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アミシ・ルーフ・プリズム



これは彼女の悪癖の話だ。

東京とは名ばかりの山深い場所に位置する呪術高専は、所属する生徒数の数に対して不釣り合いな程に建造物が多く校舎から寮・運動場まで揃っているが、それでもやはり"山"と称するしか無い自然がその殆どを占拠していた。その為高専の領地内といえど人目を憚ることなど造作もなく、それは時に都合がよくまた逆も然りである。けれど今、彼女にとってそれは前者の役割を果たし、またそうであることが彼女の望みであった。

生徒寮の裏手にある山間を西側に進み獣道を幾ばくか抜けると、生い茂った木々達から視界が開ける地点がある。そこには水溜まりと言うには些か大きい、こじんまりとした池が一つあった。それは目を凝らすと底が見えるような浅さで、まだ自然の名残りを多く残した湧き水は透き通り、水面は木々の隙間から差す日差しに反射するように揺れていた。
彼女がその場所を訪れたのは正午に差し掛かろうとした頃であったが、夏の日差しですら生い茂る影に阻まれて、まだひんやりと肌寒い空気が辺りを包んでいた。彼女はその場所に着くや否や無造作に地面に腰を下ろすと、スカートのポケットに手を入れ、ごそごそと弄って青色のガラス玉を取り出した。それを両手で一度握ったかと思うと、躊躇なく“池”に投げ込んだのだった。

ちゃぽんと水面が音を立てて揺れたのと、男の声が発せられたのは、ほぼ同時だった。

「ビー玉?」

息が辛うじて声になったような、なんとも息苦しい声を彼女が出したのは仕方ないだろう。彼女が声に驚いて反射的に振り向くと、そこに居たのはよく知った『最強』の級友の片割れであった。

「っげ、とうくん。あーびっくりした…」
「だろうね。声になって無かったよ」

夏油と呼ばれた男は悪びれもなく彼女にそう告げて、人の好さを滲ませて笑った。しかしその笑顔に彼女は答えることもなく、不服と言わんばかりに眉を潜ませる。しかし夏油はそんな彼女の無言の圧力よりも己の好奇心の方が優っていたようで、何も知りませんと言わんばかりに先程と同じ言葉を口にした。

「さっき投げてたのは、ビー玉?」
「…うん。ビー玉」
「またなんでこんなところで?」
「別に、意味は無いよ」
「私には言いたくないことだったかな」

彼女が困るのを分かっていて、夏油は少々申し訳なさそうに口にした。案の定、根っからのお人よしある彼女はぐっと息を詰まらせて、夏油への返事を言いあぐねていた。そんな彼女の姿が可愛くて滑稽で、夏油はふふ、と思わず息が漏れる。からかわれていると察したのか、彼女は立っている夏油の足元を軽く小突いた。

「今日の夏油君はなんだかお喋りだね!」
「私は元々お喋りだよ」
「嘘。私そんなに夏油君と話した覚え無いもの」
「それはほら、いつもは硝子や悟に君を奪られているから。私だって話したいと思っているのにね?」

だから今日はチャンスだ。
悪戯を思いついた子供のような声で、夏油はそう告げたながら彼女の隣に腰を下ろす。そうして背を丸め、目線を合わせて口を開く。彼の大人びた風体とは相容れない子供じみた様子に、彼女は少しだけ警戒心が溶けたように、薄く口の端をあげた。

「じゃぁ、夏油君がチャンスだと言ってくれているうちに寮まで一緒に帰ろうか」
「それはいいね。けどその前に、なんでこんな所に居るか興味の話をしてもいいかな」
「もう、しつこい男は嫌われるんだよ」

折角解かれた警戒心はみるみるうちに膨れ上がり、彼女は強制的に話を終わらせようとその場から立ち上がろうとした。しかし立ち上がった傍から夏油に手を引かれ、力で押されてもう一度座る羽目になる。力で押されては級友の男子に敵う筈も無いので、最後の反抗だと言わんばかりに彼女は夏油と視線を交わせながら、彼が紡ぐ言葉に静かに耳を傾けた。

「何をしていたか当てようか?」
「好きにしたら」

彼女が暴かれたくないのは明白だった。けれど夏油はその意を十二分に理解した上で、結局自分の意思を優先した。彼女も「好きにしたら」と言ったのだ。先ほど繋ぎとめた小さな手を少しだけ緩めた。本気で抵抗すれば、或いは逃げれば、そうやって少しだけ逃げ道をちらつかせて、けれど抵抗しない彼女に同意のような免罪符を貼り付けた。そうして夏油は彼女が本気で嫌がっていないことに少しだけ安堵したが、勿論顔に出すことはしなかった。

「そのビー玉は、君が今回の任務で救え無かった人間の数だろう」
「…」
「あれ?間違えたかな」
「夏油君って思ってたよりずっと意地悪」
「でも悟よりはマシだろう?」
「五条君を引き合いに出すところも意地悪だよ」
「すまない。友達が少ないんだ」

広角は上げたまま、けれど本当に申し訳なさそうな声色で謝罪を告げる夏油に、彼女はなんと返していいか分からず、また緩く絡められた指先をも、どうしていいのか分からなかった。無意識に口の端をきゅっと結んだ彼女はそれでも夏油から視線は外さない。それだけが彼女の矜持を守っているかのようだった。

「意地悪し過ぎたね」
「分かってるの。傲慢だって、こんなことしてる時間があるなら、もっと強くなるべきなんだって」


一瞬、強く風が吹いた。水面はさざめくように揺れて、それきり辺りは音を無くしたように一層静けさに包まれる。彼女の絞り出すような声は、自分は無力であると、そうやって自分自身を責める為の呪いのようだと夏油は思った。細い睫毛を揺らして、それでも下を向くことだけは出来ない彼女を力の限りに抱きしめて、それで世界が善意で満ちるのならどれだけ良かっただろう。柄にもなく祈るような気持ちで、夏油は無意識に指先に力を込めた。

「君を責めたい訳じゃ無いんだ」
「分かってる。私は大丈夫」
「…これは例えだけど。傲慢であることは悪か、弱いことは悪かという話だよ」
「それが呪術師なら、答えは悪だよ。私は夏油君みたいにはなれない。勿論五条君にも、硝子にも、」
「それでも私は、君を肯定したいと思ってる」
「…どうして?」

今日初めて、彼女は夏油と視線が合った気がした。先程までもずっと合わせてきた筈だったのに。霞のように段々と滲んでゆく視界の中ではっきりと意識して、彼女は今日初めて視線を下げてしまいそうになった。

「そうだな、頑張っている可愛い女の子を甘やかして悪いことがあるかい?」
「…それ、硝子にも言うの?」
「今その答えが聞きたい?」
「ごめん。やめとく」
「それは良かった。私にだって心の準備が必要だから」
「何の話してるの夏油君…」
「今日、初めて笑ったね」
「…お陰様で」
「___、帰る前に頼みを聞いてくれるかい?」
「なぁに?」
「私も一つ欲しいんだ」


"ビー玉"


衣服がぐっしょりと体に張り付く不快感で、思わず私は目を覚ました。薄っすらとした意識の中で時計に目を向けると、明け方には少し早い時刻だった。
まだ自分が高専生だった頃。生徒寮の西側の、小さな池。弱い自分の知られたくない秘密だった。どうしようもない悪癖。救ってくれた彼と、救えなかった彼。

「…最悪、」

10年も前のことだ。もうあの日彼がどんな声で私の名前を呼んでいたのか思い出せない。優しかったような気もするし、何も感情なんて乗ってはいなかった気もするのだ。いつも優しかった級友は、最後まで言葉遊びで本心を隠してしまった。否、私がその本心まで辿り着けなかったのだ。彼はその遊びの裏で確かにそこへ手招いていた。だってあの日私にビー玉を一つ強請った彼が、とても寂しそうに笑っていたのを私は覚えているんだから。

あの日以来、あの場所には行かなくなった。寮までの道すがら何方ともなく繋いでいた温度が、呪いとなったからだった。それからあそこに一人で行くのは、彼に対する裏切りのような気がしたのだ。そんな緩く約束にもならない呪いを私が勝手にしまって大切にしているうちに、彼はあっという間に手の届かない場所に行ってしまった。

「夏油君。今だって、悪だよ」

あの日彼に渡したビー玉を、彼は池に投げ入れることはしなかった。「ありがとう」と口にして、そのままズボンのポケットにしまったのだ。あれが誰かの命だったのか・はたまた、ただの戯れだったのか私には分からない。あの時もそれを訪ねることはしなかった。だからもう、彼の弱さを知る術はないけれど。願わくば今も彼の手の上で、小さく輝いていますように。薄れてゆく意識の中で、指先の温度に触れられた気がした。


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