた人間の寿命は長い。全て忘れて、終わらせて、新しい人生を生きようと思ったのだ。それは誰にも咎められることではないし、その選択に誰もとやかく言う権利も無い。そう自分に言い聞かせて、私は缶ビールに口を付ける。結局、呪術師を始めた頃から住んでいたアパートから、出ることはしなかった。

呪術師を辞めてから一年。
曲がりなりにも企業に勤め、自分が望んでいた『生死を他者に決められることの無い』ぬるま湯のような生活をしている。もう明日またこの部屋に帰ってくるかを心配するような生活とは無縁になった。せいぜいストレスといえば上司とそりが合わないだとか、言い寄ってくる面倒くさい先輩をかわすのに骨が折れるだとか、そんな程度のことだ。けれどこれが自分の性に合っていた。あの時まで居た場所が分不相応だと、私はこの一年間嫌というほど思い知らされたのだ。もう是が非でもあんな場所に戻る気はさらさら無い。それがこの一年の生活で納得した私の結論だった。それなのに。



「やあ、久しぶりだね名前」
「勘弁してよ…」

残業後、遅くなってしまったと私は足早に家路につこうとしていた。エレベーターで一階まで降りて、社員証をかざしてエントランスを抜ける。入口の自動ドアが開いたところで、どうしたって忘れることの出来ない声に、私は半ば反射で顔を上げた。そこに立って居たのは、もう何年も会っていない級友。二度と会う筈は無かった、一夜限りの過ち。思わず一歩後ろへ下がると、コツンと未だ慣れないヒールが弱弱しい音を上げる。傑はにっこりと、あの頃と同じ穏やかな笑顔でこちらを見ていた。けれどその両隣には禍々しい呪霊を携えて、それらが放つくぐもった呻吟に眩暈で立って居るのもやっとな程だ。そんな光景が人の往来が多い大通りで行われ、それは間違いなく『異質』である筈なのに。それは一定の者にしか分からない。私が全部捨てたその一定である力が、嫌でもそれを認識してしまう。そんな現実が、普通のふりなんて無駄なんだと、私の選択を嘲笑っているようだった。

「呪術師を辞めたんだって?風の噂に聞いたよ」
「だから何?私よりずっと前に辞めた奴が今更何しに来たのよ」
「呪術師を辞めたなら、もう名前を殺す理由も無いからね」
「あの日私には顔見せなかった奴が何を今更」
「気にしてたの?相変わらず名前は可愛い」
「馬鹿にするのも大概にしてよ!」

お互いに一歩も踏み出さないまま滑らかに紡がれる言葉だけが、未だ自分の命が尽きていないことを確認する術だった。嫌な汗が頬を伝い、本能は逃げろと私に泣き叫ぶ。命という喉元に刃を向けられているのは分かり切っているのに、どうしてだか私の足はぴくりとも動かなかった。

「立ち話もなんだから、場所を変えないか」
「は?何言って、」

私の言葉は最後まで言い終えることは無く、いとも簡単に視界は暗転していった。




ぴとり。頬に突然訪れた冷たさに、私は不快の中で目を覚ました。ぐらぐらと揺れるような頭痛に思わず眉を顰めるも、拘束されている訳でも無かった私は頬に当てられたであろうペットボトルを自分の手で乱暴に取り上げる。それを笑って見ている傑の隣にはもう呪霊達の姿は無く、辺りをゆっくりと見回せばそこは知らないマンションの一室で、私はどうやらソファの上に寝かされていたらしい。傑はゆっくりとした足取りで向かい側のソファに座り、自分も置いてあったペットボトルに口を付ける。部屋は静まり返っていて、他に何の気配も感じられない。どうやらここには私と傑の二人だけのようだった。

「…なんのつもりよ」
「立ち話もなんだから、場所を変えようと言っただろ?」
「話すことなんて、一つも無い」
「弱者にはいつだって選択権なんて無いんだ。惨めだね」
「今更気付いたの?私はあの頃からずっと弱者だったじゃない」

私の自暴自棄とも取れる反論は傑の予想外だったようで、驚いた表情を浮かべる様に私は少しだけ気分が上向く。それは私に反論するような呪術師としての矜持も残っていなかっただけだったが、傑が私のコンプレックスすら買い被っていたのかと思うと心底滑稽だった。ずっと、ずっとだ。私に呪術師の矜持なんてものは無い。ただそこにあったのはわが身可愛さと、大切にしたいと思っていた級友達へのちっぽけな虚栄心だけだった。

「なんで私が、あの日名前の前には現れなかったと思う?」
「今更その話をすることに、何の意味があるの」

傑が離反した時、一度だけ硝子と悟の前に現れた。それは悟から当然接触しているだろうと連絡を受けた私が、最後の虚栄心を根こそぎ失った日の話だ。傑は私の前に今日この日まで現れなかった。

「私はね、分からなかったんだよ」
「…聞きたくない」
「名前に、『どうして欲しい』と問われたあの夜から」
「聞きたくないって言ってるじゃない」
「ずっとその問いの答えを考えていた」
「何もかも全部終わったことだよ」
「分からないまま、名前に会うことはしたくなかったんだ」

どくどくと血が沸き立つような、自分ではどうしようも無い苛立ちが全身の震えに変わってゆく。あの夜、私は確かに傑の隙間を埋める役割を手にしたのだと、それは悟でも硝子でも無い自分なのだと。それが生きる為の価値なのだと信じて疑わず、代えがたい宝物を手に入れたように嬉しかった。しかしそんなのは思いあがった思想は、愚鈍で、無恥でしか無く、何の意味も無いことだったのに。それを突きつけたのは傑本人じゃないか。それを今更掘り返してなんだというのか。それに今更、意味を持たせようというのか。そんな高慢あんまりじゃないか。

「…側に居てくれないか。それが私の答えだよ」

そう言って、震える私を傑は後ろから抱きしめた。嗚咽を繰り返す私をあやすように優しく髪を撫でつける無骨な手のひらは、あの日私を掻き抱いたものと同じなのに。どうしてこうも上手くいかないのだろう。私を置いて行った傑のことが私は心底憎かった。あの夜に手を取って貰えたと思っていた自分が恥ずかしくて、可哀想だった。このまま憎ませてくれたのなら私はもうこれ以上何も失わずに済んだのに。

「傑はさぁ本当に、馬鹿だよ」
「すまなかった。けれど、私はもう自分の道を決めてしまったんだ」

どこまでも狡く酷い男だと頭では理解できているのに。結局私から傑の手に自分の手を重ねた。本当にこれでいいのかと何度頭の中で警笛が聞こえても、私には抗う術など最初から用意されてはいないのだ。傑は手の平を返して指先を絡め、まるで壊れ物を扱うようにやんわりと力を込めた。後頭部に降り注ぐ唇がこの場にそぐわない甘さを秘めて、私はどこまでも泣きたくなった。この手を取ることを咎められる者が居るのなら教えて欲しい。この無限に続く地獄の先に、堕ちないことに、一体何の意味があるのか。

「もう一度だけ、一緒に堕ちてあげる」

その晩、私は呪詛師となった。


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